姫芝アサリは後に知る、人間万事塞翁が馬の意味を
その言葉を聞いたアサリは恐怖を感じて返事もできず、ただそれをずっと見ているだけしかできなかった。
「わたし、きれいでしょ」
女の問いかけるような声に、アサリは声が出ない代わりにせめてもと首を必死に縦に振った。
それを女は見て満足したのか、ゆっくりと笑った。
「だから……」
ゆっくりと喋っているから、ゆっくりと口を開いている。
そこでアサリは気づいた。前歯だけでなく両側の奥歯まではっきりと見える。
ほほがない。
「その足私に頂戴!」
「なんか色々混ざってませんか!」
女が大きな音を出して腕を地面を叩きつけ、アサリに向かって飛び出した。しかしアサリは女が動いた瞬間に弾かれるように女の反対に後ろを向いて駆け出していた。
(何ですあれ、口裂け女ですか、足が無い口裂け女ですか、テケテケですか、テケテケと合体したんですか、そんなの居るんですか!)
アサリは何が何だかさっぱり分からず、何かの間違いではないかと走りながら後ろを見ると、化け物はゆっくりとだが確実に近づいている。人間を超えて速いと言うわけではないが、少なくともアサリよりは速い。足が途中までしかなく、腕も地面に届いていないから走りにくいのだろう。
本物の妖怪なら人間より早いはずだ、多分。
「だ、誰か、誰か助けてください!」
大声で叫ぶが、どの家からも誰の反応はない。そもそも何で誰もいない。夕方なのに帰宅する人もいないのは明らかにおかしい。
疲れてきたのでもう一度後ろを見ると、化け物はさっきよりも距離を詰めていた。
「いいでしょ、見つけたんだから、頂戴よ」
アサリに呼びかける化け物の声が聞こえると、アサリは足を動かす力が跳ね上がた。
「そうだ、今こそアレを使うと気ですね!」
バッグの横に防犯ブザーを付けてるのを思い出すと、力任せに掴み取った。すぐにけたたましく音が鳴り、それを聞くとアサリは防犯ブザーを、次いでバッグを投げつける。
「これはいらない!」
しかし化け物はアサリが投げたバッグが当たる事を気にせず、一緒に地面に落ちた防犯ブザーを腕で叩き潰し、何も無かったかのような速度で追いかけている。
潰された防犯ブザーは最後にかすかな音を鳴らす。それはアサリに対する最後の別れのようにも聞こえ、小学校から一緒だった通学路の相棒が、少し時間を稼いだ代わりにもう旅立ってしまったのだと思わずにはいられなかった。
「何で防犯ブザーを投げてるんですか私は、そして誰も出てきてくれないんですか! 公園、公園なら!」
あそこなら誰かがいるはずだ、と叫びながら道筋を考える。
家の反対側になるが、この辺りはアサリの遊び場だ。公園に行けば広いので夕方になっても散歩や帰宅途中の人やカップルのどれかがいるはずだ。
走っているせいで、公園まではそう遠くはない。
もう後ろを見ずに、必死で公園まで走った。
「お母さん、お姉ちゃん、お父さん、お兄ちゃん、ひょっとしてたまたま偶然何らかの理由で公園にいたりして下さい。いないなら誰でもいいから助けて下さいそしたらぎゅって抱きつきますから男の人なら好きになるかもしれませんから!」
もはや自分でも何を言っているのかよく分からない。
当たり前だが、アサリの希望はあっさりと打ち砕かれた。
「何で誰もいないんですかぁ」
公園の電灯は点いているのに、人っ子一人として存在しない。
それでも誰か居る事を期待して公園の中を駆け回る。
散歩道を駆け抜け湖の近くの芝生に入ると、化け物の音がしなくなったことにアサリは気づいた。
「い、いなくなったんで、しょうか」
後ろをちらりと見ると、何もいない。立ち止まり当たりを見渡すが、化け物の姿も無ければ何の音もしなくなる。
アサリは息を整え、大きく深呼吸をする。
「た、助かったんで、しょうか?」
ほっと息をついて、少し落ち着いた。そしてまず思ったのが、バッグ取りに行かなきゃ、だった。
「でも、戻ったらまたあの化け物に会ったりしませんでしょうか?」
化け物が見えなくなり安心したのか、アサリはそんなことを考える。
そうだ、お兄ちゃんに取ってきてもらおう。
いい考えを思いついたと言わんばかりに手をたたくと、遠回りして帰ろうかと反対側の出入口に向かおうとした。
だから気が付かなかった。湖が揺れていることに。
アサリが湖に背中を向け歩こうとすると、大きな水しぶきの音がした。アサリが反射的に後ろを振り向くと、湖の中から出てきた化け物が、宙を舞っているところだった。
