常紋時篤飛露は料理を作る

 篤飛露がどこまで走っていか、何も見ようとしないアサリには全く分からなかったが、彼女にはもう誰からの声も聞こえていない。声が聞こえないぐらい離れているのだろう、つまり、もう誰も見なくていい。

 そう思いアサリは顔を上げ、もう歩くから下ろしてください、そう言おうとした。しかしアサリは目を開いて入った景色に何も言えなくなった。

 アサリは、つまりアサリを抱える篤飛露は、空中を飛んでいた。

「飛んでますよ飛んでますよね飛んでるんですか! 空を、空をですよ篤飛露、飛んでるんですよ篤飛露!」

 あまりの事に驚きすぎて、何故か楽しそうに言ってしまっていた。

「飛んでないぞ」

 アサリの声に、持ち方を変えて所謂お姫様抱っこの姿勢に変えていた篤飛露は言葉を訂正した。

「あれですか、篤飛露は名前の漢字に飛ぶって入ってるから飛べるんですか! 生まれた時から飛べるんですか!」

「だから飛んでないって。ジャンプしてるだけだ」

 興奮したアサリには篤飛露が何を言っているのか意味が分からなかった。

 ジャンプとは斜め上に飛んで斜め下に落ちるものだ。しかし今篤飛露はほぼ真横に進んでいる。飛んでいるが落ちていないはずだ。

「ジャンプならひょっとして頑張ったら私にもできるんですか!」

 しかし今のアサリには空を飛ぼうがジャンプだろうが関係なかった。空を飛ぶのは無理だがジャンプならできるかもしれない。それしか考えてなかった。

 さっきまで気分とは全く変わっていたが、現実逃避かもしれない。

 そう思ってしまったが、篤飛露はそれでもいいかと思ってしまった。

「頑張って空中を蹴って進めたらな。それより大声を出してたら誰かに聞こえて見られるかもしれない。喋ってもいいけど小声で喋ってくれ」

 空中を蹴るとは一体どうすればできるのだろうか。詳しく聞こうと思ったが、アサリは止める事にした。

 自分で飛ぶより篤飛露に抱えられて飛ぶ方が、きっと楽しいからだ。

 ずっと飛んでいたい。

 流れる風景を見ながら小声で我がままを言ったが、それに対して篤飛露も小声で残念ながらもうすぐ終わりだ、と宥めるように言った。

 事実、あるアパートの上に着くと空中で止まり、すぐに地上に向かって落下する。

 しかしそれも何かのアトラクションだと思っているのか、アサリは悲鳴を上げず、むしろ楽しそうに笑っていた。

 アパートの塀はずいぶんと高い。急落下する二人の姿は誰にも見られず、塀に隠れる高さになると今度は落ちる速度を落とし、音もなく着地した。

 そして篤飛露は少し考えたが、結局アサリを抱えたまま歩き一階の角部屋に入った。

「アサリ、靴は脱いでくれ」

 そう言うとアサリを地面に下ろす。下ろされたアサリはよっぽど楽しかったのかまだ笑っており、笑顔で返した。

「……お姫様抱っこもいいですが、改めて考えたら山賊に攫われるポーズもなかなか悪くなかったですね」

 それを聞いた篤飛露が笑いながら家に上ると、アサリも少し遅れて恐る恐るついて行く。

 家には入ってすぐにキッチンがあり、その他に部屋が二つ見えた。仕切りは全て空いていたので中が全て見える。

 一室にはテーブルと本棚が置いてあり、学校用のバッグや制服も置いてある。もう一つにはベッドがあり、ここは寝る為だけの部屋なのだろう、それ以外は何も置いていない。

 家族がいると思ったが誰もいない。いないと言うよりも、部屋の広さからして一人か、せいぜい二人ですむような部屋だ。

 トイレと風呂の場所を教えた後、篤飛露はベッドから畳んだタオルケットを持って来て床に置き、アサリにそこに座るように促す。

「ここに誰かを入れた事が無くて、クッションも座布団も無いんだ。これで我慢してくれ」

「じゃあ私が初めてなんですか、それでは仕方が無いですね。……でも、やはりタオルケットに座るのはどうかと思うますから、次に来る時までに座布団かクッションか、ソファを用意しておいて下さい」

