姫芝アサリは後に知る、人間万事塞翁が馬の意味を

 ゴールデンウイークも終わり中間試験の時期が見え隠れして来たので、アサリは友達と放課後に教室で勉強会をしようという事になった。

 篤飛露も誘ったのたのだがただ一言『用事がある』と断わられてしまい、それが癇に障ってしまったのか、アサリは勉強も忘れて篤飛露の文句に終始している。

「せっかく誘ったのに、用事があるってなんですか用事があるって。露骨に面倒で断る時に使う常套句じゃないですか」

 声を荒げているアサリを見て、友美がポツリと口を開いた。

「アサリってさ、昔の学園恋愛ドラマとかのヒロインみたいだよね」

 その言葉がおかしかったのか、紗月が笑いながら同意する。

「確かに、昔の映画とかも多いよね」

「そうそう、主人公の男女がいつも喧嘩してて、なんか色々あって、最終的に結ばれるの」

 女子達でそう言い合っていると一緒に居た男子達も混ざりだした。

「マンガも多いよな。なぜかイベントとかで二人で行動して、仲良くなっていって、最終回で告白とかでくっつくんだよな」

「つまり紋常時君と姫芝さんは、そのうち付き合うのでは?」

 夏志と国江が言うと今度は全員が笑いだすが、一人笑っていないアサリは口を尖らせる。

「何ですかそれは、フィクションと一緒にしないでください。あんな意地悪な人と何て付き合うわけないじゃないですか。私は意地悪なんてしない、優しい人がいいんです」

 それを聞いた何人かが異を唱え、知っていることを話し始める。

「いや優しいよ、紋常時君。重い物運ぶ時は手伝ってくれるし、文句も言わないでやってくれるし」

「そう言えば知ってる、去年の放課後に貧血で倒れてた三年生の女子を、たまたま近くに居た紋常時君が保健室まで抱えて運んだんだって」

「あー、あったらしいね。二つ上だから今はもう居ないけど、もし今年もいるならどうなっていたことやら」

「ほらアサリ、油断してると紋常時君が取られちゃうよ」

 話の流れがアサリにとっては悪い方向に進もうとしている。尖らせた唇を戻さずに、言葉を叩きつけるように返した。

「いいじゃないですか、彼女でも彼氏でも何人でも、好きに作ればいいじゃないですか」

「いや、彼なんて作られたら俺達はどう反応をすればいいのかわかんねーよ」

「祝福すれば良いんじゃない?」

「中学二年生には荷が重いよ、祝福するのは」

 笑い合った後、友美がアサリに真面目な顔で向き合う。

「だからほら、常紋時君が彼を作る前に、彼女になるように動かないと」

「だから彼女になんかなりませんよ。それに動くって、何をさせる気ですか」

「それは勿論これを使ってね!」

 いつの間にかアサリの後ろに回っていた紗月が、勢いよく胸を揉みしだく。

 アサリは学年でも低い身長だったが、それに反して一部については学校もトップクラスであった。

「きゃぁぁぁー!?」

 アサリは真っ赤になり悲鳴を上げ、両手で体を抑えると小さくなって床にしゃがみ、紗月にの腕から逃れる。

 さっきまでアサリを弄んでいた紗月は両手をじっと見つめ、何かを考えるように呟いた。

「アサリちゃん、いくら成長期だからって、これはちょっと、成長期すぎない?」

「何を言っているんですか何を、男子だっているんですよ!」

 男子勢は顔を向けられると、揃って顔を横に向けた。

「うん、俺達が居るとこではそうゆうことは止めてくれ」

 そう言われると紗月は席に歩き、謝り長屋腰を下ろす。

「ごめんごめん、気になっちゃって。もうしないから許して」

 アサリは椅子に座りなおすが、両腕は体を抑えたままだ。

「紗月さん、ほんっとうに、しないでくださいね」

「しないしない、男子が居る時はしないって」

「居なくてもしないでくださいでくださいね。もし次されたら、眼鏡を指で触りますからね!」

「はーい」

 元気に返事をしているが、アサリはひとかけらも信用できない。

 それにしてもこんな事をされる何て、元をただせば篤飛露が勉強会を断ったのが悪い。

「いい加減勉強しましょう、私たちは。篤飛露は赤点をとってもいいと思ってるんでしょうけど、私は嫌ですからね」

 そう言ったのだが話題は変わってくれず、勉強は一向に進もうとしない。

