矢上・1
警察手帳を交付されてから勤続37年。警視庁捜査一課の刑事として現場の最前線を駆けずり回っていた日々もすでに久しく、いまはデスクワークに従事しながら、静かに定年を迎えることを願いとしている。
「矢上さん、ちょっといいですか?」
いつものデスクで過去の捜査資料を確認していたところ、隣の席に座る
「なんだ? 喫煙室なら行く気はねえぞ」
「そんなんじゃないですよ、ちょっと見てください」
息子ほど年の離れた同僚は全くこちらの意を介さず、手にしたスマートフォンを勝手に見せつけてくる。
画面にはSNSの警視庁公式アカウントが表示されていた。
警視庁では連日、過去に発生した未解決事件の概要と情報提供の呼びかけを事件発生日に合わせて投稿している。ポストのひとつに自然と目が吸い寄せられた。
【#未解決事件 】
H××(20××)年10月12日、東京都渋谷区松濤一丁目の邸宅で火災が発生。邸宅に住む一家4人が遺体で発見されました。遺体には刃物で刺された痕跡があり、事件当日、帽子を被った女性が邸宅に入ったと近隣の住民が目撃している防犯カメラに記録されていることから、強盗殺人として捜査を進めています。#コールドケース
「あの松濤事件のリポスト数が2桁ってひどくないですか?」
「14年も前の事件だ。そんなもんだろ」
「にしたって関心薄れすぎでしょ。当時はあんなにマスコミも騒いでたのに」
「未解決事件がトレンド入りなんて、それこそ世も末だろうが」
矢上はぼやきながらも、過ぎ去った年月に想いを馳せた。
当時、捜査一課の強行犯係にいた矢上も捜査本部に駆り出され、地取りを担当させられた。捜査に長く携わったわけではないものの、時間の経過を思うと、苦いものが胸の奥からこみ上げてくる。未解決事件とは得てしてそういうものだ。
「これ、捜査本部は渋谷署ですよね。うちで専従捜査やらせてもらえないもんですかね」
「捜査本部といっても、ほぼ連絡窓口だけでまともに捜査はしてないらしいな」
「えっ? もったいない! だったら、いよいようちでやればいいじゃないですか」
「事件がデカすぎると、いろいろあんだろ」
矢上は肩をすくめながら、岡崎に向き直る。
「そもそも、俺たち五係はあくまで特命対策室の応援部隊。他の係の補佐が仕事だ。ヘルプに入ることはあっても、五係だけで専従捜査に当たることはない」
「でも、万が一ということも……」
「いいから、自分の仕事をしろ。また係長に嫌味を言われたいのか?」
岡崎は渋々引き下がり、「了解です」と黙ってキーボードを叩き始めた。
矢上たちが所属するのは、警視庁捜査一課特命捜査対策室第五係。
特命捜査対策室とは、殺人罪などの公訴時効廃止に伴って設立された、
その中でも第五係は、捜査本部が解散した未解決事件の捜査資料の再点検、他の係のヘルプなど、主に他の係の補佐を担当していた。
いうなれば特命捜査対策室の雑用係だ。
働き盛りの岡崎には、第五係の仕事は物足りなく思えるのだろう。後輩の若い野心が、矢上には眩しく見える。
と、机に置いていたスマートフォンが震えた。同期からの着信だった。
「久しぶりだな、
「ははは、ガミさん、お疲れさま」
原田警視から警察学校時代と変わらぬ呼び名で呼ばれ、こそばゆい気持ちになる。
「電話なんて珍しいな。副署長様はそんなに暇なのか?」
「いやあ、現場がすっかり恋しいよ。偉くなりすぎるのも考えものだね。そっちは例の天才警部様のとこだったね。どうなんだい、彼女は?」
「さあてな。天才の考えてることは凡人にはよくわからん」
軽口を叩きながら、矢上は空になった係長のデスクを一瞥した。今日は本庁で会議のため、戻ってはこない。
席から立ち上がり、誰もいない廊下に出ると、声を潜めて訊ねた。
「で、なんの用だ?」
原田は現在、渋谷警察署の副署長を務めている。都内の大規模警察署を束ねる人間が業務時間中に雑談の電話をかけてくるはずがない。
「実はうちに情報提供の問い合わせがきててね。できればガミさんに聴取を頼みたいんだ」
「んなもん、そっちで対応しろよ。なんでわざわざ俺が――」
「捜査本部の取り決めで、情報提供があった際は特命捜査対策室に回すことになってんだ。うちはあくまで連絡窓口みたいなものだからさ」
