矢上・16
いつのまにか花見もしないうちに、桜の季節が終わろうとしている。
わずかに花びらを残しただけの桜を眺めながら、矢上は墓が並ぶ霊園を歩いていた。
片手には雑巾とバケツを、胸ポケットにはセブンスターの箱がしまわれている。
丸山はセブンスターの愛好家だった。あの世が禁煙でなければ、手土産として喜んでくれるだろう。
松濤事件の決着がついたら、報告に来るつもりだった。
まさか14年もかかるとは思いもしなかった。
とはいえ、あくまで決着である。解決ではない。もう事件は永遠に解決することがなくなってしまったからだ。
被疑者である笹木瑞穂が死亡した。
死因は急性心不全。直前まで、体調の異変に気づいた職員はいなかった。
取調べや留置場での被疑者の扱いに問題がなかったか、洗いざらい調べることとなり、矢上と真鶴も槍玉にあげられた。
しかし、ひとまず被疑者の扱いに問題はなかったという結論になり、不運な死亡事故として処理された。
一部のマスコミからは非難があがったものの、世間をにぎわすニュースが起きると、世の関心はあっという間にそちらに向いた。
まだオリベ童子にまつわる事件に関わり、被疑者として逮捕された団地の住民たちがいるため、彼らへの取調べや捜査は続いている。しかし松濤事件の捜査本部はふたたび縮小に向かっているようだ。
近いうちに解散するだろう、と原田も話していた。
これから先、警察が松濤事件を掘り起こすことは二度とない。
事件はひとつの結末を迎えたのだ。
丸山の墓まで近づいた矢上は、墓の前に先客がいることに気づいた。
真鶴だ。
「おや。奇遇ですね、矢上主任」
「お疲れさまです、真鶴係長。……なぜ、こちらに?」
「丸山巡査部長には、交番時代にお世話になっていたんです。事故で亡くなられたのは聞いていましたが、松濤事件に関われてたことを知ったのは最近だったので」
すでに墓には線香が立てられている。
真鶴もずっと休みが取れていなかったことを思い出す。久しぶりの休みができた日に、揃って墓参りする格好になったらしい。
「……どうやら伝えたかったことは、係長が先に伝えてくださったようですね」
矢上は墓前にしゃがみこむと、セブンスターを備え、線香をあげる。しばらく手を合わせ、久しぶりの挨拶になったことを胸中で詫びた。
墓前の挨拶を終え、立ち上がると、真鶴が訊ねてきた。
「もしかして以前話していた、トージくんを追っていた刑事というのは――」
「ええ、丸山です」
矢上は頷いた。
「あのとき、喫煙所でトージくんの名前を教えてもらっていなかったら、私は結城の証言を気に留めていなかったかもしれません」
再捜査にこぎつけられたのも、丸山が遺してくれた手がかりのおかげかもしれない。時間はかかってしまったが、報いることはできたのかもしれない。
「そうですか」
真鶴はわずかに眉間にしわを寄せた。
なにかを考え込んでいる。
気になるところだが、せっかく真鶴がいるので聞きたいことがあった。
「そういえば笹木圭吾について少し調べてたんですが、面白いことがわかりました」
「面白いこと?」
「まだ笹木香織と結婚する前、旧姓の田中圭吾だった頃、彼は多摩市で不動産業者の職員として働いていたそうです。その田中圭吾が関わっていた物件でひとつ、興味深いものがありましてね。係長は『多摩ファミリアコーポ大火災』のことはご存知ですか?」
「ええ、名前だけは」
真鶴は言葉少なに答える。真鶴の年齢ではまだ小さい頃なのでピンとこないのかもしれない。
平成の初頭、多摩市にある分譲団地、多摩ファミリアコーポで起こった大火災である。
火事の原因は中庭で行われていた焚き火だが、冬の乾燥した空気と強風があいまって、火は尋常ではない勢いで燃え広がった。そして団地中を焼き尽くしたという。