「そう言えばさ、常紋時君を誘ったのアサリだよね。やっぱり気にしてるんじゃ……」

「違います、篤飛露は休みが多いから誘っただけです」

 ひょっとしたらアサリは、自分も知らない内に心配した気持ちが有ったかも知れない。だが断られた事で、あったかもしれない気持ちはは一切無くなってしまった。

「でもアサリ、紋常時って休みは多いけど、成績すごくいいんだから」

 友美がそう言うと、篤飛露と去年同じクラスだった夏志も続く。

「たしかにあいつ、どれが得意って言うか、不得意がないんだよな。正直今日はあいつあ来るなら色々教えてもらおうって思ってたんだけど」

 また篤飛露の事が口に上がると、クラスメートが次々と声をあげる。

「確かに、授業中に指されても普通に答えるし」

「答えられないって見たことない気がするかも。思い出したんだけど、授業と全然関係ないこと聞かれても普通に答えてた」

「自分では手を上げるとはしないんだけど、答えは分かってるんじゃないのかな。自信が無いのかめんどくさいのは知らないけどさ」

 そんなに頭がいいのか、しかしアサリはそう思った事は無い。それが何故かというと。

「篤飛露って本当に休むの多いんですよね。やっぱり小学校の時からそうなんですか、まだ五月なのに、半分ぐらい休んでますよ?」

 アサリの質問に、小学校が同じだった友美たちが肯定する。

「そうなの、六年の半分ぐらいは居なかったんじゃないかな、少なくともあいつの水着姿は見た事ないし、運動会もいなかった。去年はもうちょっと多かったんじゃないの?」

「多かった、特に夏がひどかった。休むか保健室かで去年もプールは一回も入ってないし。泳げないのをごまかしてるんじゃねえの」

「じゃあ、篤飛露って病弱なんですか?」

「休み多かったし、入院もしてたし。そうなんじゃないのかな」

「でも別に運動ができないってわけじゃないよな。サッカーもドッジボールも強いし、でかいからバスケもうまかったな、あいつ」

 篤飛露の話ではあるが、アサリにとってはあまりりよろしくない方向へと話が変わってしまったような気がして来た。

「そうそう、去年バスケ部から勧誘までされてたよな。……あいつ今何センチ有るんだっけ?」

「五年生の時は確か、百六十五センチぐらいあったよな。今年の身長測定、誰かあいつに聞いた人いるか?」

「あたし聞いたことある、百八十超えたんだって」

「マジかよ、昔からでかかったけどまだ大きくなるのかよ、あいつ」

「いつも整列する時はアサリが一番前だから、知らなかったんじゃない?」

 この話を振られるのはアサリは好きではない。しかし言った本人も悪気が有って言っているわけでは無いのだろう。

 本当に嫌ならそう言えば止めてくれると思ったが、今言えば微妙な空気になってしまう。

 ここは冗談をいうのが一番だろう。

「正直に言ってそんなに大きいとは知りませんでした。……そのうち私の倍ぐらいになったりしませんよね?」

「3メートル超えなきゃ倍は無理だろ」

 全員で笑い、人知れずアサリはほっとする。この場でしらける事はしたくない。

 ひとしきり篤飛露の話で盛り上がってはいるが、アサリには全員が悪口を言っているようには聞こえなかった。どちらかと言うと、篤飛露を話のタネにして懐かしいと思っているようだった。

 勉強会のはずだったが雑談九に勉強一の割合で喋っており、いつの間にか全員が気が付かないほどの時間が過ぎていく。

 よっぽど盛り上がっていたのか、友人が家族から連絡が来てようやく夕方になっていることに気が付き、慌てて帰ろうと支度をする。

 時間的に暗くなりそうなので、一人になるアサリに友美が親が車で乗せようかと言ってくれたが、彼女とは家が逆方向だし、大した距離でもないとやんわりと断て校門で別れた。

 校門を通る頃には部活帰りの生徒が数人いたが、少し歩いたらすぐに誰も居なくなった。アサリは勉強会のメンバーとは少し道が違うため、通学路を一人で歩く。

 連休が終わってからずいぶんと暖かくなった。今週から衣替え期間に入っているが、夏服で通学している人はまだ誰もいない。一人で衣替えは嫌なので、帰ったらみんなに相談して、みんなで夏服に変えてみようか。

