姫芝拓南、帰るなり姉と戦う

 玄関のサーチライトが消えるまで扉を見つめた後、春菜はリビングに戻った。アサリはまだ風呂から出ていなかったので時計を見ると、まだ風呂に入るいつもの時間ぐらいしかたっていない。

 春菜は篤飛露から貰った紙をテーブルに置いて、ソファに座る。座ると信じられない程の疲れが出た、時間はかかっていないが、内容が濃すぎたのだろう。

 そしてすぐに自己嫌悪に陥ってしまう。

「あーもう、もっと何て言うか、全然ダメだった」

 誰に言うわけでは無い、自分に言っている言葉だ。アサリのクラスメートはあんなにしっかりしてたのに、それと比べて自分は何を言っていたのかと思ってしまう。

 あれはこういえばよかった、これは言うんじゃなかった、自分は何を言ってしまったのか。全てが嫌になってしまう。できる事なら最初からやり直したい。

「ヤンキーって、あれが普通なのかな」

 春菜に知り合いにヤンキーがいないから分からないが、ひょっとして口が巧いヤンキーがいるのも普通なのだろうか。

 クッションを抱えて顔を埋めていると、リビングの扉が開く音がした。アサリが風呂から上がったにしては少し早い、そう思いながら顔を上げると、そこには弟が帰ってきていた。

 この弟はどうしてこんな夜に自転車で山に行って、家にはいなかったのか。

 そう考えると少し怒りが湧いてきた。

「何だ、愚弟か」

「帰った早々酷い言い様だな、姉貴は」

 拓南はそう言いながら持っていたペットボトルを飲み干し、テーブルに置くとソファに座った。

「お姉ちゃんなんだから、弟に何を言っても問題ないの」

「……あんな時間から妹を探しに方々を駆けずり回った弟に対して、帰っていきなり愚弟は問題だと思うんだけど。あんなに走ったのにな、あんなに」

「弧卯螺山に何で行ってんの。アサリが歩いてるのに、そこに居ると何で思ったの」

「それは何て言うか、勢い、かな。そうそう、アサリは帰って来たんだろ、風呂にでも入ってるの、それとももう部屋にいるとか。晩飯は残ってるけど、罰としてめし抜きにでもしたとか?」

