睦子・1
新しい家を探している。
間取りは3LDK。最低でも2LDKは欲しい。自分と娘の寝室、子ども部屋は絶対条件。仕事用の書斎として使える部屋があればいうことはない。
とはいえ、それが高望みなのもわかっている。金がないシングルマザーの分不相応な夢だ。
まずは当面、安心できる寝床が確保できれば、それでいい。
不動産業者の社用車であるワンボックスカーは急な坂道に差し掛かり、がたがたと車体を揺らした。担当者の
「すいません、
「さっちゃん、平気?」
「うん」
紗代子は平気なふりをして頷く。まだ4歳なのに、心配をかけないよう気を遣っているのだろう。幼い娘にそんな我慢を強いているのが申し訳なかった。
「今度のおうちはね、丘の上にあって、とっても広いんだって。どんなところか楽しみだね」
睦子が語りかけると、紗代子はきょとんとした表情になった。
しばらくして眉間にしわを寄せ始める。
「ふーん……」
ちっとも楽しそうではない。やはり住み慣れた部屋を去ることの不安が強いのだろう。
睦子たちはこれまで都内の古アパートに住んでいた。
紗代子が赤ん坊の頃から過ごした部屋だ。親切な大家が子守りを手伝ってくれたおかげで、睦子も仕事をこなし、糊口をしのぐことができた。
しかし半年前、大家から次の賃貸更新はできないと告げられてしまった。
「ごめんね。このアパート、来年取り壊すことにしたの」
アパートの建物が老朽化し、これ以上の経営は無理だという判断になったらしい。大家も建て替えはせず、土地を売って、息子夫婦のもとに身を寄せることに決めたのだという。
あと半年で、睦子たちは次の転居先を見つけなければならない。
実家との縁も切れており、他に頼れる場所のない睦子はあらゆる伝手を頼り、様々な不動産業者を回り、物件を探した。
しかし収入の不安定さに加え、シングルマザーであることがネックとなり、なかなかいい条件の部屋が見つけられなかった。なるべく紗代子に肩身の狭い想いをさせず、かつ自分も自宅での仕事に集中できる。そんな部屋を望むと、途端にハードルが上がってしまう。
担当者からは何度も譲歩するように言われ、中には「贅沢ですね」とストレートに嫌味をぶつける者もいた。もう諦めかけていたそのとき、多摩市にある不動産屋の担当者から連絡があった。条件に見合う部屋が見つかったというのだ。
「空きが出ないことで有名な団地でしてね。きっと気に入ると思いますよ」
そこは民営の分譲団地であり、ファミリー世帯に人気があるという。
本来、賃貸物件ではないらしいが、部屋の持ち主の意向により、ひと部屋だけ賃貸として貸し出されることになったのだ。
提示された条件は確かに魅力的で、間取りも申し分なかった。
確認する価値はあるかもしれない。
そしていま、睦子は紗代子を伴い、物件の下見へ向かっている。
九十九折りになった坂道を上りきったワンボックスカーはやがて団地の敷地に入った。入り口には看板が設置されている。
【多摩ファミリアコーポ】
停車後、紗代子と一緒に車を降りると、いきなり声をかけられた。
「こんにちは」
子どもたちが数人、睦子のもとに集まっていた。小学校低学年くらいだろうか。手にはサッカーボールを抱いている。駐車場で遊んでいたらしい。
「ほら、お兄さんたちが挨拶してくれてるよ。さっちゃん、こんにちはは?」
「こんにちは」
紗代子がぎこちなく挨拶すると、子どもたちは笑い、パッと駆け出していく。見知らぬ人にも挨拶するよう親たちが言い聞かせられているのだろう。
子どもたちの歓迎を微笑ましく思いながら、建物を見上げる。
多摩ファミリアコープは多摩市の丘陵地に築かれた分譲団地である。4階建ての集合住宅で、こちらから見える棟には16戸の部屋が入っているようだ。
各棟には階段室が設えられており、部屋の扉が向かい合わせになる格好になっている。築数は20年近く経つらしいが、外壁は滲みひとつなくまっさらだ。最近塗り直したのかもしれない。
「ご案内の部屋は向こうの棟です。中庭をつっきっていきましょう」
階段室の奥は吹き抜け構造になっており、棟の向こう側へ抜けることができた。睦子は紗代子の手を引き、あとについていく。
