睦子・15
数年前、昭和天皇が崩御し、元号が平成に変わった。
「国内外にも天地にも平和が達成される」という意味が込められているらしい。
新しい元号にはいまだに違和感を抱いているが、意味は素敵だと思った。紗代子が育ち、生きる時代は平和な世で在り続けて欲しいと本気で思った。
しかし、いまの睦子は平和からほど遠い場所に立ってしまっている。
「全員、動くな」
給水塔の前にやってきたのは、芹沢だった。頬には返り血がついている。処分した刑事のものだろうか。頭にはゴーグルのようなものをかけている。
芹沢の手にはリボルバーの拳銃が握られていた。
睦子は息を殺す。おそらくあれは刑事たちから奪った物だろう。
「はっ、玩具で私らを脅そうっていうの?」
仮面をつけた亜紀が息巻くと、芹沢は地面に向けて発砲した。
弾痕が地面に穿たれた。衝撃で燭台の火が消える。亜紀は悲鳴を上げ、その場に腰を抜かした。
「次に喋ったら当てる。いいな?」
その場にいる全員が固唾を飲んでいる。紗代子もなにが起きたのかわからず、その場で固まっていた。
芹沢は銃口を睦子に向けた。
「こっちに来い。オリベは背負ったままだ」
睦子は芹沢の協力者だ。撃たれるはずがないと頭ではわかっているのに、銃口を向けられる恐怖を拭うことはできない。
それに紗代子はどうすればいいのか。
どうやって、紗代子を連れていけばいいのか――
「無駄なことはやめなさい」
睦子と芹沢の射線のあいだに、守部が割って入る。
「動くな、と言ったはずだ」
「あなたの計画はうまくいかない。またおなじ失敗を繰り返すつもり?」
「おなじことを繰り返しているのはあんたもだろ。次のオリベを用意して、それでどうなる。いつまで、この檻を続けるつもりだっ」
「檻の中でしか生きられない人間もいる」
守部は首を振った。
銃が怖くないのか、まるで子どもを諭すような口調で語り続ける。
「あなただってそうでしょ? いまさら団地の外に出て、どうやって生きるというの? 何人もの人間を殺してきたあなたが」
「出たら、自首する。刑務所のほうがここよりマシだろ」
「オリベ様を連れて出た者が、外で普通に生きられるわけがない」
睦子の背後でもぞもぞと動く気配がした。
もっこの中にいるオリベが反応している。繰り返し、なにかを呟いている。
おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん。
芹沢の構える銃が震える。
「さよこ……」
芹沢から娘の名前が洩れる。しかし芹沢の視線は紗代子にではなく、睦子が背負うオリベに向けられている。
さよこ。
先ほど、給水塔で聞いた童子の記憶を思い出し、ようやく気づいた。
いま、背中にいるオリベが何者なのかを。
睦子はオリベとなった女性を、この団地に来る前から知っていた。
芹沢
そして樋川キャロルに、最初にファンレターをくれた女の子。
冬の風が中庭を吹きすさぶ。
まるで誰かが息を吹きかけたように地面に置かれた燭台の火が一斉に消えた。
次の瞬間、団地中が闇に閉ざされる。
すべての部屋の照明が、遊歩道を照らす街灯が、灯りという灯りが消える。視界にはなにも見えなくなる。
皆がどよめき、狼狽える中、睦子は紗代子を探した。しかし、どこにいるのかまったくわからない。
「こっちだ」
いきなり誰かに手を引っ張られた。芹沢の手だ。
このまま逃げるつもりらしい。
まだ紗代子が見つかっていない。焦ったそのとき、小さな手が睦子の裾を掴んだ。暗くてよく見えないが、振袖を着ているのはわかった。
よかった。紗代子だ。
睦子は安心させるように、娘の手を取ると、意を決して芹沢と共に走り出した。
芹沢の足取りはまるで道がわかっているように迷いがない。先ほど、芹沢が頭につけていたゴーグルに思い至る。
どうやらあれは暗視ゴーグルだったらしい。
「この停電も芹沢さんが?」
「協力者が団地の変電施設を壊した。いま外で待ってる。そいつの車に乗り込めばいい」
「信頼できる人なの?」
「こっちの事情はよく知ってる」
オリベや童子の事情を知っている外部の人間などいるのだろうか。