 そんな事を考えながら、学校から離れた部活専用のグラウンドの横を通る。複数の部活がここで練習をしていたはずだが、全てもう終わってしまったのか誰も残っていなかった。

 聞いた話では二十年以上前に卒業生が集まって、このグラウンドと照明などを寄付したらしく、当時はもっと遅くまで部活があっていたらしい。それは今では照明など使う時間にはみんな家へと家へ帰ってしまっているのだろう。

(しかし、本当に人がいませんね。いつもこのぐらいにはもう居ないのでしょうか)

 この時間ならいつもはもう家にいるし、外に出る時は必ず家族の誰かと一緒じゃ無いと許されない。

 考えてみればこの時間に歩くのは初めてだ。少し心細くなったが、同時に少し楽しくもなった。

 彼女はもう中学2年生、ちょっとぐらい遅くなっても大丈夫なはずだ。両親は二人とも出張で居ないので、姉が黙ってくれれば何の問題もない。ちょっと門限をすぎるかもしれないが、姉なら謝ればきっと許してくれるだろう。何しろ去年まで中学生だった兄も帰りが遅い時もあったが、そこまで怒られてはいなかった。姉は兄に甘く、妹にはさらに甘い。つまり姉は妹を甘やかしまくりなのだ。そう心の中で呟いて、自分で自分を納得させた。

 不自然な早足にならない、いつもと変わらない歩き方になるように意識しながら歩く。

 学校に居た時に姉から連絡があったので、今帰ってると返事を返している。いつもと違う暗くなっているが、道自体はいつも通う普通の道だ。そう考えるとむしろ少し興奮しながら、周りを眺めつつ楽しそうに歩き出した。

 そうしてすこし歩いていると、知ってる人影がちょうど先を曲がっているところが見えた。

 向こうから見られたかは分からなかったが、彼が電灯の下を歩いていたのでアサリにははっきりと分かった。

(篤飛露、こんな所でこんな時間に何をやってるんでしょうか)

 小学校が違うので、家がこの辺ではないはずだ。このあたりが家なら同じ小学校に通ってるはずだから。

 何となく彼が曲がった場所まで歩き、その先を見る。アサリは地元なので知っているが、曲がるとこの道は真っすぐの一本道になり、どこにも姿を隠せる所は無い。

 しかし篤飛露の姿はどことも無かった。

 この辺に知り合いがいて、どこかの家に入ったのだろうか。しかし何処かに入ったならドアの音ぐらいはありそうだが。

(どこにいっているのでしょうか、ひょっとして私を驚かせようとして隠れてるとか?)

 辺りをキョロキョロと眺めながその道を歩いたが、アサリはすぐ辞めて家に帰るこのにした。

 どこかに隠れてい驚かせようとしてるのなら、その前に帰ってしまえばいい。一人で隠れている篤飛露の姿は見れないが、明日まで覚えていたらからかってやろうか、いややっぱりあんな奴どうでもいいや。

 それについ先ほど、もっと大事なことができてしまった。身体的な理由から早急に帰らなければならないと、アサリの身体が訴えてだした。

 そう思い踵を返すと、先ほどは違い曲がり角にナニかが立っていた。

「え?」

 思わず声が出る。

 最初は小さな女の子がいると思った。が、すぐに違うことは分かった。

 太ももの途中で立っているのだ。

 膝の少し下からが無くなっている。そのせいで頭の位置はアサリの肩よりも小さい。

 両腕は地面に着いていないが、足を気にする様子はない。まるで怪我を何もしていないかのように見える。

「見つけた」

 ぼさぼさの髪が地面まで伸びており、顔も髪が隠しているためよく見えない。しかし女がアサリに向かって言われた言葉ははっきりと聞こえた。

 アサリは恐怖を感じて返事もできず、ただそれをずっと見ているだけしかできなかった。

「わたし、きれいでしょ」

 問いかけるような声に、アサリは声が出ない代わりにせめてもと首を必死に縦に振った。

 それを女は見て満足したのか、ゆっくりと笑った。

「だから……」

 ゆっくりと喋っているから、ゆっくりと口を開いている。

 そこでアサリは気づいた。前歯だけでなく両側の奥歯まではっきりと見える。

 ほほがない。

「だからその足私に頂戴!」

「なんか色々混ざってませんか!」

 女が大きな音を出して腕を地面を叩きつけ、アサリに向かって飛び出した。しかしアサリは女が動いた瞬間に弾かれるように女の反対に後ろを向いて駆け出した。

(何ですあれ、口裂け女ですか、足が無い口裂け女ですか、テケテケですか、テケテケと合体したんですか、そんなの居るんですか!)