吹き抜けの先にある中庭は4棟の建物に囲まれていた。ちょうどこの団地は空からみると「ロ」の形を成す構造になっているらしい。
芝生で覆われた地面には遊歩道が敷かれており、道沿いには花壇やベンチが設置されている。花壇に咲く色とりどりの花から甘い匂いが漂っていた。
「こーんにちはぁ」
ベンチに座る男性が間延びした声で挨拶してくる。目が細く、うっすらと微笑みを浮かべている。視線の焦点が定まっておらず、夢見心地のようにも見える。
睦子は軽く会釈しながら、通り過ぎようとする。
すると紗代子が急に立ち止まった。
「どうしたの?」
声をかけるが、返事はない。食い入るような目で一点を見つめている。
娘の視線を追った睦子はそこで初めて中庭に鎮座するそれに気づいた。
中庭の中央に大きな塔がそびえていた。
とっくりのような形をしており、頂部分が大きく膨らんでいる。壁面は黄色に塗られており、住棟とおなじだけの高さを誇っていた。
膨らんだ頂部分には大きな二重丸が描かれている。真ん中は黒丸になっているため、まるで巨大なひとつ目のようだ。
「給水塔ですよ。いまは使われてないんですが、モニュメントとして保存されているんです」
聞かれ慣れているのか、田中が先回りして解説してくれた。
各住棟には中庭に面した窓があるため、どの部屋からも給水塔が自然と目に入る造りになっているようだ。
よほど気に入ったのか、紗代子は給水塔を見ながら、にこにこと笑っている。
「ほら。向こうの人を待たせてるから。早く行くよ、ね?」
何度も呼びかけると、ようやく紗代子は動き出してくれた。
田中の案内によりB棟の4階にたどり着く。
403号室。表札には部屋主の名前が記されている。
【
田中がインターフォンを鳴らすと、ほどなくしてドアが開いた。
「どうも、よくお越しくださいました」
精悍な男性が白い歯を見せながら出迎える。後ろには睦子とおなじ年頃の女性と、先ほど駐車場で出会った子どもと同年代の男の子が立っていた。
「武藤です。こちらは家内の恵と、息子の太一です。今日はよろしくお願いします」
「八津川です。今日はお休みのところ、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ荷造りの最中で散らかっていまして……」
武藤が恐縮する横で、妻の恵は頭をさげる。緊張しているのか、どこか表情が固い。
息子の太一は恵の足につかまりながら、興味深そうにこちらの様子を伺っている。おそらく同年代の紗代子に興味を示しているのだろう。
紗代子はといえば、人見知りな性格のためか、睦子の影に隠れてばかりいる。
「どうぞ、お入りください」
武藤に促され、睦子たちは部屋にあがった。
まず武藤は玄関に入ってすぐ正面にある和室を案内する。
「普段、書斎として使っている部屋なんですが、窓が南向きになっていて、とても見晴しがいいんですよ」
窓を見せてもらった睦子は眼下の景色に感嘆の息を漏らした。
丘のすそ野に集った住宅街、紅葉に染まり始めた木々、遠方にそびえる山々の稜線。それらすべてがパノラマ写真のように視界に収まっており、壮観ですらあった。
多摩ファミリアコープは丘の上に建てられている。その最上階ともなれば、眺めの良さも格別だろう。
続いて、通されたのはダイニングキッチンだった。
7畳ほどの広さのスペースは、洋室と和室に挟まれた構図になっており、海外から取り寄せたという調度品が置かれていた。武藤家では洋室とダイニングキッチンを隔てる壁を一部取り除き、リビングにしているらしい。
リビングと化している洋室には大きなL字型のソファと、去年発売されたばかりの新型テレビが置かれている。
いまの睦子たちの生活からは想像できないモノばかりがこの部屋には溢れている。
「本当に素敵な部屋で驚きました……」
「そう言っていただけて嬉しいです。ここは子どもがいるご家庭も多いですから、娘さんにもすぐ友だちができますよ」
「そう、ですね」
素敵な部屋だという言葉に嘘偽りはない。
だからこそ、気にかかることがあった。
「だけど、本当にこんな素敵な部屋の家賃が5万円でいいんですか?」
「ええ!」
武藤は力強く頷きながら、
「我々も事情があって、転居することになったのですが、部屋自体に愛着はあったので売りに出したくなかったんです。持ち部屋を貸し出すのは初めてだったので、賃料も変に高く設定したくなくて」