「その足頂戴!」
ずぶ濡れの化け物はアサリのすぐそばに着地する。
余りにも突然の事にアサリは尻もちをつき、腰が抜けて足がまったく動けなくなってしまう。
「頂戴よ」
今までで一番近い距離で、笑っているような顔で物騒なことを言う化け物。
アサリが何も言わないでいると、化け物はゆっくりと歩きながら声をかけた。
「いいでしょ、見つけたから、頂戴よ。私、きれいでしょ。だから、頂戴よ」
「い、い、い、嫌です」
アサリは首を横に振り、ようやく声を出せた。化け物はその言葉を聞くと雰囲気を変える。
「じゃあ」
化け物は睨みつけ、叫びながらアサリへと駆け出した。
「私と同じ顔にしてあげるからその足もらうわ!」
「もらうな!」
アサリでも化けでもない、しかし聞き覚えのある声が聞こえ、同時に化け物は凄い勢いで真横に飛んで行った。
化け物が見えなくなると、さっきまでは見えなかったその姿が見えた。
「うわ、濡れてるじゃないかあいつ。ズボン濡れたな」
そこには少年が立っていた。
多分あの少年が化け物を蹴り飛ばしたのだろう。
その少年は、アサリがよく知る人物だった。
中学生の癖に高い身長。まだ成長期の癖に、百八十センチ以上あるらしい。アサリと頭一つ以上の差がある。
暗記系が得意で、国語はほぼ満点。計算は得意ではないが不得意というわけでもない。
休みが多いくせに体育はトップクラスで、部活をしてもいない癖に体育測定もかなりの上位、ただ多分あいつは手を抜いていると言われているらしい。
アサリは別に聞いてもいないのに、クラスメートが色々と楽しそうに教えてくる、特別親しい相手はいないが、特別仲が悪い相手もいない、そんな少年。
「結構飛んだな。足が少ない分飛びやすかったのか?」
多分、学校で一番喋るのはアサリだと思う、アサリがからかおうとして、逆にからかわれる相手。だから声を聴いたらすぐに分かった。
「あ、あつ……ひ、ろ?」
紋常時篤飛露が、立っていた。
「ショートホームルーム以来だな、アサリ」
篤飛露は、いつも教室で呼ぶように、アサリの名前を呼ぶ。
「あ、あつひろ、あつひろ、あつひろぉ」
「ああ、篤飛露だ」
アサリは知っている顔を見て驚いたのか、何を言えばいいのか、しかし何かを言わなければならない。そう思い、篤飛露に向かって一気に話かける。
「あ、あのですね、あつひろをみてですね、でもいなくてかえろうとしたらおばけがいてですね、あのおばけあしがなくてでもはしっておいかけてきてですね、にげていなくなったんですけどやっぱりいて、こしがぬけてたてなくてにげられなくてそしたらあつひろがいてぇ」
「あー、とりあえず落ち着け」
要領を得ないアサリに、篤飛露は落ち着かせようと肩をたたく。そしてさっき化け物が飛んで行った方を見つめて。
「まだ妖怪がいるからな、先にあっちを片付ける。アサリはちょっと待っててくれ」
「……」
無言で頷くアサリ。
篤飛露は体を化け物のほうへ向け歩きだす。数歩歩いて、何か忘れ物を思い出したかのようにアサリに振り向き。
「もう安心していいぞ」
そう言うと、瞬く間に見えなくなった。
言われたアサリは一瞬何を言われるのか分からなかった。
「……モウアンシンシテイイゾ、もう安心していいぞ。……安心して、いいんだ」
あの化け物に会ってから、意味が分からないことだらけだった。化け物が何なのか、何故襲われたのか、何で誰もいないのか、そして、なんで篤飛露が助けに来てくれたのか。
篤飛露を見ると、離れた所であの化け物に襲い掛かっているようだ。よく見えないが篤飛露が近づくたびに化け物が吹っ飛んでいる。
その様子を見てようやく完全に安心したのか、全身から力が抜ける。
そう、全身から力が抜けてしまったのだ。
「……え、あ、ちょっと、え、うそでしょ」
もともと何で帰ろうとしていたのか、化け物のせいでアサリの頭はすっかり忘れていたが、体のほうはしっかりと覚えていて、そして強制的にアサリの意識に思い出させた。
「あ、だめ、ねえ、だめです、ねえ、だめですよ、ねえ!」
自分の体に向かって懇願するが、彼女の体は言う事を聞いてくれない。
全てが終わり体は満足したようだが、代わりにアサリの意識はこの世のすべてに絶望した。
「……死のう」
アサリは、そう呟かずにはいられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます