睦子・6

 先月出版した新作『アルマの島』の重版がまた決まった。これで4刷目だ。近年の出版業界では、まず例を見ない勢いだという。

 テーブルを挟んだ向かい側に座る担当編集はすっかり鼻息を荒くしていた。

「いやはや、こんなの私も経験ないですよ。いつもは部数を絞る営業部もすっかり刷れ刷れモードになってて。次巻は弊社でも過去最高の初版部数を出すって息巻いてて」

「あんまりプレッシャーかけないでくださいよ」

 睦子は笑いながら、ティーカップの取手に指をかける。

 駅前にあるレトロな喫茶店は、睦子の大のお気に入りだった。団地から近いこともあり、担当者との対面の打ち合わせはもっぱらこの店で行っている。

 以前は睦子から出版社へ足を運んでいたものだが、いまは彼らのほうから出向くことが多い。今日の打ち合わせも新刊のゲラを渡すだけなのに、わざわざ近所まで来たくらいだ。

「でも『アルマの島』の売り上げ、ほんとに凄まじいですよ。編集長もこの調子ならアニメ化も間違いないって言ってました!」

「また、そうやって、すぐおだてて」

「本当の話ですよ。それに、これは内密ですけど――」

 担当は身を乗り出し、まわりに誰もいないのに関わらず声を潜めて言った。

「『黄泉の国のアリス』シリーズ、先生がよろしければ、うちで再出版を考えてもいいと、編集長も言ってましたよ」

 睦子はティーカップを置く手を止めた。半分まで減ったコーヒーが器の中でゆらゆらと揺れている。

「ご存じですか? トレジャー文庫の×××さん、退職されたんですって。向こうの編集さんのほとぼりも覚めたみたいですし、これってチャンスじゃないですか」

 ×××さん。

 まだ睦子が樋川キャロルを名乗っていた頃の、担当編集者。そして紗代子の父親。名前を聞くだけで、以前は頭痛を覚えたのに、いまはなにも感じない。

 あの頃の痛みを克服したからでも、強くなったからでもない。

 本当に、なにもかもがどうでもよくなったkらだ。

「いま、先生はノリに乗ってます。この波に乗りましょう! 伝説の作家、樋川キャロル復活を大々的に銘打てば、書店だって大盛り上がりで――」

 叩きつけるようにティーカップを置いた。ガシャンという無機質な音が店内に響き渡る。睦子の手にコーヒーがかかった。

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている担当に、睦子は笑顔で答えた。

「『アルマの島』2巻目のゲラ、いただいてもよろしいですか?」

「は、はい。こちらに」

「ありがとうございます」

 睦子はゲラの入った封筒を受け取ると、バッグに入れる。椅子から立ち上がると、顔面蒼白な顔をしている担当に穏やかに告げた。

「週明けには赤入れして送ります。娘の迎えがあるので、これで」

「あ、あの、先生。私、とんだ失礼を――」

「いいんですよ。怒ってないですから、私」

 そう、全然怒ってなんかいない。

 小説も、小説の売り上げもどーでもいい。

 ドアを開け、睦子は店の外へ出る。

 駅前にある喫茶店は丘の麓に位置しており、中腹や頂に建てられた家屋や建物を見ることができる。

 その中には、多摩ファミリアコーポの姿もあった。麓から眺める団他は、まるで真っ白い城のようだ。

 いつのまにか空の大半は灰色の雲によって占められている。ひと雨くるかもしれない。そのうち雨が降るかもしれない。

 睦子は足早に保育園へと向かった。

 保育園に着くと、紗代子は室内の片隅にひとりでいた。積み木遊びをしているらしい。

 周囲には誰もいないにも関わらず、紗代子はまるでそこに親しい友達がいるようにはしゃいだ声をあげて、笑っている。

 呼びかけようと近づくと、こちらが声をかける前に、紗代子は振り向いた。

「ママ!」

 駆け寄った紗代子は勢いよく睦子の身体にぶつかる。

 全身で娘を受け止めてから、クラス担任の明美に挨拶をしようとするが、明美は会釈するだけで他の園児の応対に回ってしまった。あからさまに、こちらを避けようとする態度を隠そうともしない。

 数カ月前、紗代子をからかっていた男児がひどいケガを負った。男児は知らない子どもに突き飛ばされたと言ったらしい。

 その子どもはトージくんと名乗ったという。

 以来、明美はトージくんのことを「空想のお友だち」とは呼ばなくなった。それとなくカウンセリングの受診も勧められたが、睦子はその提案を無視している。

 やがて明美たちはなにも言わなくなり、他の園児の親も紗代子や睦子と関りを避けるようになった。

 黄色いレインコートを紗代子に着せ、睦子は保育園を後にする。

 傘にぶつかる雨音のビートが雑音をかき消す。車道にはほとんど乗用車の姿がない。手に握った紗代子の小さな感触だけが世界を実感させる。

 もう、あの保育園にも長くはいられないかもしれない。

 以前、隣人の亜紀から聞いたところによると、団地に住む子どもたちのほとんどは幼稚園にも、保育園にも通っていないらしい。

「団地の子は団地の子同士でつるめばいいのよ! 怖いものなんてなーんにもないんだから」

 それでは、社交性が損なわれてしまうのではないか? と訊ねたところ、亜紀は笑いながら答えた。

「そんなもの、団地の子たちに必要だと思う?」

 亜紀たちは、自分の子も含めて、この団地から出られないものだと思っている。そもそも出る気もないのだろう。

 団地に居続けさえいれば、安穏とした暮らしを享受できる。わざわざ出て行く理由もない。そうやって団地の住民たちは外の世界と関わりを持たなくなり、やがてあの箱庭のような団地の敷地だけを世界として生きていくことになる。

 皆、檻に囚われている。

 抵抗する気を失くした睦子は、不動産業者の田中に仲介してもらい、武藤家の遺族に403号室を買い取らせてもらえないか連絡を取った。

 遺族からは、すぐに了承の返事がきた。

 もう団地の件に関わりたくないのだろう。

 睦子たちはバス停にたどり着いた。バス停には誰もいない。車道の路側帯には雨水が黒い川となって流れており、木の葉や枯れ枝を容赦なく坂下へ押し流していた。遠くでパトカーのサイレンが聴こえる。

 紗代子はその場でうずくまり、興味深そうに水の流れを見つめていた。睦子は娘に傘を差しだしながら、団地へ向かうバスの到着を待つ。

「さっちゃん。そんなところに座ってると危ないよ。立ちなさい」

「うん」

 と、返事をしたのに紗代子はまだ立とうとしない。すっかり自分の世界に夢中になっているようだ。

 子どもの見ている世界がうらやましい。どんなに些細な事柄も、娘の目には違う輝きが見えているのだろう。

 睦子は嘆息しながら、娘の頭をポンポンと叩く。

「ねえ、さっちゃん。いま、楽しい?」

「うん」

 紗代子は頷く。「そっか」と睦子も頷きながら、水の流れを見つめた。

 そうだ。これでいい。

 いま、大事なのは紗代子が幸せであるかどうかだ。

 だったら、トージくんだろうと、オリベ様だろうと、受け入れてしまえばいい。

 現に小説の仕事もうまく回っている。

 生活に困ることもない。

 親子ふたりで暮らしていくなら、いまの団地の部屋でも十分に事足りる。

 檻に囚われて生きて、それのなにがいけないというのか?

 シューッと水を切る音が坂下から聴こえた。赤いセダン車が坂道を上ってくる。すぐに睦子は紗代子に立つよう促し、後ろに下がらせた。

 赤いセダン車はバス停を通過していくが、なぜか急に減速を始める。それからゆるゆるとバックし、睦子たちの目の前で停車した。

 わけがわからないでいると、運転席のドアが開かれた。マウンテンパーカーを羽織り、フードを被った男が雨にも関わらず、顔を出す。

 荒んだ目つきの青年に、睦子は見覚えがあった。

芹沢せりざわさん?」

「……どうも」

 芹沢真一しんいち。団地の中庭を掃除している青年である。

 睦子が初めて存在を認識したのは、半年前。いつも中庭のベンチに座っている堀田を連れて帰らせようとしたときだった。

 それからも時折、中庭で会うことがあったが、ほとんど話したことはない。

 なぜ、いきなり自分たちの前で車を停めたのか。

 睦子が戸惑っていると、芹沢は憮然とした表情を崩さないまま言った。

「車が下でスリップ事故を起こしてた。交通止めを食らってる。しばらくバスは来ない」

 さっき聴こえたサイレンを思い出す。あのパトカーは交通事故の対応のために走っていたらしい。

 ここから団地までは坂道が急で時間がかかる。しかもいまは雨が降って足場が悪い。どうしようかと迷っていると、芹沢は後部ドアを顎で指した。

「乗る?」

 突然の申し出に、睦子は驚いた。好意に甘えるよりも、警戒のほうが先にくる。

「でも、私たち、雨で濡れてますし。それにこの子も小さいですから……」

「ちょっと濡れるくらい、別にいい」

 芹沢はこともなげに言ってから、

「乗りたくないなら、それでもいいけど」

 と、付け加えた。

 雨に打たれているにも関わらず、芹沢は顔を出したまま、こちらの返事を待っている。雨はますます勢いを増していた。紗代子も好奇心に満ちた眼差しを赤いセダンに向けていた。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

 後部ドアを開けると、レインコートを脱がせてから、紗代子を乗せる。睦子も続くと、運転席に戻った芹沢が白いタオルを後ろに回してくれた。

「新品だから。使えば?」

「……すいません。なにからなにまで」

 睦子はお礼を言いながら、タオルで紗代子の頭を拭いた。助手席を見ると、買い物袋が置かれている。買い出しの帰りだったらしい。それからシートベルトを締めたのを確信し、芹沢は車を発進させる。

