睦子・8

 オリベ祭りは半年に一度、開催される。

 春と秋、年に2回。今回の祭りは【第27回 オリベ祭】。つまり、これまで13年に渡って、祭りは執り行われてきたことになる。

 睦子は窓の外に映る給水塔を見やった。半年前とおなじく、給水塔の前には焚き木が小山のように組み上げられている。

 睦子はいま、他の団地の住民たちと共に管理組合室のフロアに集っている。棟の住民ごとにグループを作り、御饌――オリベに捧げるご馳走をつくっていた。

「ほらほら、睦子さん。クリームをかきまぜる手を止めたらダメよ」

「あ、ごめんなさい……」

 亜紀の指示を受けながら、睦子はボウルに入った生クリームをかきまぜ続ける。

 用意するのはショートケーキ、唐揚げ、カレーライス、ポテトフライ。相変わらず、なにかのパーティのようなメニューだ。

 紗代子たちはすでに守部に付き添われ、仮面の準備をしている。

 夜になれば、焚火を中心に子どもたちの遊戯が行われるはずだ。トージくんをもてなすお遊戯会が。

「今回は誰がオリベに選ばれるかしらねえ」

「また亜紀さんところの可能性あるんじゃない? お子さん多いし」

「やっぱりね。こういうときは子沢山なのが一番ね。オリベ様の寵愛をずーっと受けられるもの」

 亜紀たちが他の主婦と談笑している。また子作りの話だ。

 高級ブランドの香水を体中に万遍なく振りかけ、調理中だというのに、ジュエルのついたネックレスをかけている。

 前回のオリベ祭り以来、より一層、亜紀の金遣いが荒くなっている。亜紀の息子、輝明は前回の祭でオリベ様に選ばれた。そのことと関係しているのかもしれない。

 睦子はただ無心で生クリームをかき混ぜ続けた。空気と混ざり、攪拌されたクリームは粘り気を帯び、重みを増していく。 

「亜紀さん、どうでしょう」

「あら! いいじゃないの。じゃあ、スポンジに盛り付けちゃいましょう」

「は、はい。ありがとうございます」

「もう、自信をもって! 睦子さんはセンセイなんだから!」

 亜紀は上機嫌になりながら、遠慮なしに睦子の肩を叩いた。こちらへの気遣いなど欠片もない叩き方に、睦子は愛想笑いで応じる。

 いきなり亜紀が睦子の顔をじっくりと覗き込む。舐めつけるような視線に怖気が走った。

「な、なんでしょう」

「やーっぱり、睦子さんって私たちに壁があるわよねえ」

 亜紀は口元だけで笑っている。彼女の言葉には嘲るような響きがあった。

 身体が竦んで動けない。なにを言えばいいのかわからない。固まっている睦子の両肩に、亜紀は手を置いた。

「もう睦子さんもここに来て半年になるんだから。もっと打ち解けましょう。私たち、仲間でしょ?」

「は、はい。ごめんなさい……」

「やだ! 謝らなくてもいいのよ! 仲良くしたいだけなんだから! ねえ?」

 亜紀の言葉に、周りの人間たちも一様に頷く。

「そう、ですね。私もそう思ってます」

 と、答えると、亜紀たちは満足そうに微笑んだ。

「睦子さんも誰かつかまえて、子どもをつくるといいわ。団地の人、誰か紹介しましょうか? あ、子どもが増えても大丈夫よ! 大きくなったら、空きができた部屋を買い取って、そこに放り込んどけばいいの。私の上の子たちも303号室にいてね、欲しいモノはなんでもあげてるの! 学校に行かず、ゲーム三昧で楽しそうにしてるわ!」