 遠くの山に居た事をごまかそうとする。拓南は実は最悪の状況を考えていたのだが、考えは外れた。ならば何も言わない方が良いだろう。

 妹の事を弟に言われて、春菜は急に正面を向き何も言わなくなった。拓南が何かあったと訝しんでいると、小さい声で風呂とだけ答えるが、それがかえって拓南を動揺させる。

「風呂ね。……姉貴、なんかおかしくないか。アサリに何かあったのかよ、ひょっとして、警察を呼ぶような事とかあったのかとか」

 立ち上がって詰め寄る拓南を見て、春菜はさっきまでの自分はああだったのかと無表情に思ってしまった。

 それを見て拓南はさらに声を上げて聞こうとする。大声を聞きながら春菜は、弟に話すべきかを考えていた。

 両親がいれば任せられるが、今は居ないのだ。今からではどうやっても出張からは帰れない。

 正直に言って、一人では耐えられそうにない。言えば少しは心が軽くなるのだろうか。それに拓南も探しに行っていたのだ、話さなければ納得しないだろう。

「声が大きい。アサリちゃんが聞いたらどうするの。ちゃんと話すから座りなさい」

「わ、分かったよ」

 戻った拓南を、春菜は真っすぐに見つめた。余りの表情に拓南はつい、先にトイレに行っておくと言いそうになる。

「アサリちゃんがね、暴漢に襲われかけたらしいの」

「はぁ!?」

「だから大きいって!」

 思わず声を上げる拓南に、さらに大きい声で返す春菜。アサリにも聞こえたかもしれないが、姉弟ゲンカでもしたと思ったかもしれない。

 言われた拓南はソファに体重を預けると深呼吸をし、改めて姉に向き直った。

「襲われかけたって、アサリは無事なんだよな、だから風呂に入ってるんだよな」

 確認する声に頷く春菜。篤飛露は暴漢とは一言も行っていないのだが、拓南にはわからない。

「何も無かったって、アサリのクラスメートは言ってた」

 当然だが、アサリのクラスメートとは一体何の事なのかと疑問が出てくる。まず思いついたのが、誰かが一緒に逃げていたという事だ。

「とりあえず、聞いたことは全部話すから。正直言って拓ちゃんも共有してほしい」

 その雰囲気に何も言えなくなり、拓南は頷き、何も言わずじっと姉を見つめた。

 そして春菜は自分が聞いたことを語り始める。明らかに聞いた事より大げさになっているが。

 助けた男の子は偶々通りががったアサリのクラスメートで、助けるために武器を持った暴漢から体を張って庇い、蹴りで数十メートル吹き飛ばした、数十分の格闘の末に後ろ回し蹴りを使うと暴漢は逃げ出した、そしてショックのあまり自殺しようとしたアサリを男の子は元気づける為一緒に湖に飛び込み、そしてお姫様抱っこで抱えて連れて帰った。

「と、言うわけ」

「……姉貴、そんな真面目な顔でそんな事言って、俺をバカにしてるのかよ」

「バカって、あんたこそ真面目に聞いたの!」

 拓南は姉の言い分を最後まで我慢して聞いた。途中から、こんな時にたちの悪い冗談を言うなんてと怒りそうになり、最後まで冗談だと言わない事に爆発した。

「聞いたよ、だからそう言ってんだよ。じゃあ聞くけど、中学生が包丁を持った暴漢からアサリを守ったんだ、素手で!」

「そう!」

 包丁どころか武器すら有るとは言っていないのだが、春菜ははっきりと肯定した。

「で、隙を見て相手を蹴って十メートル以上吹き飛ばしたと!」

「そう!」

 離したとしか言ってなかったのだが、春菜は頭の中で変換していた。蹴りで十メートル以上吹き飛ばす事は普通は無理なのだが、アクションのドラマや映画で見た事があるので、春菜はそれが普通だと思っている。

「で、何十分も格闘して、最後に後ろ回し蹴りで吹き飛ばしたら暴漢は逃げ出したと!」

「そう!」

 春菜は格闘技を見た事は無いので、延々と殴り合うのは当たり前だと思っている。そして後ろ回し蹴りがどうゆうものかも当然調べてない。

「その後にショックを受けたアサリを元気づける為に、何故か二人で湖に入ったと!」

「そう!」

 元気づける事と二人で湖に入ることは、当然だが拓南は全く繋がらなかった。そこだけ聞いたら湖に入って心中しようとしたとしか思えない。

「最後にアサリをお姫様抱っこで抱えて、家まで運んできたと!」

「そう!」

「……いや、これはできるか。恥ずかしいだけで」

 いつしか立ち上がり、額を詰め寄り言い合う姉弟。暫く睨み合っていたが、弟の方が先にソファに体を倒した。

「つまり、姉貴はそのアサリのクラスメートに騙されたって訳だ」

「だ、騙されてるわけ」

「騙されてるよ、そんな事ができる中学生がいるもんか」

 実際にはそんな事どころかそれ以上の事ができる中学生なのだが、見た事も会った事も無い拓南には信じられるわけが無かった。

「アサリちゃんを連れてきたのはヤンキーだったの。ヤンキーの中学生ならあれぐらいできる人、居るかもしれないでしょ」

「……そいつヤンキーなんだ。ってヤンキーって何だよヤンキーって。今時ヤンキーなんて言わないだろ」

 確かに春菜は実物のヤンキーを見た事はない。冗談で人にヤンキーと使った事はあるが。

「でも、どうゆう人か分かりやすいでしょ、ヤンキー」

「確かに分かりやすいけど。じゃあ髪を派手に染めてたとか、顔中にピアスを付けてるとか、タバコを吸ってるとか?」

「髪は普通だったしピアスは無かった。タバコは分かんないけど匂いはしなかったかな。でも暴漢とケンカしたりするんだからヤンキーでしょ」

 それを聞くと拓南は大きくため息をついた。昔からだが、この姉は決めつけが多い。

「そもそも、ケンカしたのが嘘なんだよ。包丁を持ってる相手とケンカなんかできるわけないだろ。アサリと二人で話を作ったんだよ、きっと」

 実際に春菜も最初はそう考えた事もあった。しかし話を聞いている内に、本当の事を言っているとしか思えなかった。

「嘘を言ってるとは思わなかったけど」

「じゃあ演技が上手いんだろ、そのヤンキー。多分二人でいちゃついてて遅くなって、怒られるから適当に話を作ったんだよ。母さんはごまかせないかもしれないけど、姉貴ならできると思って」

 確かに、可能性が大きいのは拓南が言った方だろう。それにアサリの事を考えたら、暴漢に襲われるより彼氏と一緒だったと方がましだ。

 こうなってくると拓南の言った事が本当のように思えてしまう。春菜は悩み始めたが、既に結論が出ている拓南にはそれより聞きたい事が有った。

「で、そいつ二年生なら去年に会ってるかも知れな。名前は何ていうの?」

 そう言えば、まだアサリを助けた人の名前を言ってない。拓南は去年はアサリと同じ学校に通っていたので、面識があっても不思議ではない。

「……あ、あ、あー。あつひろ?」

「何で疑問形なんだよ、しかも名前だけで」

「しょうがないでしょ、フルネームで一回しか聞いてないし、なんか珍しい名前だったし」

「名前は覚えてるじゃないか」

「多分だけど、時々アサリが言ってる人でしょ。帰ってから思い出したんだけど」

 そう言われると、あつひろという名前は拓南にも心当たりがあった。アサリが二年生になってからちょくちょく会話に出てくる名前だ。下の名前を呼び捨てにしているので、彼氏かとからかった事がある。

 からかわれたアサリは敵だと言っていたが、そこからくっつくのは実際によくある事なのかと思ってしまう。

「あつひろ、ねえ。……部活の後輩には居ないな。アサリが家に連れてきた訳でもないし」

「確かに。アサリが家に連れて来たら、って言うか男の子を連れて来たら絶対忘れないけど」

 そう言うと、春菜は一つの事を思い出した。テーブルに置いていた帰る時に渡された紙を開き、中を見る。

 予想通りそこには、連絡先の他に名前が書いてあった。

「それは?」

「帰る時に連絡先もらってた。……紋常時篤飛露、か。名前も漢字はこれは、苦労してそう」

 そう言いながら紙を渡す。受け取った拓南は一目見て顔をしかめる。

「ルビが打ってあるよ、手書きで。普通は予想しない漢字使ってるし、確かに苦労したんだろうな。……これは俺が預かっておくから。アサリもそろそろ出て来るだろ、晩飯あっためたら?」

 立ち上がりながらポケットに紙を詰め込み、拓南はリビングから出ていこうとする。

「ちょっと、まだ登録してないんだから返しなさい。帰ったらお母さんに渡すんだし」

「俺が登録して母さんに渡せば問題ないだろ。姉貴はダメ」

 拓南はその男を信用していない。アサリのクラスメートと言っているが、そこから信用していないのだ。

「私がもらったんだから私が渡します。返しなさい」

「だーめ」

「姉に向かってその言い方は何だ」

 そしてこの姉もいまいち信用しきれない。だから拓南は別の問題が起こらないように連絡先を没収したのだが、そんな弟の心遣いを全く知らず、姉は文句を言い続けていた。

 自分の部屋に逃げる為に拓南はソファから離れようとしたが、春菜は首に掴みかかって逃げられないようにする。

「姉貴は色々ダメだからダメ」

「何、その意味の分からない言い方は」

 姉弟で軽くケンカをしていると、風呂上がりの末っ子がリビングに入ってきた。

 しかし二人はその事に全く気が付かなかった。

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