睦子には見当がつかない。
娘と一緒にここから連れ出してくれるなら、誰でもいい。
「頑張ってね、さっちゃん。もう少しだよ」
睦子が声をかけると、隣にいる紗代子は暗がりの中でこくりと頷いた。
団地じゅうに睦子たちの足跡だけが響く。こちらを追いかけてくる気配はない。もう少しで外へ出られる。
急に芹沢が立ち止まった。
「どうしたの?」
訊ねても、返事はこない。芹沢はひどく緊張しているようだった。
たくさんの息遣いが聞こえた。睦子たちの進路を何者かが塞いでいる。
あっ、と睦子は声をあげた。
無数の白い眼が闇夜に浮かんでいた。
いつのまにか睦子たちの前に子どもたちが立ちふさがっている。ぼんやりした輪郭だけしか見えないが、眼だけは光源を発しているのように爛々と光っていた。無数の白い視線がこちらに突き刺さる。
なぜ、こちらの居場所がわかったのだろう。
「トージに呼ばれてきたんだな」
芹沢はなにかを構える。暗くてまったく見えないが、気配でわかった。
拳銃を子どもたちに向けているのだ。
「芹沢さん、正気なのっ」
「仕方ない。撃たないとこっちがやられる」
芹沢の声はぞっとするほど平静だった。動揺している気配がない。
激しくなる動悸を抑え、睦子は子どもたちを見た。
銃を向けられても、子どもたちは動じた様子がない。
見えていないのか。気に留めていないのか。
「相手は、子どもでしょ。子どもを、撃つなんて」
「団地からオリベを連れ出せば、こいつらも死ぬ。いま殺すか、見殺しにするか。それだけの違いだ。あんたも覚悟してたんだろ?」
「そう、だけど」
娘の前で、子どもを殺すのか。
いまの恐ろしい光景を見せないようにするため、紗代子を腰元に抱き寄せた。寒さのためか、娘の身体はひどく冷たい。
暗闇の中、睦子と芹沢の吐く息が白く散った。
おにいちゃん
背中から声が漏れた。甲高いしわがれた声だ。
「小夜子。そうだ。兄ちゃんだぞ」
芹沢が乾いた声で答える。ひどく優しい声音だった。
「外へ出よう。お前が好きだった樋川キャロル先生も一緒なんだ。きっと楽しいぞ」
そと。
背中にいるオリベ――芹沢小夜子がオウム返しに兄の言葉を反芻する。
「ちゃんとした病院へ行けば、お前の病気も良くなる。だから、」
「だめ」
腰元から知らない声が聞こえた。
睦子は抱き寄せている紗代子を見下ろした。顔は見えない。声だけが娘のほうから発せられている。
「子どもを撃っちゃだめ。おにいちゃん」
「さっちゃん?」
息が止まりそうになる。
闇の中で、芹沢がこちらを振り向いた。暗視ゴーグル越しに見えているはずの芹沢は言った。
「あんた、誰と話してる?」
睦子は娘だと思っていたものを離し、後ずさりした。
小さな人影が立っている。ぼんやりとした輪郭しか見えず、振袖らしきものを着ていること以外はわからない。
顔だけはぼんやりと白く浮かんでいる。目も鼻も耳も見えず、口元が三日月のように歪み、まっさらな歯が覗いている。
白い子ども。トージくん。童子。
「ここにいよう」「みんなで暮らそう」「お母さんも」「友だちも」「おばさん、おじさんも」「みーんな、ここにいるよ」
オリベから、童子から、子どもたちから、輪唱のように次々と言葉が吐かれる。
「静かにしろ。撃つぞ」
芹沢の呼吸が荒くなる。
すると、子どもたちは一斉に笑いだした。
げらげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら
「笑うなぁっ!」
芹沢の手元が動いた。カチャリと引き金を引かれる音がした。
バン
閃光と共に、乾いた破裂音が響く。
子どもたちの笑いがぴたりと止んだ。誰も倒れた者はいない。芹沢からひゅーひゅーという息が洩れる。「芹沢さん?」と睦子は呼びかけた。
すると芹沢の身体がぐらりと揺れ、そのまま倒れた。
「芹沢さん!」
近寄った睦子は芹沢の身体に触れた。手がべったりと生温かいものに触れる。風に乗って、血の匂いがした。
「あーあ。撃っちゃだめ、って言ったのに」
睦子は声がしたほうを振り返った。
童子はどこにいなくなっていた。代わりに一筋の光が睦子たちに差し込まれる。