 ざらっとした言葉がやすりのように心を削っていく。

 削れたことに気づかないフリをする。

 クリームの盛り付けが終わり、一息ついた睦子は窓の外を見やる。ちょうど焚き木が組まれた場所に、芹沢が台車でなにかを運んでいるのが見えた。

 台車にはたくさんの草が積まれている。芹沢はその草を焚き木に置いていく。

 以前はすでに焚き木の準備が終わっていたので気づかなかったが、焚き木のほかに燃やしている物があったらしい。

 御饌の準備が終わり、テーブルが外へと運ばれる。中庭には冷たい秋風が吹き込み、乾いた空気が滞留している。

 まだ6時だというのに、すでに日は沈み、夕闇というより夜の闇があたりを支配する。中庭の奥から足音が聞こえた。

 守部である。彼女は柏手のようにパンパンと手を叩いた。

「これより、第27回オリベ祭を執り行います」

 守部の宣言と共に、みなは一様に拍手する。拍手の群れに睦子も加わった。

 割れんばかりの拍手がどこか遠く聞こえる。

 棟を見ると、御饌の準備に参加していなかった住民たちも、中庭の様子を見下ろしている。


 あーそーぼー

 あーそーぼー


 どこからか、子どもたちの輪唱が聴こえる。

 相も変わらず歌うような調子で、繰り返す。


 あーそーぼー

 あーそーぼー

 オリベさまとーあーそーぼー


 窓から見ろしている住民たちが懐中電灯を点け、次々に中庭を照らしていく。

 給水塔の前に組まれた焚き木が照らされると、太鼓の音が響いた。ドン、ドン。以前は知らなかったが、この太鼓は4階に住む田中が鳴らしている。太鼓のリズムに合わせて、鳴らされるリコーダーの旋律、鍵盤ハーモニカの音色。これは棟に住む大人たちによる演奏だ。

 焚き木のそばに誰かが近づく。芹沢だ。芹沢真一はジッポを手にし、 点火すると焚き木に向かって投げた。

 赤々とした炎が燃え上がる。炎からは白い煙がまっすぐ立ち上がり、パチパチと木の爆ぜる音が中庭に響いた。

 そして、給水塔に仮面をかぶった子どもたちが行進する。給水塔とおなじ顔をした子どもたちは一糸乱れぬリズムで歩き、彼らは列を作り、焚火の周囲を取り囲んでグルグルと回りだす。

 炎が子どもたちの到来を喜ぶように、勢いを増す。

 風が吹く。白煙が散らされ、子どもたちを囲む。

 炎はさまざまな方向にあおられ、そのたびに煙が周囲に散る。風に運ばれて、睦子の鼻先にまで匂いが届く。

 炭の匂い。そして甘いハーブの匂い。

 ぱちぱちと目の奥で火花が散る。頭の奥がじんと痺れたような陶酔感を覚えた。

 この匂いを、睦子は知っている。

 中庭に生えていた草の匂い。白い綿のような花が咲いていた。葉の周りには鋸の刃に似た切れ込みが入っている。どこかで睦子はあの草を見たことがある。

 紗代子の父親だった男――昔の担当編集の言葉を思い出す。

『作家なら、いろんな知見を持たないとだめだ』

『広い世界に出なさい。そうすれば、あなたの書く世界ももっと広がる』

 博識な男だった。頼り甲斐があり、行動力があり、野心家で、交友関係も広かった。睦子の才能を信じ、様々な場所に連れ出してくれた。

 出版社のパーティ。大物作家たちとの食事会。宝塚の舞台から、帝国劇場のオペラ。取材という名目で海外旅行にも連れて行ってくれた。

 特にヨーロッパの街並みは幾つも見て回った。パリ、ベルリン、ロンドン、ジュネーブ、ローマ、バルセロナ、アムステルダム。

 なぜ、あの男の言葉を思い出すのだろう。

 いまは祭りに集中しないといけないのに。

 頭が朦朧とする。視界がぼやける。祭りの空気に酔っているのか。違う。煙だ。煙の匂いを嗅いでからおかしくなった。

 あの男もよくタバコを吸っていた。彼が吸っていたタバコの煙とおなじ匂い。いや、彼のタバコはこんな甘い香りはしなかった。

 しかし、おなじ匂いの煙を吸っていたはずだ。一度だけ嗅いだことがある。あれは海外へ旅行していた時。アムステルダムのコーヒーショップだ。彼は乾いた葉を砕いた粉末を紙に巻いていた。どこか得意げな顔で、男は言った。

