姫芝東明は娘の帰りを待っている
姫芝東明は次女が帰ってくるのを待ち切れなくなり、六時になると家の前の道路に立って左右を見回していた。
妻の実奈恵も一緒に外に出てはいるが、左右を見回している自分を見ているだけで、あまり心配をしているようには見えない。
なのでつい娘を心配していないかと聞いてみたら、目の前でそんな様子をされてしまったらこっちは落ち着いてしまうに決まっている、と言い返されてしまった。
そう言う事は聞いた事がある。それが本当だとは思わなかったが、二人そろってあたふたしているよりはよほどいいだろう。決して妻が薄情なわけではないと確信し、その事については少し安心した。
「確か、車はこっちから来たよな」
昨日あの男の子の母親は車で来た。つまり車がどっちから来たを考えればアサリが帰ってくる方向が分かるはずだ。
「そうだったけど、来る時少し迷ったとも言ってたから、そっちから来るかは分からいって。そもそもどっちでもいいでしょ、どっちから来るかなんて。どうせ歩いているんだから」
確認しただけなのに酷い事を言われてしまった。
しかし言われた事はもっともなので、ごまかそうと口を開く。
「それはそうなんだけど、どうしてもな」
そもそもなぜ、アサリを車で送ってくれなかったのだろうか。そうすれば今頃はもう家に入っているはずなのに。
そう思っていると心の中を見られたのか、それとも口から漏れていたのか、何も言っていないはずなのに美奈恵が答えを教えてくれた。
「あんな事があったんだから、アサリちゃんも不安なんでしょうよ。歩きながら心の整理をする時間が必要だったんでしょ」
そう言われては何も言えなくなる。娘にショックを与えた一端は自分にもあるのだろうから。
何だかんだで結婚する前から考えたらもう二十年以上の付き合いだ。心の中を知られてもおかしくないのかもしれない。
東明は妻の心の中を読んだことなど一回も無いが。
そう思って天を眺めていると、かすかな足音が聞こえた。
ほぼ同時に二人とも足音の持ち主を見る。すると少し曲がった道路を歩く娘と男の姿が見えた。
反射的に駈け出そうとしたが、実奈恵がその肩を掴んで止めた。
「……どうして止めるんだ」
「ここに来るまで待ちなさい。走っていったら逃げるかもしれないでしょ」
野生のノラ猫を探していたわけではないのだが、言った事には納得できる。
何しろ昨日は頭に血が上り、アサリにも強く言ってしまっている。
できるだけ自然に、それでいて威厳を保ちながら悠然と、二人はアサリが来るのを待っていた。
当然だが、篤飛露が歩いて近づいているのも見えている。
アサリのすぐ後ろを歩いており、おそらくだが逃げ出さないようにするのと同時に勇気を出させているのだろう。
昨日のように急に誘拐をしないはずだ。
待ちながらそんな事を考えていると、あと数歩になったところでアサリは止まった。
ここまで来て逃げ出すのか、そう思ってしまったがもちろん違う。
アサリが止まったのは、口を開くためだった。
「……ただいま戻りました」
言われたのはそれだけだった。
アサリは何を言われるのかをここまで考えていて、きっと怖がっていたのだろう。
ちらりと横の妻を見ると頷かれたので頷き返し、できるだけ優しくアサリに言う。
「お帰り、アサリ」
「ずいぶん早起きしたから、途中で眠ったりしなかったでしょうね」
二人とも安心させるつもりでそう言ったのだが、まだ恐れが拭えていないのだろう。アサリは恐る恐る、両親に尋ねる。
「……私は、ここに、この家に帰っていいんですよね? もう荷物はまとめてあるから、母さんの所に行けと言いませんよね?」
何てことを言うんだ、そう言いそうになったが何とかこらえる事は出来た。
生みの親からあんな仕打ちを受けていたんだ、その心配は一生消えないかもしれない。
何を言えば安心するのだろうか。
東明が必死で考えていると、何かを言う前に実奈恵が先に口を開く。
「そりゃあアサリちゃんは私達の娘なんだからいいに決まってるでしょ。将来家を出てもこの家に帰って来たら、ちゃんとただいまを言いなさい」
軽く叱るようなで言った事で、逆にアサリを安心させようとしている。
妻に負けじと東明も慌てて言葉を告げる。
「そ、そうだぞ。法律的にもアサリは完璧にうちの次女なんだからな。アサリが家に帰るのを断ったら警察に捕まってしまうぞ」
だから安心しろと言おうとしたが、妻から横脇を叩かれた。
(言い方! そういう言い方をしたら、法律で決まってるから仕方なく受け入れるって思うかも知れないでしょうが)
(いや、アサリがうちの娘なのを強調しようと思って)
(だとしても、もうちょっと言い方を考えなさい!)