守部だ。彼女は仮面を外し、懐中電灯を手にしていた。傍らには怯えた顔をしている紗代子がいる。
懐中電灯が倒れた芹沢の姿を照らしだす。
芹沢の喉から血が流れている。破れた気道から息が洩れていた。手中の拳銃はシリンダーが破裂している。暴発した弾が芹沢の首を貫通したらしい。
リボルバーは本来、暴発が少ないと聞いたことがある。こんなふうに突然、暴発する可能性がどれだけあるのか。
守部はそっと芹沢に近寄り、しゃがみこむ。
「馬鹿な子。囚われてたのは、あなたもおなじでしょうに」
血の気が引けている芹沢の顔を優しくなでる。芹沢はあえぎながら、守部に向けてすがるように手を伸ばした。
かあ、さん
言葉にならない声が夜の中に溶けた。
伸ばされた手はどこにも届かず、ぱたりと地面に落ちる。芹沢の眼は虚空を見つめたまま、なんの光も映さない。
守部は芹沢の目元に手をやり、瞼を閉じると、すぐに立ち上がった。
「行きましょう。儀式の続きをしなくては」
「息子さんを置いていくんですか」
睦子の言葉に、守部は立ち止まった。少しだけ彼女は息を吐く。
「私には息子も娘もいないわ。この団地とオリベを守るために切り捨てた。母親の資格なんてない」
「でもっ」
「言い争いをしている時間はないわ」
守部は睦子の背中を指さす。もっこの中にいるオリベは苦しそうに呼吸をしている。死が近づいている。
「継承が行われないまま、オリベが死ねば、童子は団地から去る。そうすれば、あなたも紗代子ちゃんも死ぬのよ?」
「ママ」
紗代子が不安そうに呼びかける。
睦子は芹沢の亡骸を一瞥してから、よろよろと立ち上がった。
計画は失敗した。
もう、この団地から出る術はない。
守部は歩きだす。睦子は後ろをついていくしかなかった。紗代子が睦子に付き添う。冷たい空気の中、紗代子の身体に温もりを感じる。
ざっざっ、と足音が響く。
睦子は守部の背中を見つめる。
いまさらなにを言っていいのかわからないが、これだけは伝えるべきだと思った。
「私、芹沢小夜子さんからの手紙、大事にしまってます」
守部は振り返らない。
それでも睦子は一方的に話し続けた。
「私のデビュー作に、一番最初にファンレターを送ってくれたんです。泣いちゃうほど嬉しくて、彼女の手紙があったから、私は作家としてやってこれた」
本当は返事を書きたかったのだが、芹沢小夜子からの手紙にはいつも住所が記載されていなかった。
それでも芹沢小夜子は時折、自分の手紙に記していた。兄がいること。重い病気にかかっていること。死への恐怖を睦子の小説が救ってくれたこと。
「彼女の病気は早老症ですよね。老化が早く進行する病気。あの給水塔で彼女と会ったとき、すぐに気づいてあげられればよかった」
肉体は年老いているが、本来の小夜子はまだ二十歳にも届いてないのではないか。
娘を助けるのに必死だったとはいえ、あんなに取り乱したのが申し訳なかった。
睦子たちがオリベ童子の檻に閉じ込められたように、芹沢小夜子も逃れようのない肉体の檻にずっと閉じ込められていたのだ。
「たぶん、両足を切断したのも……」
「重度の糖尿病を併発してね。両足が壊死したから、切断せざるを得なかったの」
ふふふ、と守部は初めておかしそうに笑った。
「団地から逃げられないように、両足を切断したとでも思った?」
睦子はなにも答えられなかった。
一度抱いた先入観に囚われた自分が恥ずかしくなった。
「聞いてもいいかしら」
守部が訊ねる。なんでしょう、と睦子は応じる。
「どうして、自分の娘にサヨコと名付けたの?」
「自然と頭に浮かんだのが、その名前だったんです。私にとっては大恩ある名前でしたから。勝手に娘さんの名前を借りて、ごめんなさい」
「さっきも言ったはずよ。私に娘なんていない」
でも、と守部は続けた。
「たぶん芹沢小夜子は喜んだはずよ。大好きな作家の大切な一部になれたのだから」
もしかしたら、と睦子は思う。
童子が紗代子を次のオリベに選んだのは、睦子が樋川キャロルだと気づいたからではないのか。
