常紋時篤飛露は洗い物をしている

 篤飛露はから誰にも知られていないはずの事を、何でもない事のように言った。

 当てずっぽうに言われたのだろうか、アサリはそれも考えたが、断言している言いようだった。何故かはわからないが、友達にも家族にも知られていない事を、篤飛露は知っているのだ。

「何を言ってるんですか。私は家でも給食でも、カレーはよく食べますよ。むしろ家では辛いカレーしか食べませんぐらいです」

 ばれないように言う事は、もう慣れていた。いつも自然な口調で言っており、知られる事は今まで一回も無かった。

 家族からも、誰にも。

「……アサリは一回もカレーが好きとは言ってないだろ。それに昼間、給食のカレーは味が違いすぎて食べられる、とも言ってたよな。まるで普通のカレーは食べられないみたいな口ぶりだった」

 しかし篤飛露は、そんな言葉でわかってしまうのか。そこまでアサリの言葉に注意しているのか。

「……どうしてそんなに、わかるんですか? ……ひょっとして……」

 篤飛露は、私の事が好きなんですか?

 茶化すようにそう続けようとしたが、その前に篤飛露がそれ以上の事を言う。

「それはお前がアサリで、俺が篤飛露だからだな」

 そう言われて、アサリは何も言えなくなった。

 全く意味が分からない、意味不明な言葉だ。

 友美と夏志のように小さい時からの付き合いがあれば、知られても不思議ではないだろう。

 しかし篤飛露は、紋常時篤飛露とは、ついこの間、四月からの付き合いしかないのに。

 そう思っているが、何故か同時に心の中ではその言葉に納得してしまうアサリが居た。

 アサリがアサリで、篤飛露が篤飛露。ならば何を知られても仕方がない。

 だからすべてを篤飛露に知ってほしい、共有してほしい。

 何故か急に、アサリはそう思えてしまった。

「篤飛露はお姉ちゃんと会ってますよね。実はお姉ちゃんは従姉なんですけど、これも知ってましたか?」

 アサリが急に言った時、篤飛露はテーブルの上を布巾で拭き終え、いつの間にかキッチンにいた。

 聞こえいないのだろうか、篤飛露は何も言わずに食器を洗っている。

 いや、篤飛露には聞こえている、そうに決まっている。女の子が秘密を打ち明けようとしているの、だ。

 ひょっとしたら最初から知っているのかもしれないが、それでも聞こえていないのは許されない。

「お母さんとお父さんとも会いましたよね、ついさっき。玄関の前に立っていた二人がそうです。でも、私を産んだのは実は反対側に居た母さんで、お父さんとお母さんは実は、おじさんとおばさんなんですよ」

 返事が無くても気にせず、アサリは喋る事を止めない。

 母さんの姉がお母さん。わかりにくいかもしれないが、お父さんとお母さん、そして母さんと言い方を変えて、アサリは自分の中で分かるように使い分けているのだ。

「……あの男は関係ないから殴ったらまずいと思うか?」

 やはり聞こえていた。

 しかし開口一番に殴ったらまずいかどうかとは。ひょっとして、関係のある三人は殴るつもりなのだろか。

「完全に無関係というわけでもないんですよね。小学校の時、お母さんに引き取られる前は母さんとあの人の三人で暮らしていましたから」

 そう言ってから今日のこと思い出すと、篤飛露はあの人が父親ではない事を知っていた。その事を聞こうかとも思ったが今は自分の話を優先し、アサリはあの二人は三年生の時まで一緒だった。三年生の夏休みに今の家に引き取られたと続けた。

「じゃああいつがアサリを……。どう殴ってほしい?」

 決めつけているが、まあ、突然引き取られたのだ。少し考えれば子供に酷い事をしていたのはすぐに予想できただろう。

 お父さんが『あんな事して』と言いながら怒っていたし、むしろ想像をできない方が不自然かもしれない。

「……二人とも、辛いカレーが好きなんですよ。篤飛露は家でカレーは食べてましたか? 子供用に作る、あんまり辛くない物をです」

「……まあ、食べてた事はあるな」

 急に話が変わったが、今までの話からして関係がある話なのはわかってくれたはずだ。

 篤飛露は何故か一瞬躊躇していた。おそらくだが、アサリに思い出させたく無いのだろう。

「私は甘いカレーは食べた事が有りません。私が食べたのは二人が食べる物と同じ、辛いカレーです。普通は子供用に甘いカレーを別に作るらしいんですけど、面倒だったんでしょうね。最初は、まだ小学校に入る前は、辛すぎて泣き出したんですよ、食べられないって」