 アサリは何が何だかさっぱり分からず、何かの間違いではないかと走りながら後ろを見ると、化け物はゆっくりとだが確実に近づいている。人間を超えて速いと言うわけではないが、少なくともアサリよりは速い。足が途中までしかなく、腕も地面に届いていないから走りにくいのだろう。

 本物の妖怪なら人間より早いはずだ、多分。

「だ、誰か、誰か助けてください!」

 大声で叫ぶが、どの家からも誰の反応はない。そもそも何で誰もいない。夕方なのに帰宅する人もいないのは明らかにおかしい。

 疲れてきたのでもう一度後ろを見ると、化け物はさっきよりも距離を詰めていた。

「いいでしょ、見つけたんだから、頂戴よ」

 アサリに呼びかける化け物の声が聞こえると、アサリは足を動かす力が跳ね上がた。

「そうだ、今こそアレを使うと気ですね!」

 バッグの横に防犯ブザーを付けてるのを思い出すと、力任せに掴み取った。すぐにけたたましく音が鳴り、それを聞くとアサリは防犯ブザーを、次いでバッグを投げつける。

「これはいらない!」

 しかし化け物はアサリが投げたバッグが当たる事を気にせず、一緒に地面に落ちた防犯ブザーを腕で叩き潰し、何も無かったかのような速度で追いかけている。

 潰された防犯ブザーは最後にかすかな音を鳴らす。それはアサリに対する最後の別れのようにも聞こえ、小学校から一緒だった通学路の相棒が、少し時間を稼いだ代わりにもう旅立ってしまったのだと思わずにはいられなかった。

「何で防犯ブザーを投げてるんですか私は、そして誰も出てきてくれないんですか! 公園、公園なら!」

 あそこなら誰かがいるはずだ、と叫びながら道筋を考える。

 家の反対側になるが、この辺りはアサリの遊び場だ。公園に行けば広いので夕方になっても散歩や帰宅途中の人やカップルのどれかがいるはずだ。

 走っているせいで、公園まではそう遠くはない。

 もう後ろを見ずに、必死で公園まで走った。

「お母さん、お姉ちゃん、お父さん、お兄ちゃん、ひょっとしてたまたま偶然何らかの理由で公園にいたりして下さい。いないなら誰でもいいから助けて下さいそしたらぎゅって抱きつきますから男の人なら好きになるかもしれませんから!」