 フロントワイパーで車窓についた水を弾かせながら、車は坂道を昇っていく。意外と走行は快適だった。

 こちらに対し、余計な口を挟もうとしない。ルームミラーを見ても、芹沢の表情を伺うことはほとんどできなかった。

 芹沢について知っていることはふたつ。時折、中庭を掃除していること。堀田以外の人間とは交流がないこと。それだけだ。

 どれくらい団地に住んでいるのか。トージくんや、オリベ様をどう思っているのか。気になることはあるが、それを尋ねられるほどの関係性ではない。

「なあ、あんた」

 不意に芹沢から声をかけられる。

 ルームミラー越しに、芹沢と視線が合った。彼の表情は依然として荒んでいるが、敵意のようなものは感じられない。

「小説家っていうのは、ホントなの?」

 なにを聞かれるのかと身構えていた睦子だが、意外と当たり障りのない質問に拍子抜けした。狭い団地だ。自分が作家であることくらい、どこかで耳にしたとしてもおかしくない。

「ええ。といっても、少年少女向けのファンタジー小説ですけど」

「知ってる。樋川キャロルだろ?」

 えっ、と睦子は小さく声を漏らした。

 樋川キャロルの名前は団地の誰にも教えたことがない。それなのになぜ、芹沢は知っているのだろうか。

「知り合いが、好きだったんだ。『黄泉の国のアリス』。昔、サイン会やったんだろ? 雑誌に載ってる写真も見たことあったから」

「そう、だったんですね……」

 動悸が止まらない。捨てたはずの過去が冷たい刃となって、その切っ先を喉元に突き付けてくる。

 すると初めて芹沢の表情に変化が見られた。

「聞いたらマズイことだったか?」

「ごめんなさい。ちょっと、いろいろあったものですから」

「そうか。悪い」

 芹沢の言葉にはこちらを気遣う響きがあった。

 多摩ファミリアコーポに引っ越してきて初めて、団地の住民と人間らしい会話ができたような気がする。

「芹沢さんは、団地に住んで長いんですか?」

 せっかくなので、こちらからも尋ねてみる。

 芹沢は少し間を置いてから、

「20年くらいかな。新築だった頃から住んでる」

 どうやら答えてはくれるらしい。

 さらに質問を重ねよとして、睦子は躊躇った。どこかでトージくんに聞かれている。そんな恐れが常にあったからだ。

「大丈夫。トージならいないよ」

 なぜか芹沢は断言するように言った。

「どうして言い切れるんですか?」

「わかるんだよ。気配というか、そういうのが。もう子供の頃みたいには見えなくなったけど。……そうだよな?」

「うん! トージくん、いまいなーい」

 紗代子も太鼓判を押す。

 そう、と睦子は頷きながら気づく。芹沢もまた、子どもの頃にトージくんが見えていた。それはまるで、紗代子の大人になった姿を目の当たりにしているようにも思えた。

 睦子は膝の上で両の手を握りながら、尋ねる。

「トージくんや、オリベ様は、いつからこの団地に?」

 少し沈黙があった。

 ワイパーの無機質な音が車内を一往復したのち、ぽつりと芹沢は答える。

「13年くらい前だな。いきなり現れて、あとはまあ、いろいろあって、いまみたいになった」

 意外と最近だ。

 芹沢が越してきた頃は、普通の団地だ。しかしどこからか現れたオリベ様やトージくんが団地を現在の檻に変えていった。

「オリベ様って、いったいなんなんですか?」

 芹沢は答えなかった。じっと車の前方を眺めている。

「オリベ様がなんなのか、誰も教えてくれない。あの給水塔の中には、いったいなにがあるんですか?」

「それを知ってどうする」

 芹沢は投げやりに言ってから、

「別に知らなくたって、団地の暮らしで困ることはないだろ」

「そうかもしれないですけど……」

 ルームミラーに映る芹沢が探るような目つきになる。

「もしかして、あんた、この団地から出たいのか?」

 睦子は答えに詰まった。芹沢の視線から逃れるために、顔を伏せる。

 答えに窮しているあいだに、セダン車は団地の駐車場にたどり着いた。運んでくれたお礼に、芹沢の部屋まで買い物袋を運ぼうと提案したが、断られてしまった。

「あんまり俺と一緒にいるとこ、団地の連中に見られないほうがいい」

 行けよ、と促され、睦子は紗代子を連れて、駐車場を去った。

 見られないほうがいい、とはどういうことなのか。

 芹沢は団地の住民から、どういう扱いを受けているのだろう。

 幾つもの疑問を浮かべながら、芹沢の質問を反芻する。

 ――もしかして、あんた。この団地から出たいのか?

 そんな問いかけに意味などあるのだろうか。

 団地から出る方法などないというのに。

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