胸騒ぎがした。
渋谷署に設置されている捜査本部。今日という日付に寄せられた情報。未解決事件を取り扱う特命捜査対策室への連絡。
「情報提供ってのは、どの事案だ?」
原田は低い声で言った。
「松濤だよ。次の土曜日、被害者の同級生が話をしたいと言ってるんだ」
◇◆◇
松濤事件の端緒は20XX年10月12日深夜11時15分、火災の通報からだった。
火災現場は渋谷区の高級住宅街、松濤一丁目にある
1時間に渡る消火活動の末、鎮火された現場からは4人の遺体が発見された。
遺体の損傷は激しく、崩れ落ちたシャンデリアによって頭部が圧壊。容貌も性別も判別できない状態だった。
居住者たちと連絡が取れなかったことから、発見された遺体のDNA鑑定を実施。
親類との比較から、4人の遺体は居住者の家族――笹木圭吾(52)、笹木
さらに遺体にはすべて刃物で刺された跡があり、現場付近には4人の血が付着したナイフが捨てられていたことから、殺人事件であると断定されたのである。
警視庁は殺人および放火罪の容疑で捜査を開始。管轄署である渋谷署に特別捜査本部を設置し、のべ10万人の捜査員を投入した。
日本有数の高級住宅街で起きた凄惨な犯行ということもあり、事件は世間の耳目を集めた。警察は早期解決を掲げて全力で捜査に当たったが、火災によってほとんどの物証は消失しており、捜査は難航。また過熱化したマスコミ報道により、捜査本部へのプレッシャーも高まり、捜査方針も幾度となく変わった。
そうして捜査は袋小路にはまり、世間が事件のことを忘れるにつれ、捜査本部の規模も自然と縮小した。現在は専従捜査員がいない、形だけの捜査本部となってしまった。
事件発生から14年が経ついまも、解決の目処はついていない。
「情報提供者は
「参考人として聞き込みを行なったことはあるのか?」
「結城は3年次で転校してるんだ。笹木勇輔と一緒の学年だったのも1年ほどだよ。関わりとしては正直なところ薄いね」
笹木勇輔。殺された笹木圭吾の長男。
素行の悪さや悪評が立っていた人物だ。勇輔がなんらかのトラブルに巻き込まれたために起きた犯行ではないかという話も、捜査本部では何度かあがっていた。
「本当は特命捜査対策室宛に連絡するのが筋なんだけど、あの事件に関わってた知り合いの意見も聞きたくてね。本庁と歩調を合わせるなら、ガミさんがやってくれたほうが面倒も少なくて済む。頼むよ。おたくの係長には僕から連絡しておくからさ」
どうやら、それが本音らしい。断る理由もないので引き受けることにした。
証言内容をあとで報告書として提出することを条件に、係長の許可も下りた。これも形式的な報告で終わるだろう。
月曜日。矢上が渋谷警察署を訪れると、わざわざ原田が出迎えに来てくれた。
「もう情報提供者も来てる。気が弱そうな人だからお手柔らかに頼むよ」
松濤事件の捜査本部は副署長である原田が責任者となっている。
このため取り調べには原田も同席することになっていた。
矢上は一息いれると、応対室の扉をノックし、入室する。
長机に置かれた椅子に座っていた男性が立ち上がり、こちらに頭を下げる。
落ち着きのない顔だった。緊張が見て取れる。小心者なのは間違いなさそうだ。
なるべく威圧感を与えないように気をつけながら、矢上は話を切り出した。
「事件を担当している警視庁捜査一課の矢上です。今日は捜査協力のため、ご足労いただきありがとうございます」
「ど、どうも。結城です」
結城は恐縮しながらも、ふーっと大きく息を吐いた。コミュニケーションが不得手なタイプらしい。矢上はなるべくゆっくりとした口調で話しかける。
「笹木勇輔さんとは小学校時代の同級生だったそうですね。結城さんは当時、どちらに住んでたんですか?」
「池尻大橋です。3年生の頃に、実家の事情で日野市に引っ越しましたが」
「なるほど。それは苦労されたでしょう」
「いえ、どちらかというと日野での生活のほうが肌に合ってましたね。松濤にいた子たちは、なんというか、別世界の子たちでしたから」
松濤には、政治家や実業家、医師、芸能人といったマスコミにも登場する人間たちが住んでいる。別世界の子というのは正直な感想だろう。
それでも結城は、被害者である笹木勇輔さんとは気が合ったらしい。