『心配いらないよ。この国では合法なんだ』

 目の前の光景に集中する。

 煙に巻かれても、子どもたちはせき込んだりしない。どこか陶酔した調子で歌いだす。


 おーりーべ おーりーべー

 おりべのなーかの とーじーさまー

 いーついーつ でーやーるー


『そもそも、昔は日本でだってよく栽培してたんだぜ?』


 子どもたちは炎を取り囲んで踊る。時折、足の動きがもつれる。仮面から覗く目は爛々と輝き、正気を失っているかのようだ。


『君も吸ってみなよ。本場の大麻ってやつをさ』


 大麻。

 その言葉が頭に浮かんだ途端、睦子の陶酔は醒めた。そうだ。この匂いは大麻だ。団地の敷地内に植生していた大麻を焚き木と共にくべていたのだ。

 麻薬成分を含んだ煙があたりを覆う。

 夢とも現ともつかない状態に酔った子どもたちが炎を取り囲んでいる。

「止めないと……。早く、止めないと……」

「睦子さん?」

 亜紀がこちらの様子に気づく。もしかすると亜紀たちは、燃やしているものが大麻だと知らないのかもしない。

 一縷の希望をかけて、睦子は訴えた。

「亜紀さん。あれ、大麻。大麻を燃やしてる。子どもたちが、ドラッグを、吸って……!」

 ぽかんと亜紀は口を開けた。

 しばらくして、ハッと鼻で笑った。

「それが、どうかしたの?」

 睦子は目の前が真っ暗になった。

 考えてみれば当たり前だ。この人たちはずっと団地に住んでいる。自分たちがなにを子どもたちに吸わせているのかなんてとっくにわかっているのだ。

 亡くなった堀田を思い出す。彼の様子は、子どもの頃から吸っていた大麻の煙に蝕まれた影響ではないのか。

 団地の住民はわかっている。祭が子どもたちになにをもたらすのか。わかっていて、13年も祭を執り行い続けているのだ。自分たちの豪奢な生活を維持するために。

 もう限界だった。

 周囲を見渡す。ちょうど管理組合室の扉のそばに消火器があるのを見つけると、まっすぐに駆け出した。亜紀たちがなにか叫んでいるが、構っている暇はない。睦子は消火器を手に取ると、炎へ向かった。

「みんな! 離れて!」

 睦子が叫んだが、子どもたちの踊りは止まらない。大麻の煙で陶酔しているのかもしれない。子どもたちの輪に無理やり割って入る。消火器のホースの先を炎に向け、ノズルを引いた。白い泡が噴出され、炎が鎮火される。

 炎は徐々に勢いを弱めていき、やがて黒炭だけを残して、完全に消えた。

 輪の動きが止まる。仮面をつけた子どもたちが戸惑ったように睦子を見つめていた。子どもたちだけではない。無数の視線が睦子に突き刺さる。

 ママ、という声が聴こえた。

 子どものひとりが仮面を外し、睦子に近づく。薄暗い中で顔は見えなかったが、確かめるまでもなかった。

 すぐに睦子は娘に近づき、抱きしめる。

「大丈夫。もう大丈夫。大丈夫だからね」

 まだ鼻先には煙の匂いが残っている。一刻も早く娘をこの場から離さないといけない。睦子は紗代子を抱きかかえようとする。

 耳元に暖かい息吹が吹きかけられた。

 全身の毛が逆立つような恐怖が全身を貫く。火は消したのに、甘い匂いはますます強くなっている。

 白い煙がまるで霧のようにあたりを取り囲む。風は吹いていない。煙自体がなんらかの意志を宿しているかのようだった。

 

 あはははははははははは! うふふふふふふふふ! ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!


