睦子・7

 久しぶりに徹夜をした。

 急ぎの原稿があり、作業が朝までかかってしまったのだ。ようやく執筆が終わり、リビングに出ると、もぞもぞと布団が動きだした。

「ママ、おはよう」

 紗代子が眠い目をこすりながら、こっちを見ている。

 娘の早い起床に苦笑しながら、睦子は声をかけた。

「今日は早いね。ママ、とっても眠いから、もう一度お布団入らない?」

 なんとか自分が眠るために二度寝の誘いを持ち掛けるが、紗代子は「イヤっ」と首を振る。もう完全にお目覚めの態勢になっているらしい。

 苦笑した睦子はキッチンに取って返し、インスタントコーヒーを淹れる。マグカップから立ち昇る香りを嗅ぎ、眠気を少しでも晴らしながら、サンルームに出た。

 紗代子は屈託のない笑顔を浮かべながら、給水塔に描かれた眼を見つめる。まるで友達に挨拶するように「おはよう」と声をかける。

 それからひとりでうんうんと頷き、時々おかしそうに笑った。

 誰と話しているのかは、もう聞くまでもない。

 香りを嗅ぐのをやめ、睦子はコーヒーを喉に流し込んだ。痺れるような熱さと共に、まだ溶け切ってない粉末が舌先に残る。

 しばらくぼんやりしていると、急に紗代子がリビングに取って返し、そのまま玄関へと向かおうとする。

 慌てて、紗代子の手を引いた。

「さっちゃん、どこ行くの?」

「トージくんに呼ばれた。外で遊ぼうって」

「遊ぼうって……いま6時だよ。遊ぶには早いでしょ」

「でも、呼んでるし」

 紗代子はすっかり外で遊ぶ気になっている。こちらの言葉に聞く耳を持とうとしない。眠気もあってか、苛立ちが募った。

「もっと明るくなってからでいいでしょ? ママ、疲れてるから」

「いやだ。行く」

「さっちゃんっ」

 鋭い声が出た。

 すると紗代子はこちらの手を強く振り払った。いまにも泣きそうな顔で、まなじりを吊り上げ、睦子を睨む。

 背中に悪寒が走った。思わず睦子は後ろを振りむく。

 給水塔に描かれた眼がこちらを視線で射抜いている。

 邪魔をするな、と言わんばかりに。

「……わかった。ママも一緒に行くから、お着替えしよう。ね?」

 それでも紗代子は渋い顔のままだったが、自分の要求が通ったことに納得したのか、おとなしく着替えさせられるままになる。

 パジャマを脱がせながら、そういえば、と睦子は思った。この頃、娘が自分に笑いかけた顔を見ていない。

 笑うのはいつも、トージくんや団地の子と遊んでいるときだ。

 着替えが完了し、紗代子と一緒に外へ出る。

 冷たい空気が顔を直撃し、一気に目が冴えわたりそうになった。もうすっかり気温は秋めいている。中庭に植えられた木々が紅葉で色づき、遊歩道の脇には干からびた枯れ葉が積もっていた。

 睦子は紗代子の手を引こうとするが、紗代子は一目散に遊歩道へ駆け出した。「危ないよ」と声をかけるが、こちらを振り向こうともしない。枯れ葉を踏み砕く音が響く。

 睦子は娘の背中を追いかけ、なるべく離れないように努める。

 遊歩道を歩くと、甘いハーブの匂いが鼻をくすぐった。この数ヶ月、嗅ぐようになった匂いである。

 ちょうど遊歩道沿いに敷き詰められた花壇から生えた草木が漂わせている。引っ越した直後はまだ土だったのに、いまではまっすぐ茎をのばし、青々とした葉をつけていた。植物には詳しくないので名前はわからないが、なにかのハーブだろうと見当をつける。