小声で話しながら、二人はアサリを見る。
今言った事で不安になってはいないだろうか、後ろにいる男の子はまた誘拐したりしないだろうか。
アサリの様子からは、まだよくわからい。
「アサリ! まだ早いんだからいつまでもここに居たら近所の人に迷惑でしょ、朝ごはんを食べるんだから早く家に入りなさい。お姉ちゃんもお兄ちゃんも待ってるんだから!」
そう実奈恵が強く言って、動かないアサリを無理やり家に入れようとする。
不安になっているならこう言った方がむしろ安心するのではないかと思ったのだが、聞いたアサリは後ずさってしまう。
これも言い方がまずかったんじゃないのか?
夫はそう思っているのと、アサリは恐る恐る口を開いた。
「……朝ごはんは、もう食べました……」
「……そう、早いね……」
そして母娘の会話が終わってしまった。母親の作戦は失敗だったのだ。
まずいと思った東明は終わった会話を続けようとする。
「あ、朝は、何を食べたんだ?」
「ぱ、パンです。……六枚切りを一枚食べました」
「一枚か、うちでもいつもパン一枚だな。……パンには何を塗ったんだ?」
「あの、イチゴジャムとチョコレートジャムを、半分づつ塗りました」
「そうか、おいしそうだな。……お父さんはいつもマーガリンだけど、たまにはそれもいいかもな。今度一緒に買いに行くか?」
「買うのはいいんですけど、余ったらどうしましょう?」
「その時は、紅茶にでも入れるか。そういう国も有るんだったよな」
「見た事がありません。……ありませんよ、紅茶を飲んでいる所は。……お母さんもお父さんも」
そう言って、アサリは笑った。
アサリの笑い顔に東明も一安心して笑い返すと、そこを逃すまいと実奈恵がさらに口を開く。
「知らないだろうけど、学生の頃はたまに飲んでたんだから」
「そうなんですか。じゃあ何で家では飲んでないんですか?」
「社会に出ると大体出るのがコーヒーかお茶で、紅茶は無いからみんな何故か飲まなくなるのよ」
「じゃあ、今度紅茶を買いましょうか?」
「いや、そもそもジャムの話でしょ?」
言いながら、両方少しずつ近付く。
(……あれ?)
途中までは自分が話してたはずなのに、気が付いたら実奈恵がアサリと近づいている。
もちろんそんな事では文句は言えず、二人の会話を聞く事しかできなかった。
「じゃあ、ジャムを買いに行きますか?」
「ジャムは好きだけど、糖分がね。アサリちゃんも今はいいけど年を取ったら気を付けないと。春菜はもう気を付けているはずだし」
「じゃあお兄ちゃんは大丈夫ですね。遠い学校に毎日自転車で通ってますから」
(俺は?)
もちろんそんな事を言える雰囲気では無いが、何故か仲間外れにされたような気分になる。
「分からないよ~。その分たくさん食べてるから、運動しても逆に増えたりして。その時はお腹を抱えて笑おうか、みんなで」
そう言われてもアサリはそれには何も答えず、代わりに母親に飛び込んだ。
「お母さんです、お母さんです。……お母さんなんです!」
きっと、ようやく親としてアサリを守ろうとしている事を信じる事ができて、安心したのだろう。
声からして泣いてはいないようだが、しっかりと両手で実奈恵に抱きついている。
(まあ、男親には抱きつかないか)
長女も含めて、あとどれくらいそんな機会があるだろうか。そう少し残念に思っていると、妻が一瞬こちらを見て、薄ら笑みを浮かべた。
何故そんな顔を妻はしたのか。
そう考えた次の瞬間、東明の考えは全てが実奈恵の策略だと思い至った。
妻は、実奈恵は、昔からかわいい物に目が無かった。
子供は最低三人は欲しいとよく言っていた。だからこそアサリを自分の娘としてかわいがっているのもあるだろう。
だから夫に、東明に、娘が抱きつく機会を与えなかったのだ。自分が娘に抱きつかれるために。
きっとアサリを見た時から計画は始まっていたのだ。だからこそ、東明が駈け出そうとするのを止めた。
説得している時、気がついたら会話を奪われていた。きっとアサリの心が解れてきたので、その機会を逃さなかったのだろう。
(……さすがだな……)
素直にそう思うしかなかった。
正直母親なのだから悪ふざけでいくらもできると思ったが、ひょっとしたら女の子でも嫌がるのかもしてない。
そんな事を考えながらようやく本当に次女が帰ってきたと安心をしていると、アサリと一緒に歩いていた、もう一人の男が近づいて来た。
「あの、これを。アサリさんの荷物です」
そう言いながら、カバンとノートの束を渡された。
一体このノートは何なのかと思ったが、昨日出かける前にアサリがノートを沢山買ってくると言っていた。
聞いた時は何で? と思ったが、今でもやっぱりわからない。
それからカバンを見て開けようとしたら目の前の男が待ったをかけた。何をするのかと顔を見ると、無言で首を左右に振られた。
それを見て、東明も中身を察した。
「……何でアサリは、中身がこれなのに自分で持ってこなかったのかな」
いくら何でも、アサリが中身を知らないはずが無いだろう。
娘の友達でも、中身が何なのかを具体的に言えるはずが無かった。
「昨日、罰ゲームで荷物持ちをしてましたから」
「そうか……」