「いや、次は無いからな。今日が特別なだけで」

 そう言いながらアサリを座らせ、篤飛露はキッチンに向かい冷蔵庫を開けた。

「甘いものでお願いします」

 何かを聞かれる前にアサリが注文を出す。出された篤飛露は冷蔵庫を開けたまま、冷静に返事を返した。

「家に甘いものは蜂蜜かスティックシュガーと水か、牛乳しか無いぞ」

「じゃあホットミルクに砂糖と蜂蜜を入れてください」

「めんどうだ」

 結局篤飛露は蓋が開いていないペットボトルの麦茶を持ってくる。

 文句を言わずに礼を言って、アサリは両手で受け取った。しかし受けったまま一向に飲もうとせず、見ているだけで蓋を開けようともしていなかった。

 正面には篤飛露が座り、ペットボトルをテーブルに置く。置いたまま篤飛露も飲もうとせず、それを見てアサリは、篤飛露が待っているのだと感じた。

「……何も、聞かないんですね」

「聞いてほしいのか?」

 お互いに聞き合い、それで会話が止まった。アサリはどうしてほしいのか、自分でもわからなかったからだ。

「……正直に言うと、聞いてほしいのと聞いてほしくないの、私の中の気持ちでは両方あるんです。私は一体、どうすればいいのでしょうか?」

 わからなかったので、素直にそう言った。この質問に篤飛露が何と答えても、今のアサリならきっとそれに従ってしまうだろう。

「……待つから、じっくり考えろ。言っていいのかいけないのか、偶々一緒に居た俺に、言ってもいいのか、をな」

 篤飛露はそう言って、アサリの安易な考えを許さなかったのだろう。

 そう思ったのと同時に、アサリは今の篤飛露の言葉についてどうしても訂正したい部分があった。

「篤飛露と一緒に居たのは、偶々じゃないですよね。篤飛露は毎日家まで送ってくれて、私が助けてくださいって言ったら、助けてくれました。最近毎日一緒に帰っていて、今日もずっと一緒に居て、絶対に偶々じゃないですよね」

 そう言っても篤飛露はなにも返さなかった。その代わり無言のまま立ち上がり、アサリに背中を向ける。

「とりあえず俺は晩飯を作るから、考えるなり俺の背中に言うなり飯ができるまで寝るなり、好きにしてくれ」

 そう言われてアサリは、何かを考える前にまず今生まれた気になってる部分を聞く事にした。

「篤飛露がご飯を作るんですか?」

「ああ、今日はもう買いに行く気分にはなれないからな。俺が作るのは嫌かもしれないが我慢してくれ」

「いえ、篤飛露が作るのが嫌とか全然ありませんよ。そうではなくてですね……」

 聞きにくい事なのでアサリが言い淀んでいたら、察した篤飛露が冷蔵庫から卵を取り出しながら言葉をつなげる。

「俺は病気の都合で一人暮らしをしてるんだよ、だから簡単な料理ならできる。だいたいここに家族で住むのは狭すぎるだろ」

 そう言われてもそれで納得できる人は居ないだろう。

「……病気の都合で、一人暮らしなんですか?」

 純粋な疑問がアサリの口から出る。そして口から出してすぐに軽々しく言っては駄目だと自己嫌悪に陥る。

 しかし病気なのに一人暮らしするのは、どう考えてもおかしいと思う。

「精神の方の都合でな、それ以上は聞かないでくれ」

「……すいません」

 やはり篤飛露からそう言われた。これはどう考えてもデリケートな問題だろう。安易に聞ける問題ではない。

 アサリは慌てて謝ったが、聞いていないのか篤飛露はコンロにフライパンを置いて火をともす。そして卵を片手で二つ割り、中身を解きほぐしながら手は止めず、アサリに謝り返した。

「話の流れ的に聞くのは当たり前だよな、こっちこそごめん」

 解きほぐした卵に調味料を入れ、さらにかき混ぜる。混ぜ終えるとフライパンに油を入れ、まんべん無く広げた。

「ところで、何を作っているんですか?」

「オムレツ。米を炊く時間がないから足りないかもしれないけど、それも我慢してくれ」

 今度は冷凍庫から何かを取り出し、レンジに入れる。

 無駄が全く無い動きにアサリは感心しながら、篤飛露が一人暮らしなので料理になれているのだろうとも心の片隅で思った。

「どうして作れるのがオムレツなんですか、好きなんですか?」

「材料が卵だけですむから。材料を切る必要も無いから準備が楽だし、失敗しても焦げるだけだから普通に食える。アサリは作れるか、オムレツ?」

「……家庭科の授業では作ってませんね。肉じゃがなら作ったんですけど」

「俺は逆に肉じゃがは作った事ないな。肉じゃがは材料をいちいち切らなきゃならないだろ、材料の後始末が面倒で、作ろうとも思わなかった、よっと」

 アサリからは動いてる篤飛露の背中しか見えない。

 しかし体の動き方と聞こえた声で、玉子を丸くしたのだろうと予想できた。

「……慣れている手つきなのが、本当に予想外ですね。お兄ちゃん……、拓南お兄さんは炒飯なら作った事はありますけど」

 お兄ちゃんと言った後、少し考えて言い直した。篤飛露はその事に気づいているが、あえて触れない。

「作れるけど、今日は米を炊いてないからな。……ほら、味について何かを言いたくなるかもしれないが、それも我慢してくれ」

 そう言って篤飛露はオムレツとスプーンをテーブルに置きと、座らずにそのままキッチンへと戻った。

「作ってくれた物に文句を言うつもりはありませんが、それはそれとしてケチャップについては聞いてもいいと思うんですよ」

 アサリはスプーンを持ちながら、何かを探すように聞く。しかし篤飛露はその言葉に首を振り、諦めるように促す。

「残念ながら家にケチャップは無いんだ。仕事で家を空ける時を考えて調味料とかは粉末とかの消費期限が長い物しか持って無くてな、ケチャップはあんまり使わないし。俺の分はもう少し時間がかかりそうだから、先に食べててくれ」

 篤飛露はそうゆう仕事をしているせいで学校の休みが多いのだろうとは思っていたが、そんな不便な点もあるとは思っていなかった。

 ケチャップが無い生活、全く想像もできなかった。

 ともあれ残念だが言われた通りケチャップは諦めるしかない、そう思って先に食べようとする。篤飛露から言われたのだからそれに従うべきだろう。冷める前に食べたいし。

 アサリはそう思いスプーンですくった。篤飛露が作った料理を口にする日が来るとは、それも授業以外で。

 一口目を食べると、アサリは驚嘆の声を上げた。オムレツの味が、甘くなかったのだ。

「・……このオムレツ、味付けに砂糖を使わず別の物を使ってますね。おそらくですが、スーパーにいろいろ種類がある、中華のだし的な物をです!」

「……いや、そんな言い方しなくてもこれを使うのは普通だろ? 大叔父さんにはそう教わったんだけどな」

「この味は初めてです。家ではいつも砂糖とバターで味付けをするのですが、これもおいしいですね。月に一回はこの味で出してください」

「味が気に入ったのはよかったけど、また食べに来る気かアサリは」

 そう言いながら手には深皿と食パンを持った篤飛露がキッチンから出てきた。アサリの前に来ると皿の中身の香りが広がり、カレーだとわかった。

「篤飛露はカレーとパンですか?」

「さっき米が無いって言っただろ。あと今日の昼間に俺の晩飯はカレーだってもな。カレーは作ったら一部冷凍して、いつでもすぐに食べれるようにしてるんだよ。冷凍するから具は無いけどな」