そもそも睦子が多摩ファミリアコーポに入居することになったのも、芹沢小夜子の意思が宿った童子の導きだとしたら。
オリベは童子であり、童子はオリベである。
そしてこれから、娘の紗代子が新たなオリベとなる。
逃れる術など最初からなかったのか。
睦子が娘に名前をつけたときから、檻になる運命は決まっていたとでもいうのだろうか。
給水塔の前には焚き木が組まれ、仮面をつけた参列者たちが睦子たちの到着を待っていた。
「さあ、古きオリベをあそこに」
守部は焚き木を指さす。睦子にはもう抗う術も気力もなかった。
睦子はもっこを背中から下ろし、焚き木の上に置いた。もっこの中で、芹沢小夜子は胎児のように丸まり、うずくまっている。
芹沢小夜子の肉体が燃えても、彼女の魂は童子の中に残るのだろうか。オリベになって、彼女は幸せだったのだろうか。
どれだけ想像を巡らせても、無責任な想像の域を出ることはない。他人の幸せなどわかりようがないからだ。
ただ自分がおぞましい行為に加担したこと。死後の世界があるなら確実に地獄へ落ちることは理解できた。
焚き木の上にもっこを置くと、円陣に加わる。睦子は振袖姿の紗代子と手を握った。守部が円陣から外れて、焚き火のそばに寄る。手にしたライターを点火すると、もっこに向かって恭しく頭を下げた。
種火となるライターが焚き木に放り込まれる。焚き木が一気に燃え上がった。
まるでなにかの意思が宿ったかのように膨れ上がった炎は焚き木と枯れ草を土台に、もっこと中に入ったオリベを飲み込んだ。
生きたまま、芹沢小夜子が焼かれる。
おーりべ おーりべ おりべのなーかのトージさま
朗々とした声で、守部が歌う。
すると誰からともなく円陣が動く。炎を囲んで、ぐるぐると回りだす。
おーりべ おーりべ おりべのなーかのトージさま
いーつ いーつ でーやーる
煙は勢いよく天を登る。甘い匂いに混ざって、命の焼ける匂いが鼻をついた。
現実感が失われる。夢と現の境目が溶けていく。
大麻の煙が理性をはく奪し、自己を融解させる。オリベ祭りでも継承の儀でもなぜ薬物が使われるのか、よくわかる。神霊を招く器に自我など邪魔なだけだ。だから古来より、シャーマンたちは様々な手段で自我を奪い、霊や神を招いてきた。
仮面をつけた囚われ人たちがぐるぐる回る。その中に振袖を着た娘が混ざる。
炎の中で、焼け屑となったもっこが崩れ、黒い人影が蠢く。あれは骸だ。古きオリベだ。もう死んでいる。それなのに燃え盛る炎の中でオリベの骸はゆったりと踊っていた。熱で肉や臓器が膨張しているせいかもしれない。焚き木の爆ぜる音に、子どもの笑い声が混ざった気がした。
ぎゅっと手が強く握られる。夢から覚めたように、睦子は現実へと引き戻された。
炎に照り返される紗代子は唇を固く握りしめながら、古いオリベを見つめている。
そんな紗代子の横顔に既視感を覚えた。
いつだったか、初めて多摩ファミリアコーポへ来た車の中でも、紗代子はこんな顔をしていた気がする。
よーあーけーのばーんに
つーるとかーめがすーべった
紗代子は優しく聡い子だ。周りの空気を読み、気を遣い、自分より他人の気持ちを慮ろうとする。引っ越しのときも、慣れ親しんだ家を去る不安もあったろうに、わがままひとつ言わなかった。
子どもらしいわがままを、許してあげられなかった。
睦子がいい母親ではなかったから。
ちゃんと父親がいたら。実家と仲がよかったら。小説家なんて仕事じゃなかったら。売れっ子のままでいられていたら。紗代子をこんなことに巻き込ませずに済んだ。新たなオリベになんてさせずに済んだ。
睦子が紗代子をこの檻に連れ込んでしまった。
どうすればいいのか。
どうすれば、紗代子をこの檻から解放できるのか。
オリベは童子であり、童子はオリベである。
守部の言葉が何度も反芻される。
古いオリベ。新しいオリベ。童子の中に息づく芹沢小夜子。睦子が裏切った大切な読者。未完に終わった物語。
センセイの頭にある続きを書いて。
私の中に、アリスはどこにもいないの。
いない子の物語は書けないの。
だったら、先生の中にアリスを連れ戻して。
続きを書きなよ。
うしろの しょうめん だーれ?