「当たり前だな」

「それが気に入らなかったんでしょうね。タバコを押し付けたり、頭から水をかけたり、単純に殴ったり、タバコを押し付けたり。所謂、虐待ですね」

「……」

「そのうち気がついたんですよ、泣いていたら虐待される、って。だから気がついたら、どんなに辛いカレーをても泣かないで食べなければいけないって思って、小学生になる前にはもう食べられるようになったんです。だから小学校で初めて食べた給食のカレーはびっくりしましたよ、全然辛くなくて。同じ名前だけど別の料理かと思ってましたから」

「……そうだな」

 篤飛露の口数が少なくなっているが、アサリには気にしている様子は無い。篤飛露に知って欲し

いとの気持ちが強くてどんどん話しかける。

「そうこうしている内に三年生の夏休みに引き取られていったんです。お父さんとお母さんが突然家にやってきて、連れていかれて、これからはおじさんとおばさんが両親だって言われて、びっくりもできませんでした。実を言うと、小学生の一回だけ泣いたのって、この時だけなんですよね」

「……夏休みの内なのか、入ってすぐに?」

「よく覚えていいませんど、そんなに経ってませんでしたね。確か最初はおばさんに誘拐されると思って、友達とはもう会えないなあ、と泣きながら思いましたから。登校日より前ですね」

「それは……、早くてよかったな」

 何故かほっとしたような顔をしている。ひょっとして昔の事なのに、今の事のように感じている似だろうか。

「確かに早いですね。おばさんだったお母さんは、遅くなってごめん、と言われましたが」

「小学校に入る前から虐待されてたんだ、そう思っても無理ないだろ」

「そうかもしれませんね。まあ、母さんは隠すのが得意だったんでしょう。ともあれ誘拐された私は、気がついたら姫芝アサリになっていたんです。これにはびっくりすよね、この時はびっくりしました」

「その前は、……覚えているのか?」

 少し詰まったのは、言いにくいと思ったのだろう。今はそんな事は気にしていない事を教えるために、明るくふるまって答える。

「覚えていますよ、八歳の頃までの名前ですから。久藤アサリです。……思う出しました、引き取られてすぐに誕生日になって、九歳になったから姫芝アサリだって言われたんでした。今考えてらおかしいですよね、九歳になったから姫芝って」

「……それは覚えているんだな」

「覚えていますよ。それで引き取られて少しして気が付いたんです。私、家のカレーは辛くないと食べれなくなってしまったんですよ」

「……昔から嫌いじゃなかったのか?」

「はい、嫌いじゃないんですよ、実は。食べられないんです。あの時は一口食べて慌てて吐き出したんです。あ、トイレに駆けこんでですよ。テーブルの上て吐いたら怒られますからね」

「……今も甘いカレーは食べられないのか?」

「今はどうでしょうね、食べてませんから。小学生になる前は甘いカレーがいいって言って怒られましたから、もう家では甘いカレーは食べちゃダメって自分で思っているんでしょうね。……でも、家族にばれたら、私のせいでみんながカレーを食べなくなるじゃないですか。辛いカレーは食べられますから、もっと辛い方がいいって言って、みんなをごまかしたんです」

「小学生なんだから、もっとわがままでも良いんじゃないか?」

「引き取られた直後ですよ、無理に決まってます。もし相手が篤飛露なら何でも言えたんですけどね」

「俺なら何を言っても構わないけど、それを聞くかはわからないぞ」

 篤飛露なのに聞くだけなんだ、そう言いながらアサリは後ろに倒れて横になる。

 話してすっきりした、それは間違いない。しかしそれと同時にまだたりないと思ってしまう自分もいた。

 全部話すと決めたのだ、篤飛露は質問をしないが、まだ大事な部分を話していない。

「生まれの父親についても聞きませんか?」

 これまでの話した中で、父親については一度も出なかった。代わりにあの人と呼ばれた人は出たが、篤飛露は何故聞かないのだろうか。

「今日の事については関係ないんだろ」

 返ってきた返事に、篤飛露は気を使っているんだろうと思う。しかしここまで言っているのだ、聞かないのが逆に失礼じゃないかとアサリは思ってしまった。

「関係はありますよ、昔は私の親だった人なんですから。まあ、私が三歳の時に弟を連れて離婚したんですけど」

「聞いた事無かったけど、弟が居たのか」

 少し驚いた声を出した篤飛露を見て、アサリは満足そうにうなずいた。

 アサリが篤飛露を驚かせるのはこれが初めてかも知れない。

「いたんですよ、弟が。両親が離婚した時以来一回も会ってなくて、もう顔もわからないんですけど」

「名前なら覚えているだろ」

 そう言わるが、アサリは首を横に振った。

「忘れました。忘れなさいって言われましたから。……それよりも父親の方ですよ。篤飛露は気にならないんですか」

「そうだな。……考えたらアサリが虐待された原因の一人だよな。調べて殴りに行くか?」

「わざわざ調べなくてもいいですよ。一応……親が連絡先は知っているそうです。でも多分、私の顔も知らないでしょうから。何でも前に連絡を取った事があるそうですけど、私には興味が全く無かったそうです。……私のアサリって名前、珍しいと言うか、よっぽどの理由がないと付けない名前ですよね、娘に。何しろアサリですよ、貝ですよ、貝」