住民はほぼ全員が死亡。幼い子ども1名が救助された。
しかし、この多摩ファミリアコーポにはいくつか大きな謎があるという。
「多摩ファミリアコーポには、団地内で薬物が出回っていた噂があるようなんです。しかも内偵していた刑事がふたり、捜査中に行方不明となったのち、火災現場から遺体となって発見された。当時、私は交番勤務でしたが、警視庁内じゃ、大事件だって専らの噂でしたよ」
「その火災に、田中圭吾……オリベ童子が関わっていたと?」
「オリベ童子の関連まではわかりません。ただ田中圭吾は一時期、多摩ファミリアコーポの部屋を貸し出していたらしいんです」
それが誰だったのかは記録が残っていないため、わからない。しかし、多摩ファミリアコーポに田中圭吾がなんらかの形で関わっていたのは事実である。
それだけではない。
「多摩ファミリアコーポにも給水塔があったそうなんですよ。どうも子どもが多い団地でもあったらしい。なんだか、笹木瑞穂が潜伏していた団地によく似ていると思いませんか?」
もしかすると、オリベ童子はもともと多摩ファミリアコーポに居着いていたのではないか。
そこに潜んでいたオリベ童子を田中圭吾が連れ出し、笹木邸を築いた。
そして笹木邸から逃亡した瑞穂が、別の団地にオリベ童子を中心とした檻を築いたのだとしたら。
真鶴がどう思うか、意見を聞いてみたかったが、彼女の反応は冷めていた。
「矢上主任。職務外の捜査に首をつっこむのは、あなたの悪い癖です」
「係長が言えた台詞ではないでしょ」
「私は真剣に言っているんです。もうこの事件は終わりました。我々にできることはなにもありません」
なぜか、真鶴の眉間には皺が寄ったままだ。丸山の話をしたときから、彼女はずっとなにかを気にしている。
妙な不安が矢上の胸をよぎった。
「どういう意味ですか?」
「オリベ童子に囚われたのは犯人や被害者だけではないかもしれない、という話です」
まるで謎かけのような言葉だ。
いったい誰のことを指しているのか。考えても思い当たらなかった。
真鶴は矢上がピンと来ていないのを察してか、視線を丸山の墓へ移した。
まるでなにかを示唆するみたいに。
「仮に、多摩ファミリアコーポにオリベ童子が居着いていたとしましょう。ではなぜ、団地の住民のほとんどが命を落とすことになったのでしょうか」
「それは、オリベ童子が去ったから?」
瑞穂が潜伏していた団地でも、団地を出た人間が命を落とす事例が確認されている。
ザシキワラシとおなじだ。ザシキワラシが去った家は災いが起き、没落する。
「ではなぜ、丸山巡査部長は亡くなったのですか。なぜ14年前には、犯人につながる手がかりが次から次へと失われ――」
真鶴は目を細まる。
「再捜査した我々には、なんの災禍も降り掛からなかったのでしょうか」
矢上はなにも答えられなかった。
峯岸の事故も結局、瑞穂が団地の子どもに指示して行わせた傷害事件だった。
すべて法のなかで裁ける、犯罪行為である。祟りなどではない。
今回の再捜査では、祟りなど一度も起こらなかった。瑞穂が潜伏していた団地の住民もいまだに生きている。
いったい、どういうことなのか。
矢上の答えを待つことなく、真鶴は先に用事があると言って、墓前から去った。
彼女が去る直前になって、矢上は初めて真鶴がカーネーションの花束を抱えらていることに気づく。
訊ねると、母親の墓に供えるのだという。
「最近、こちらの霊園で弔われることになったので。久しぶりに顔を見せてきます顔
去っていく真鶴の背中を見送りながら、矢上はオリベの女性のことを思い出した。
彼女の遺骨も無縁仏としてこの霊園に合祀されていたはずだ。
真鶴のいう母親が誰か。さまざまな想像はできるが、詮索はしなかった。
彼女が語らない以上、それは事件には関わりのない物語なのだ。