円陣がぴたりと止まる。
ごうと音を立てて、炎は勢いを増した。天へと昇っていた煙が風に散らされるように薄れ、白い霧となっていく。
霧は地面に流れ込み、気流を無視して、這うように広がっていくる。
笑い声が響いた。
霧の中から小さな人影が立ち上がる。背丈は紗代子とおなじくらい。振袖を着ている。子どもだ。輪郭ははっきりと見える。だけど、顔だけがわからない。目も鼻も耳もない。わかるのは笑っている口元だけ。
白い子ども。トージくん。童子。
童子はゆっくりと紗代子のもとへ向かう。古き檻を捨て、新しい檻へ。童子の手が紗代子へ伸ばされ、触れる間際まで近づいた。
考えるよりも先に、睦子の口が動いた。
「黄泉の国に迷い込んだアリスは、黄泉の女王に捕まった」
童子の手が止まる。
まっさらな顔が睦子のほうへ向けられる。
「そのあと、アリスがどうなったか。続きを、知りたくない?」
紗代子が目をまんまるに見開いている。
母親の言動がわからずとも、なにかをしようとしていることがわかったのかもしれない。仮面を着けた参列者たちにも戸惑いが広がる。
オリベは童子であり、童子はオリベである。
童子のなかに芹沢小夜子の魂が息づいているなら、興味を示さないはずがない。彼女の求めるは、睦子の中にあるのだから。
「あなたが入ってくれたら、私は続きを書ける。私が子どもになれば、アリスを私のなかに連れ戻せる」
『黄泉の国のアリス』は睦子のなかにある「子どもの空想」を源泉とした物語。
童子と睦子がひとつになれば、一度は枯れた物語もふたたび芽吹くだろう。
だから――
「やめなさい、睦子さん。なにを考えているの」
守部が声を震わせている。
睦子がやろうとしている行為の意味を察したのだろう。
守部も、団地の住民も、彼らの言葉なんてどうでもいい。
紗代子の顔を見る。
少しだけ父親の面影を感じる。睦子とは目元が似ているかもしれない。彼女は大きくなったら、どんな女性になるのだろう。どんな人でもいい。自分を愛してくれなくてもいい。ただ、幸せであってくれればいい。
子どもに檻は似合わない。
外の世界へ解き放つべきだ。
紗代子の顔を瞼に焼き付けてから、童子に告げる。
「私をオリベにしなさい、童子。新しい檻は、ここにある」
童子の口元が動いた。
三日月の笑みを浮かべると、声が響いた。
いいよ
ぐにゃりと童子の姿が霧散した。目に見えぬ煙となった童子は襲い掛かるように、睦子に飛び込んだ。
口から、鼻から、煙が入り込んでくる。息が苦しい。気道が侵され、肺が満たされる。血管が沸騰し、胃酸が逆流し、腸は暴れ、心臓の鼓動は暴れ馬のように跳ね上がる。神経が、脳が、焼き切れそうだ。
娘の泣き声が聞こえた。誰かの怒号も聞こえた。すべて音としてしか知覚できない。言葉としてしか認識できない。
頭蓋のなかに無数の声が響く。すべて子どもの声だ。笑い声、泣き声、悲鳴、癇癪。瞬きするたびに見える光景が変わる。焼け落ちた古の都、どこかの長屋、屋台が並ぶお祭り、空襲で焼け落ちた町、ビルの裏にあるドブ街、見慣れた団地。これらはすべて童子の記憶だ。童子とつながったオリベの記憶だ。いつも知れぬ時代から童子のなかには連綿とオリベの魂が蓄えられてきた。
そしていま、睦子も童子の一部に加わる。
これまでたどった幸せも、生き様も、思考も、そのすべてが、童子の一部となる。
大きな波が来る。
睦子の魂を攫ってしまうような大きな波が。
自分がどうなるのかわからず、震えそうになる。
それでも、きっと紗代子を守りたいという気持ちが消えないことは確信できた。
たとえ母親でなくなったとしても、娘を愛してることに変わりないのだから。
波が来た。
睦子の魂は洗い流される。攫われる。夜空に似た黒い大海に飲み込まれる。
苦しさのあまり、睦子は叫んだ。
産声にも似た叫びだ。
新しい檻が産声をあげた。
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