 言われてみれば昼のメニューを決める時、そんな事を言っていたような気もする。しかしカレーがあるのなら、何故わざわざアサリ用にオムレツを作ってくれたのだろうか。

 そう思いながら篤飛露を見ると、パンを千切りカレーを付け、無表情で食べている。

 一緒に食事をしているのだから、もっと楽しくしていればいいのに。

「ひょっとして、カレーがそんなに好きではないのですか?」

 だからそんな顔をしているのだろうか。そう思ってしまったが、篤飛露は食べながら否定する。

「嫌いじゃないけど好きでもない、普通だな。作り置きに便利だからよく作るけど、ある程度過ぎたら痛むから定期的に食べないといけないんだ。だから今日の予定にしてたんだよ」

 そう言われると、一応は納得できる内容だった。しかしそうすると、別の疑問がわいてしまう。

「じゃあ私にカレーを食べさせないで、何でオムレツを作ってくれたんですか? ……あ、わかりました。篤飛露は料理ができる所をアピールして、私を口説こうとしてるんですね!」

「……そう言う事はいいからさっさと食えよ。さっきからスプーンが止まってるぞ」

 急に咎めるような口調になる。アサリは何かを言い返そうかとも思ったが、オムレツのおいしさに免じて言わない事にした。

 何よりこのままでは冷めてしまう、それはオムレツに対して失礼だろう。美味しいオムレツは美味しく頂く、それがこの世界で決まられたルールなのだから。

「確かに、篤飛露にはいつも私にやさしくしてくれないという罪がありますが、オムレツには罪はありませんからね」

 そうは言ったがここに来てからずっと、篤飛露は意地悪などしていない。軽く冗談を言っているが、むしろ優しく、助けてくれている。

 アサリがそう思っているのは確かだが、同時にこのくらいで気持ちを変えられないと思っている。何の気持ちかは心の中でも言わないが、ここで気持ちを変えてしまったらあまりにも軽すぎる女だと思われてしまうからだ。

 しかしあと一歩、あと一歩踏み込まれてしまったら、篤飛露の事をどう思ってしまうだろうか。

 アサリがそう思ういながらオムレツを食べ終わると、ほぼ同時に篤飛露もカレーを食べ終える。食器を片付けようと思い立ち上がろうとしたアサリを手で制して、篤飛露は二人分の食器をまとめるとすべてキッチンへと運んだ。

 篤飛露は冷蔵庫から何かを取り出し、何か作業をしている。キッチンで何をしているかはよく見えないので訝しんでいるとレンジの音が鳴り、マグカップをアサリの前に置いた。

「ほら、これがいいんだろ」

 マグカップにはホットミルクが入っており、一口すすると甘く、砂糖と蜂蜜の味がした。

(篤飛露のくせに、篤飛露なのに。……篤飛露、なのに)

 何も言えないまま、無言で何度もすする。口に出さなくても何度も音を出してホットミルクをすすったから、美味しいと思っているのは篤飛露にはきっとわかっているはずだ。

 アサリに背中を向けて片付けを始め、それをアサリはぼんやりと見ていた。

 これは一歩ではない、半歩だ。そう思って自分を決めつける。

 まだ足りない、ホットミルクを出されただけでは、せいぜい半歩止まりなのだ。後半歩、口に出してくれたら、その半歩は……、四分の一歩にしよう。

 アサリは飲みながら考えている。やはりまだ早い、まだその距離を踏み込んでほしくない。まだアサリにもそれを決められてないからだ。今日踏み込まれたら、自分はどうなってしまいうのだろう。

 しかしアサリが決めたその距離を、決して届かないはずのその距離を、篤飛露は口に出した言葉で一気に踏み込んできた。

「そもそもアサリは、カレーが嫌いだろ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る