「子どものいる世帯だけが対象というのは?」
「どうせ使ってもらうなら、育児を第一に考えている方にお預けしたかったんです。もともと、我々がここを選んだのも子育てのためでしたから」
「それは、私のような人間でも、ですか?」
一瞬、武藤はきょとんとした顔になっていた。が、すぐに合点がいったのか、
「むしろ八津川さんのような方にこそ、使っていただきたいくらいです。女手ひとつ、小説のお仕事で娘さんを養うだなんて。立派じゃないですか」
睦子は小説を書いて生計を立てている。ひと昔前は売れっ子だと胸を張れたが、それも紗代子が生まれる前の話だ。自分がまともな人間だったら、部屋を借りるのにも苦労しなかった。紗代子も父なし子にさせずに済んだ。
「そんな大層なものじゃないです。小説家といっても、ただの文筆業ですよ」
笑顔を取り繕いながら答える。
すると、太一がいきなりリビングにある引き戸を開けた。
「ここ、ぼくの基地」
引き戸の先はサンルームになっていた。
本来は洗濯物の干し場として用意された空間には、ミニカーや人形が乱雑に置かれている。すっかり子どもの遊び場所になっているらしい。
太一は窓のほうに近寄ると、人見知りな紗代子が珍しく、太一のそばに駆け寄った。一緒についていった睦子は「あっ」と声をあげそうになった。
先ほどの給水塔と目が合ったのだ。
すぐにそれは錯覚だと気づく。頂に描かれた二重丸の模様がまるで眼のように見えたためだ。どうやら給水塔の頂には4つの眼が描かれており、四方を取り囲む住棟にそれぞれ向けられているらしい。
まるで団地を監視しているかのように。
やがて紗代子と太一は給水塔に向かって手を振り始めた。
給水塔のふもとに誰かが立っている。
ゆらめく影法師のような、黒衣の女性だった。女性は背中まで伸ばした艶のある黒髪に、鴉羽色のワンピースを纏っている。
黒衣の女性はまっすぐこちらを見つめている。
「あの方は?」
「
多摩ファミリアコーポは管理組合による自治が強いと聞いている。理事長のような人物なのだろうか。
紗代子は嬉しそうに手を振りながら、窓を開けて言った。
「またね、トージくん」
トージくん?
睦子は首を傾げた。誰のことだろう。中庭には子どもなんていなかったのに。
するとこちらを振り返った紗代子はぱっと表情を明るくした。
「ママ! ここ、お城みたいだね! すっごくすっごく広いね!」
紗代子の反応で、睦子の心は決まった。
娘がこんなに喜んでくれているのだ。再出発を図るのに、ここほどふさわしい場所もないかもしれない。
「決めました。武藤さん、こちらで契約を進めさせていただいてもいいですか?」
「本当ですか!?」
武藤は大げさに驚きながらも笑顔になる。そして睦子の手を強く握った。
「ありがとう、八津川さん! 助かりました! 本当にありがとう!」
たかが賃貸の契約で大げさな。もしかすると武藤のほうでも中々、貸し出せる人が決まらず、困っていた事情があるのかもしれない。
大人たちの反応を、紗代子は不思議そうな目で見ていた。
「ママ。けーやく、ってなに?」
「ここに住むってこと。さっちゃん。ママたち、この部屋に引っ越すんだよ」
「おひっこし!」
歓喜した紗代子はやったーと万歳する。
娘の姿を微笑ましく思いながら、ふとサンルームのほうを見る。
武藤の妻である恵が息子を抱きしめながら、怯えた顔で給水塔を見つめていた。
「恵さん?」
声をかけると、恵ははっとこちらに向き直り、強張った笑顔を浮かべた。
「ああ、ごめんなさい。契約していただけることになったんですよね」
「はい。大切に使わせていただきます」
睦子の言葉に、恵はなにかを言いたそうな顔をしている。しかし彼女が口を開く前に、田中が強引に割り込んできた。
「さあ、八津川さん。こちらで今後の相談についてお話しさせてください」
「え、ええ」
後ろ髪を引かれながら、睦子はもう一度給水塔のほうを振り返った。
頂の眼がこちらを見ている。
まるで新たな入居者を見定めているかのように。
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