 もはや自分でも何を言っているのかよく分からない。

 当たり前だが、アサリの希望はあっさりと打ち砕かれた。

「何で誰もいないんですかぁ」

 公園の電灯は点いているのに、人っ子一人として存在しない。

 それでも誰か居る事を期待して公園の中を駆け回る。

 散歩道を駆け抜け湖の近くの芝生に入ると、化け物の音がしなくなったことにアサリは気づいた。

「い、いなくなったんで、しょうか」

 後ろをちらりと見ると、何もいない。立ち止まり当たりを見渡すが、化け物の姿も無ければ何の音もしなくなる。

 アサリは息を整え、大きく深呼吸をする。

「た、助かったんで、しょうか?」

 ほっと息をついて、少し落ち着いた。そしてまず思ったのが、バッグ取りに行かなきゃ、だった。

「でも、戻ったらまたあの化け物に会ったりしませんでしょうか?」

 化け物が見えなくなり安心したのか、アサリはそんなことを考える。

 そうだ、お兄ちゃんに取ってきてもらおう。

 いい考えを思いついたと言わんばかりに手をたたくと、遠回りして帰ろうかと反対側の出入口に向かおうとした。

 だから気が付かなかった。湖が揺れていることに。

 アサリが湖に背中を向け歩こうとすると、大きな水しぶきの音がした。アサリが反射的に後ろを振り向くと、湖の中から出てきた化け物が、宙を舞っているところだった。

「その足頂戴!」

 ずぶ濡れの化け物はアサリのすぐそばに着地する。

 余りにも突然の事にアサリは尻もちをつき、腰が抜けて足がまったく動けなくなってしまう。

「頂戴よ」

 今までで一番近い距離で、笑っているような顔で物騒なことを言う化け物。

 アサリが何も言わないでいると、化け物はゆっくりと歩きながら声をかけた。

「いいでしょ、見つけたから、頂戴よ。私、きれいでしょ。だから、頂戴よ」

「い、い、い、嫌です」

 アサリは首を横に振り、ようやく声を出せた。化け物はその言葉を聞くと雰囲気を変える。

「じゃあ」

 化け物は睨みつけ、叫びながらアサリへと駆け出した。

「私と同じ顔にしてあげるからその足もらうわ!」

「もらうな!」

 アサリでも化けでもない、しかし聞き覚えのある声が聞こえ、同時に化け物は凄い勢いで真横に飛んで行った。

 化け物が見えなくなると、さっきまでは見えなかったその姿が見えた。

「うわ、濡れてるじゃないかあいつ。ズボン濡れたな」

 そこには少年が立っていた。

 多分あの少年が化け物を蹴り飛ばしたのだろう。

 その少年は、アサリがよく知る人物だった。

 中学生の癖に高い身長。まだ成長期の癖に、百八十センチ以上あるらしい。アサリと頭一つ以上の差がある。

 暗記系が得意で、国語はほぼ満点。計算は得意ではないが不得意というわけでもない。

 休みが多いくせに体育はトップクラスで、部活をしてもいない癖に体育測定もかなりの上位、ただ多分あいつは手を抜いていると言われているらしい。

 アサリは別に聞いてもいないのに、クラスメートが色々と楽しそうに教えてくる、特別親しい相手はいないが、特別仲が悪い相手もいない、そんな少年。

「結構飛んだな。足が少ない分飛びやすかったのか?」

 多分、学校で一番喋るのはアサリだと思う、アサリがからかおうとして、逆にからかわれる相手。だから声を聴いたらすぐに分かった。

「あ、あつ……ひ、ろ?」

 紋常時篤飛露が、立っていた。

「ショートホームルーム以来だな、アサリ」

 篤飛露は、いつも教室で呼ぶように、アサリの名前を呼ぶ。

「あ、あつひろ、あつひろ、あつひろぉ」

「ああ、篤飛露だ」

 アサリは知っている顔を見て驚いたのか、何を言えばいいのか、しかし何かを言わなければならない。そう思い、篤飛露に向かって一気に話かける。

「あ、あのですね、あつひろをみてですね、でもいなくてかえろうとしたらおばけがいてですね、あのおばけあしがなくてでもはしっておいかけてきてですね、にげていなくなったんですけどやっぱりいて、こしがぬけてたてなくてにげられなくてそしたらあつひろがいてぇ」

「あー、とりあえず落ち着け」

 要領を得ないアサリに、篤飛露は落ち着かせようと肩をたたく。そしてさっき化け物が飛んで行った方を見つめて。

「まだ妖怪がいるからな、先にあっちを片付ける。アサリはちょっと待っててくれ」

「……」

 無言で頷くアサリ。

 篤飛露は体を化け物のほうへ向け歩きだす。数歩歩いて、何か忘れ物を思い出したかのようにアサリに振り向き。

「もう安心していいぞ」

 そう言うと、瞬く間に見えなくなった。

 言われたアサリは一瞬何を言われるのか分からなかった。

「……モウアンシンシテイイゾ、もう安心していいぞ。……安心して、いいんだ」

 あの化け物に会ってから、意味が分からないことだらけだった。化け物が何なのか、何故襲われたのか、何で誰もいないのか、そして、なんで篤飛露が助けに来てくれたのか。

 篤飛露を見ると、離れた所であの化け物に襲い掛かっているようだ。よく見えないが篤飛露が近づくたびに化け物が吹っ飛んでいる。

 その様子を見てようやく完全に安心したのか、全身から力が抜ける。

 そう、全身から力が抜けてしまったのだ。

「……え、あ、ちょっと、え、うそでしょ」

 もともと何で帰ろうとしていたのか、化け物のせいでアサリの頭はすっかり忘れていたが、体のほうはしっかりと覚えていて、そして強制的にアサリの意識に思い出させた。

「あ、だめ、ねえ、だめです、ねえ、だめですよ、ねえ!」

 自分の体に向かって懇願するが、彼女の体は言う事を聞いてくれない。

 全てが終わり体は満足したようだが、代わりにアサリの意識ははこの世のすべてに絶望した。

「……死のう」

 アサリは、そう呟かずにはいられなかった。

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