代わりに、真鶴の先ほどの言葉を反芻する。
オリベ童子に囚われた者。
いったい、誰のことなのか。
笹木瑞穂も、笹木家の人間も亡くなった。
あと生き残っているのは団地の住民だけ――
そこまで思考を巡らせて、矢上の脳裏にある想像がよぎる。首筋から冷たい汗が湧き出た。
思わず、丸山の墓のほうを見る。
しばらく矢上は墓から目が離せなくなった。
◇◆◇
原田にも、真鶴にも、余計なことに首をつっこむなと警告された。
彼らの言うとおり、矢上は職務外のことに介入しようとする癖が強いらしい。
少なくとも、松濤事件が終結したいま、矢上がやろうとしていることは蛇足な行為なのも自覚はしていた。
それでも確かめずにはいられなかった。
矢上は控えていた連絡先に電話をかけ、日野市にある相手の居家を訪ねた。
「ご無沙汰してます、結城さん。今日は突然お邪魔して申し訳ありません」
「いえいえ! お越しいただけて嬉しいですよ、刑事さん」
結城昌也と会うのは、渋谷警察署での事情聴取以来である。
あれから半年が経つが、結城は以前よりも精悍になった。自信がみなぎっているように見える。
「実は脱サラして、両親のラーメン屋を継いだんですよ。最初は試行錯誤してながらだったんですけど、最近、開発した新メニューが大当たりしまして」
経営の調子はまさに鰻登りで、都内にも複数の店舗を展開する話が持ち上がっているらしい。絵に描いたような成功者の道を歩み始めているようだ。
矢上がリビングにあがる途中、結城の妻と、7歳になる結城の息子から挨拶された。
結城の息子はちょうど家の前で友だちと遊ぶところだという。
「すいません。遊びたい盛りなもので」
「いえ、子どもは元気が1番ですよ」
結城からお茶を勧められたが、公務にあたるか微妙なので念のため、断った。
私用での訪問とはいえ、事件に関わることを訊ねたかったからだ。
「しかし驚きました。まさか瑞穂さんが生きていて、しかも事件の犯人だったなんて……」
松濤事件の顛末は、結城もニュースで見聞きしていたらしい。
結城はショックを受けたように頭を振った。矢上は結城を気遣いながら、
「今日、お訪ねしたのは、結城さんの証言について確認したいことがあったからです」
と、本題を切り出した。
「トージくんのこと、結城さんは最近になって急に思い出したと話されていましたよね」
「はい。もうずっと忘れていたんですけど」
「思い出したきっかけは、なにかあったんですか?」
「きっかけ?」
トージくんやオリベの名前は箝口令が敷かれており、マスコミにも表立って公表はされていない。結城はトージくんと事件の関係を、いまだに知らないはずだ。
結城は首を傾げる。しばらく考え込むが、「そういえば」となにかを思い出していった。
「息子を連れて、両親がいる実家に遊びに行ったんです。実家といっても、ここからはそんなに遠く離れてはいないんですけど。向かっているときだったかな。急に息子が立ち止まって、誰かと話を始めたんです」
「誰か、というのは?」
「わかりません。なんだか見えないお友だちと話してる感じでしたね、らイマジナリーフレンドっていうのかな。ずいぶん楽しそうに話していて、僕の子どもの頃はどうだったかな……と考えてたんです。そしたは勇輔くんの家でのことを思い出したんです」
「息子さんは以前から、イマジナリーフレンドと話をする傾向が?」
「いいえ、初めてですよ。あの場所を通りかかったときにかな。だから、余計に印象に残って」
いまの結城宅は日野市と多摩市の境目に位置する。
両親の家もここから近いという話だったが、矢上のよく知る場所も、実は結城宅からそれほど離れてはいない。
「ご両親はどちらにお住まいなんですか?」
「ああ、実は……」