 無数の笑い声を重ね合わせたような絶叫が睦子の耳を襲った。思わず両耳を塞ぐ。紗代子も耳を塞いでいた。煙の濃度がどんどん濃くなる。白い闇が睦子たちを包み込む。煙が、口や鼻、耳を通じて、睦子と紗代子の中に入ってくる。

 睦子は叫んだ。

「やめて! この子の中に入ってこないで!」

 急にぴたりと笑い声が止んだ。

 煙がいつのまにか消えている。まばゆい光が睦子たちを照らしていた。棟の住民たちの懐中電灯が給水塔の前を照らし続けていた。

 すべてが終わったらしい。睦子は紗代子の仮面を取り外し、安心させるためにどうにか微笑みかけようとした。

 しかし紗代子はこちらを見ていなかった。焦点の合わない目をしている。

「さっちゃん?」

 呼びかけた瞬間、後頭部に強い衝撃を食らった。

 意識が飛びそうになった睦子は頭を抱えながら地面に倒れる。だが、そんな睦子の胴体に容赦なく痛みが加えられる。

「あんた! なんてことしてくれたんだ!」

 モップを手にした亜紀が赤黒い顔になって、睦子に怒鳴った。何度も柄の部分を睦子に振り下ろす。痛さと衝撃で立ち上がることもできない。

「私らは、ずっと守ってきたんだ。こんな儀式を受け入れて、どうにかやってこれるようにしてきたの! それなのに、よくも、よくもおっ!」

 やめてくださいと叫ぼうとするが、口の中が切れて言葉にならない。

 興奮した亜紀が振り下ろすモップはそばに紗代子も巻き込もうとしていた。

「そこまででいいだろ」

 芹沢真一がモップの柄を握って制止する。亜紀は怒りの形相を睦子から、芹沢へと向けた。

「邪魔すんな! 自分がなにをしでかしたのか、この女にわからせるんだよ!」

「子どもまで傷つけたら、トージが黙ってないぞ」

 芹沢の声にはなんの感情もこもっていない。亜紀は冷や水をかけられたように、急速に怒りを萎ませていったが、目に宿る敵意は消えなかった。

モップをその場に投げ捨てた、立ち去っていく。

 紗代子はわけがわからず、ずっと泣いている。睦子は紗代子の頭を撫でながら、その場にうずくまった。

 すると奥から別の人物が近づいてくる。

「今日のお祭りは中止するしかないわね」

 守部だった。

 あたりを見回し、軽く息を吐くと、芹沢のほうを見た。

「あなたはここの片づけを。亜紀さんはみんなを解散させてください」

「あんたはどうするんだ」

「私はオリベ様の様子を見てきます」

 篝火を失い、闇の中にそびえる給水塔は沈黙を保っていた。

 守部はちらりと睦子たちを一瞥してから、なにも言わず、給水塔へと向かった。

 懐中電灯が消える。子どもたちは仮面を脱ぎ、次々と親のもとへ帰っていく。ぼんやりと様子を見ていた睦子の額に生温かい唾が吹きかけられた。

「ただで済むと思うな」

 亜紀はありったけの憎しみを込めた言葉を残すと、息子を連れて、立ち去っていく。立ち上がらないと。そう思っているのに、身体が動かない。立ち上がり方を忘れてしまったかのようだ。

 芹沢が手を差し伸べた。

「立てるか?」

 睦子は返事をする代わりに、芹沢の手を取った。よろめきながらも、手の支えを頼りに、どうにか立ち上がる。

 しかし、目の前であれだけの騒ぎが起きても、紗代子は反応しない。

 無表情のまま、虚空を見つめている。

「さっちゃん。ねえ、さっちゃん?」

 睦子は何度も何度も呼びかけた。

 しかし、紗代子の様子にはなにひとつ変化が現れなかった。

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