「……俺だって、飛んでロシアに行くような名前だ」

 アサリを慰めるための冗談なのだが、言っている事がおかしい。篤飛露は珍しく、何を返せばいいのかわからなかったのだろう。

「無理をしてそんな事言わなくていいですよ。……なんでも母さんがマタニティハイになって、浅蜊の味噌汁が好きだからって、私の名前にしたそうです」

「……それで、離婚か?」

 話の流れからしてそうなのだろう。アサリも頷いて話を続ける。

「弟を作ってますから、結婚を続ける努力はしていたんじゃないんでしょうか。結局は離婚したんですけど。母さんと二人だけの時に怒られたのを覚えています、アサリって名前のせいで離婚したんだ、って」

「……よくもまあ、言えたな、そんな言葉を」

 自分で自分に名前をつける事はできない。付けた本人にそう言われたら、幼児であっても理不尽に思うに違いない。

 呆れた声を上げると、アサリは同意しながら笑う。内心ではどう思っているのかわからないが、楽しそうにも見える。しかし本当に楽しそうに言っているのかは篤飛露には分からない。

 何を言うべきかを考えていると、それを察したアサリは立ち上がり声をかけてきた。

「篤飛露、もう夜になってますし、お風呂を借りますね」

 そう言われて慌てて振り向くと、アサリはもう居なくなっていた。家に上る際に一通りは教えたため、トイレと風呂場も分かるはずだ。

 もう向かってしまったのだろう。止めようと思ったか、すぐに近づく事を止める。何しろ女子が風呂場に入ってそこに近づいてしまったら、どう思われてしまうのだろうか。

「まだ風呂掃除をしてないから、掃除をしたくないならシャワーしか使えないぞー」

 姿が見えない相手にそう言うと、同じような口調で返事が返ってきた。

「何でまだお風呂掃除をしていないんですかー、そのくらい予想して、掃除もしておいてくださいよー」

「無茶言うなー、お前が家に来ることを予想できるかー」

「しょうがないですねー、今日はシャワーで我慢しますからー、次からはちゃんと用意しておいてくださーい」

「お前自分で何を言ってるのかわかってないだろー」

 他のアパートの住人に迷惑がかからない程度の声で言い合っていたが、アサリからの返事が無くなった。

 本当に入ったのか。そう思い、大きくため息をついた。

 もう中学生なのに、一体何を考えてこんな事をしてしまうのだろうか。

 それともまだ中学生だから、こんな事をできてしまうのだろうか。

 考えても答えが出るわけが無い。篤飛露とアサリは別人なのだから、篤飛露は自分がいろいろと普通と違う事は理解しているから。

「そこに置いてある使ってないタオルやら服やらは、好きに使っていいからなー」

 最後にそう言うと、キッチンのふすまも閉める。もしばれたとしても言い訳ができるように、少しでも離れるために。

 無駄かもしれないがそうする事で、少しでも危険を回避する確率を増やす。そう思いながら洗い物を再開した。

 再開と言っても殆どが終わっている。食器も調理道具も片付けて、後は残った水しぶきを拭くだけだ。

 そろそろ時間になるだろうか、そう思っていると風呂場のドアが開く音がした。

 ここにはまだアサリしかいない。何か忘れ物でもあったのだろうか、そう思っているとキッチンのふすまも開く音がする。

 何か起こったのか、そう思い振り向こうとしたがすぐに止めた。足音からアサリが後ろに居る事はわかっている。そして少なくとも靴下ははいていない。

「どうしたアサリ、何かあったのか?」

 振り向かないまま声をかけるがアサリからの返事は無い。動いたアサリから聞こえた音で、篤飛露は振り向くわけにはいかくなっていた。

 前を向いたままのその背中に、アサリは飛び込んできた。

 篤飛露の体に抱きつき、体を押し付ける。

「篤飛露、私をここにおいてください。……何でも、何でもしますから……」

 そう震える声で言ったアサリが一糸まとわぬ姿なのは、直接目にしてはいないが、篤飛露にははっきりとわかった。

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