結城は気まずそうな顔になりながら答えた。
「多摩市のS町。いろは坂を上った丘の上にある住宅街です。瑞穂さんが潜伏していた団地のすぐ近くなんですよ」
矢上の全身に鳥肌が走った。
松濤事件の再捜査が始まったのは、トージくんの証言がきっかけだ。
その証言は結城が偶然、子ども時代の記憶を思い出したことに起因する。
しかし、それは本当に偶然だったのか。
再捜査を進めながら、矢上たちには祟りが降りかかることはなかった。
笹木瑞穂は迫りくる捜査の手に焦り、殺人未遂を起こした。
なぜオリベ童子は笹木瑞穂に手を貸さなかったのか。14年前は祟りとしか呼びようがない災いを、捜査員たちにもたらしていたのに。
そしてなぜ、団地の住民はいまも生きているのか。なぜ、笹木瑞穂は死んだのか。
童子は自らを縛る看守――笹木瑞穂を殺したかったのではないか。
そして用済みになった団地の住民は捨て置かれた。彼らの生死など童子にはどうでもいいことだったからだ。
もし、矢上たちの再捜査がすべて、檻から出ていくことを望んだオリベ童子の思惑に沿っていたのだとしたら。
オリベ童子に縛られていたのは、笹木家の人間や、団地の住民だけではない。
矢上たち、警察の側だったのではないか。
「刑事さん。顔色が悪いですよ、大丈夫ですか?」
「あ、ああ、すいません。なんでもないんです」
矢上は笑顔を取り繕いながら、もうひとつ気になっている点を訊ねた。
「最近、結城さんは経営がうまくいくようになったと話していましたよね。それはいつ頃からですか?」
「この1ヶ月くらいかな。ホント、福の神でも舞い降りたみたいですよ」
1ヶ月。瑞穂とオリベが亡くなったのと、ちょうどおなじ頃だ。
矢上は頭を振った。これ以上踏み込むべきではない。ここから先は、矢上が対処できる領分をとうに超えている。
「貴重な話をありがとうございました。今日はこれで失礼します」
「そうですか。どんなお役に立てたかわからないですけど、またなにかあればいらしてください!」
結城の笑顔が眩しく見える。この笑顔が曇らないことを矢上は心から願った。
真鶴は言った。
もう我々にできることはなにもない、と。
矢上とおなじく、真鶴もまた刑事の生き方を選んだ人間だ。警察という檻で生きることを選んだ人間だ。
ならばこそ、檻の領分から出るべきではない。
この世ならざるものを感じ取り、此岸と彼岸の境目に立っている真鶴はきっとそのことをよくわかっているのだろう。
事件はたしかに終わったのだ。
早く矢上は退場しなければならない。
この世ならざるものが織りなす、不条理な檻に囚われる前に。
玄関を出ると、結城の息子が友だちと一緒に家の前で遊んでいた。手をつなぎ、円陣を組んでぐるぐると回っている。
彼らの姿を微笑ましく思いながら、駅へ向かおうとしたとき、急に子どもたちは唄い始めた。
かーごめーかーごーめ かーごのなーかのとーりーはー
いーついーつ でーやーるー
よーあけーの ばんにー
つーると かーめが すーべった
うしろのしょうめん だーれ
よくある『かごめかごめ』の童謡である。
オリベ様も、トージくんも出てこない。しかし、矢上は遊んでいる彼らの姿から目が離せなかった。
円陣の中心にいるはずの鬼役がいない。
空っぽなのだ。手をつなぎ、輪をつくって子どもたちは互いに顔を見合わせて、くすくすと笑い合う。
彼らは誰と話しているのだろう。
彼らの目には、輪の中心に誰が見えているのだろう。
すると結城の息子がくるりと矢上のほうを振り返る。
結城の息子がこちらに笑いかけた。
口元を三日月の形に歪めた、満面の笑顔だった。
わらべの檻 久住ヒロ @shikabane-dayo
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