わかるようでわからないが、東明はそう言うしかなった。
あらためて男を見る。
今更だが、アサリの同級生のはずだ。昨日は結構離れていたため気がつかなかったが、身長は東明よりも高い。
しかし顔つきはまだ幼く、高校生なら通用するかもしれないが大学生には無理だろう。
アサリが口にした少年の名前は何人かいるが、最近では一人の事しか言わない。
以前娘と一緒に探して、見つからなかったが神主をしている父親とは知り合った。
確か、名前は。
「紋常時篤飛露君、だったよな」
「……よく読めましたね」
「大人なんだから、当然だよ」
「でもアサリさんは、苗字を間違て読みました」
「そうか。それはいけないな、うん」
そんなあたりさわりない事を言って、お互いに距離を探っている。最後に篤飛露が言った事は二人とも覚えているからだ。
東明は昨日この子から、親未満とか親になってから来いとか言われている。そんな事を言われては大人としては怒るのは当然かもしれないが、自分たちがやっていた事を考えるとそう言われても仕方が無いような気もしてしまっていた。
お互いに会話のジャブは済んだので、これからどうやって試合を進めようかと考えていると、その前に篤飛露の方がタオルを投げて試合を終わろうとしてくる。
「それでは、アサリさんも送った事ですし家に帰ります。昨日は余計な事を言ってすいませんでした」
と、先に頭を下げられた。
下げられた東明は慌てて頭を上げさせろうとする。
何しろこの場の状況を文章にしたら、四十歳過ぎの男が中学生の男子に頭を下げされている。こんな姿を近所の人に見られるわけにはいかない。
(ひょっとして、それも計算のうちか!)
そんな事を考えながら正面を向かせる。
「こちらこそ大人げ無かった。こう言うのもなんだけど、お互いさまと思ってくれ。……それよりも、君は弁護士をやっている、紋常時大雅さんの親戚だろう?」
「はい、大叔父です。……珍しい苗字ですから、そう思いますよね」
「実はね、昨日のうちに電話をしてたんだがその時に、アサリを君の所に預けた方が良いと言われたんだよ、君なら守ってくれると。元々アサリをあの二人の前に出す気はないが、確かに誰かが付いていた方が良い。また別にお礼をするから、申し訳ないけど頼めるだろうか」
中学生に頼むのはどうかと東明も思ったが、アサリは彼を信頼しているのは間違いないようだ。別の仲の良い友達に頼む事も考えたが、関係者を増やすのもしない方がいいだろうし、言ってみれば篤飛露に頼むのが一番、都合がいい。
「大叔父がそんな事を。……しばらく家に置くのは構いませんが、二人だけになるのはまずいですから、お姉さんかお兄さんを一緒にして下さい」
篤飛露は一瞬横を向いて大叔父に対して文句を言っているような顔になったが、すぐに表情を変えてそう言った。
東明の妻はおろか、長女も長男も何故か篤飛露に頼む事には賛成していた。だから逆に東明は信用できなかったのだが、中学生にこんな事を言われてしまったら、この子を信頼するのも納得である。
「いや、それは大丈夫だ。保健室でもいいから今日も学校に行ってほしい」
それを聞いた篤飛露は何かを言おうとしたが、口には出さず何かを考えた後に一人で納得し始める。
「……そうか、あれは家族ではないから学校には入れない。学校にいる事が一番安全なのか」
「ああ。放課後には誰かが迎えに行くつもりだが、詳しく事情を知っている人がそばにいた方が安心できるだろう。気を使ってくれたらそれだけでも助けになると思うから」
その言葉に篤飛露は頷いて答えたあと、まだじゃれついている母娘を見る。
「じゃあ、そろそろ家に入って着替えた方が良いでしょうね。朝食はもう食べたので、誰かを一緒に連れて一旦家に行きましょう」
つられて東明も妻と次女を見た。
アサリが家族にあそこまでじゃれつくのは初めてかもしれない。
「また家に帰る事になってしまってすまないね」
当然だがとんぼ返りになると思ってそう言ったが、篤飛露が否定する。
「大丈夫です、制服に着替えるのは別の家に行くので。校門が開くまではそこに居ましょう」
「……?」
家が二つ有ってそちらの方に制服があるのだろうかと考えようとしたが、自分の家庭環境をあまり知られたくないので、考えるのを止めた。
篤飛露の家にもきっと何かがあるのだろう。
そう思い、娘を制服に着替えさせるようにした。
「おーい、いいかげん家に」
そう言っていると大きな音を出した車が見えたので、全員が道の脇に下がった。
嫌な予感がして東明は家族の前に立つと、予想通り車は大声を立てて止まった。
「やっぱり早起きして正解だった、アサリが帰ってるし。ま、母親だから当然だけど」
「俺に早起きさせやがって。ここまで面倒かけさせたんだから、昨日は貰おうとはしなかったけど、ここまで世話をさせてやった分の金も貰わないと納得できないよな、これは」
「太祥、ナイスアイデアー。じゃあその分は、五年前に預けたから、切りよく五百万円でいいか」
車から出てきたのは、アサリの元母親とその恋人だった。
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