「僕たち、ゲームの趣味がとてもあったんです。僕らが子供の頃はみんなスーファミで遊んでたんですけど、勇輔くんはセガサターンのソフトに詳しくて……互いの家にもよく遊びに行ってたんです」
結城はそこで不意に表情が暗くなった。
「だからニュースを見た時はとてもショックでした。あの家が燃えて、勇輔くんやお姉さんたちが殺されたなんて……」
事件当時のショックを思い返してか、結城の顔が暗くなる。
警察にとって事件は日常茶飯事だが、一般市民にとってはそうではない。身近な誰かが犯罪に巻き込まれるなんて想像もしない人間が大半だ。
「それでも結城さんは来てくれた。なにか思い出したことがあるんですね」
矢上の言葉に、結城は意を決したように切り出した。
「あの家にはもうひとり、住んでいたはずなんです」
「住んでいた? 誰がですか?」
「子どもです。当時小学生だった僕や勇輔くんとおなじ年代の子どもです」
矢上は自身の困惑を気取られないようにしながら、相手の表情を観察する。
少なくとも結城に嘘をついている気配はない。
「長女の瑞穂さんとは違う方なんですか?」
「違います。瑞穂さんも勇輔くんも、その子は『ここに住んでる子』だと言ってました」
あまりに予想外の方向に話が展開している。隣にいる原田も困惑しているのか、固く口を閉じていた。
「結城さんがその子どもに会ったのはいつか覚えてますか?」
「会ったのは2、3回です。勇輔くんの家に遊びに行ったときでした。部屋やリビングで遊んでると、いつのまにかその子が混ざってたんです」
「いつのまにか、というのは?」
「言葉のまんまです。気がつくと、隣にいて僕たちと遊んでるんです。あまりにも自然に溶け込むので不自然だと思えないくらいでした」
「その子が誰なのかはわかりますか? 名前は? 年齢は?」
「それが、わからないんです……」
申し訳なさそうに結城は首を振った。
「たしかにその子と遊んだ記憶はあるんです。なにをしたのかも覚えてます。でも、その子の本名も人相も思い出せないんです。男の子だったのか、女の子だったのかも……」
頭を抱えそうになった。新しい手がかりがつかめると期待していたわけではないが、これではまるで怪談だ。
「でもひとつだけ、覚えていることがあります」
こちらの気など知らず、とっておきの情報を披露するかのような顔で、結城は言った。
「その子は、トージと呼ばれてたんです」
「トージ?」
人名の漢字にすると冬児か、藤次か。いずれにしろ男の子の名前に聞こえる。
トージ、トージ、トージ、トージ、トージ。
なにかが引っかかる。
この名前を、矢上は知っている気がした。
「お話したいことはそれだけですかな?」
原田はわざとらしい笑みを浮かべて立ち上がる。
「本日はありがとうございました。捜査の一助として参考にさせていただきます」
「えっ? あ、はい」
「おい。まだ話は――」
矢上の抗議も無視し、原田は署員を呼び出し、結城を送らせる。まるで追い出されるように結城は退室してしまった。
「どういうつもりですか、原田警視」
「彼の話が終わったので打ち切らせただけだよ。あれ以上は時間の無駄だ」
「無駄かどうかはまだわかりません。もし彼の話が本当なら、その子どもは重要な証人となる。子どもが誰なのか突き止める価値はあるはずです」
「怪談話を検証するために、捜査人員の貴重なリソースを回せと?」
「実際に動くのは俺たち、特命捜査対策室だ。そう言ったのはてめえだろ、原田」
原田は言い返さない。
後ろめたいものがあるように、わずかに目を伏せた。
「お前、なにを隠してる?」
「隠してはいないよ。定年が近いからね。余計なことに首を突っ込みたくないんだよ」
原田は疲れ切った目で懇願するように言った。
「ガミさんも余計なことはしないでくれ。お互いにもう無茶できる年齢じゃないんだ」
「いったいなんの話だ?」
「トージくんだよ。丸山のこと、忘れてないだろ?」
彼は松濤事件の捜査中、事故で急死した。
そのときに丸山が追っていたのが「トージくん」。
事件現場の近くで語られていた、子どもの名前である。
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