 と、視界の先にいる紗代子が道の真ん中で立ち止まっていることに気づいた。

 ちょうどベンチがあるあたりだ。

 ベンチには堀田が座っていた。

 寝癖がついたもじゃもじゃの頭のまま、古いジャンパーを着こみ、身じろぎひとつせず、座り込んだまま固まっている。

 相変わらず薄気味悪いことに変わりはないが、この頃はすっかり慣れてしまった。ただ、こちらに挨拶するだけ。子どもたちに危害を加えるわけでもない。

 この団地で暮らしている限り、彼はなんの不自由もなく生きていけるのだ。

 芹沢と同年代である堀田も以前はトージくんを見て、話すことができたのだろうか。

 トージくんが見えなくなった子どもは、その後をどう生きるのだろうか。

 問いかけても、まともな答えは返ってこないだろうが。

「こら、さっちゃん。邪魔しちゃダメでしょ」

 睦子は紗代子に駆け寄ってから、堀田に会釈しようとする。

 すぐに立ち去ろうとしたが、違和感を覚えた。

 いつもは通行人がいたら、誰でも構わず挨拶するのに、なんの言葉も発しようとしない。紫色の唇がうっすらとほほ笑んだ形で固まっている。

「堀田さん?」

 恐る恐る睦子は堀田の腕を軽くさすった。すると、支えを失った人形のように堀田の身体はベンチの上に横倒しになった。

 息をしていない。慌てて掴んだ手首は冷たく、脈もなかった。

「ねてるの?」

 と、近づこうとする紗代子に、

「ダメ!」

 悲鳴のような声を発し、娘をベンチから引き離す。

 紗代子の視界を自分の身体で塞ぎ、死者を見せないようにする。

 救急車を呼ばないと。

 いや、もう亡くなっているのだから、警察か。

 突然の事態に、頭はパニック状態になっていた。

「どうした?」

 急に声を掛けられ、心臓が止まりそうになる。

 そこにいたのは芹沢だった。箒とちり取り、枯れ葉の入ったゴミ袋を手にしている。中庭の掃除をしているところだったらしい。

 睦子は説明しようとするがうまく言葉にならず、ベンチを指だすだけで精いっぱいだった。変わり果てた堀田の姿を見て、芹沢は目を細める。

 ベンチに近寄ると、脈を手に取った。それから諦めたように息を吐く。

「あんたらは部屋に戻れ。あとはやっとく」

「で、でも、警察を呼ばないと……」

「呼ばなくていい。これは、俺の役目だ」

 芹沢は淡々と堀田の身体をベンチから降ろす。そのまま地面に寝かせると、両手を引っ張ろうとした。

「……さすがに重いな。台車がいるか」

「ど、どこかに運ぶんですか?」

「俺の部屋。処理しないとだろ」

 芹沢がなにを言っているのかがわからない。

 処理という言葉がなにを指すのかも、皆目見当がつかない。

「ほ、堀田さんは、なんで死んだかわからないんですよ。し、死因を調べないと……」

「そんなの必要ないよ」

 こともなげにそう云い捨てると、芹沢は台車を取りに行くためか、物置き場に向かう。睦子は呆然と地面に寝転がる死体を見た。

 堀田の白濁しかけた眼がこちらに向けられている。

 途端に吐き気が込み上げた。

 一秒でも早くここから立ち去りたかった。

「帰るよ、さっちゃん」

 睦子は娘の手を強引に引っ張る。紗代子がなにか言っているが、なにも聞こえないふりをした。

 部屋に戻ると、電話を掛ける。

 110番をダイアルすると、プツッと繋がる音が受話口から聴こえた。

「もしもし? 警察ですか?」

 

 きゃははははははははは

 うふふふふふふふふふふ

 

 子どもの嘲笑が鼓膜を震わす。睦子は短い悲鳴をあげ、電話を切った。だが、まるで追い打ちをかけるように今度は着信のベルが部屋中に鳴り響く。

 睦子は電話から離れようとするが、逆に紗代子は母親の様子を不思議がりながら、電話を取った。

 止める間もなかった。

「もしもし?」

 紗代子は電話の相手に「うんうん」と相槌を打ってから、「わかった」と返事をして、睦子に向き直る。

「守部のおばちゃんから」

「……守部さん?」

 電話を代わると、守部の透き通るような声が電話口から聴こえた。

「堀田くんのこと、聞いたわ。残念ね」

 聞いたというのは誰になのか。

 問い返すことに意味がないのはよくわかっている。

 それでも、これだけは言わざるを得ない。

「なぜ警察に連絡しないんですか。人が死んだんですよ」

「あの子は体が弱かったもの。それに近頃はめっきり空気も冷たくなったでしょ? ひと晩じゅう、座ってたんじゃないかしら。そのせいで心臓が止まってしまったのね」

 団地の敷地内で人が死んだというのに、まるで他人事のような口調だ。

 睦子は芹沢の言葉を反芻する。

「処理って、なんのことですか?」

 徐々に理解が追い付いてくる。

 芹沢の役目。部屋に運ばれる死体。呼ばれない警察。彼は堀田の死体をどうするつもりなのか。

「堀田さんの遺体をどうするつもりなんですか」

「心配しないで。清らかなものに還してあげるだけよ。他の子たちとおんなじ」

 他の子たちとおんなじ。

 芹沢も「よくあることだ」と言っていた。

 こんなことは初めてではない。団地の人間は亡くなった者をずっと『清らかなものへ還す“処理”』をしていた。

 他の子たちとは誰を指すのか。

 もしも、もしも紗代子がこの団地で大きくなったら――

 いつか堀田のようになり、“処理”をされるというのか?

「さっちゃんが心配?」

 こちらの胸中を見透かしたように、守部は声をかける。

 耳を貸してはいけない。

 そう思いながらも、電話を切ることができない。

「安心して。ここの子たちはオリベ様に祝福されている。みんな、穏やかな最後を迎えられるはずよ」

「穏やかな、最期?」

「堀田君の顔を見たでしょ。彼、苦しそうな顔をしてた?」

 先ほど見た堀田の死に顔を思い浮かべる。どこか陶酔したような微笑みが脳裏から焼き付いて離れない。

 あれが、紗代子の最期だというのか。

「とにかく、通報はやめたほうがいいわ」

 まるで警告のように、守部は言った。

「オリベ様に見捨てられたら、どうなるか。もうあなたは知ってるでしょ?」

 気がつくと、電話が切れていた。

 受話器を置いた睦子は床にうずくまると、その場で嘔吐した。少し前に飲んだコーヒーまみれの吐瀉物をぶちまけたが、すぐに動けなかった。

 ここでの生活を受け入れたのに。

 まだ、外の常識を捨てないといけないというのか。

 足元が揺らぐ。世界が奈落の底へ崩れ落ちる音が聴こえた。底なんてものが本当にあるのか。それすらもわからない。

 結局、その後、団地にパトカーが来ることも、救急車が来ることもなかった。

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