紋常時篤飛露は嘘はついていない
篤飛露は嘘を言うつもりはない、ただちょっと誤解をしてもらうだけだ。
アサリが濡れているから早く風呂に入ってほしいのは真実だが、そのためにだけに話の場から消えてもらったわけではない。
アサリに嘘をつかせても家族に対して罪悪感を持たせることになるし、そもそも嘘がバレる可能性がある。
だからと言って本当の事を言っても信じてもらえるはずがない。ひょっとしたら信じてもらえるかも知れないが、それはそれで困る事になる。
化け物の事をあまり教えるわけには行かないからだ。
なので普通だったら当たり前なのだが、口裂けテケテケ女の事は話さずに犯人は人間だと思わせなければならない。
篤飛露が一部隠した言い方をして、アサリには本当の事を言わせる。そうすれば、アサリは何かの事件に巻き込まれて錯乱している、そう思わせるはずだ。
アサリは途中で眠ってしまい、覚ましたら自分の状況に恥ずかしくなり、打ち合わせをしようとしたが何も言っても聞いてくれなかった。
まあ、アサリは本当の事を言えばいいのだ、下手な打ち合わせはしない方が良いかも知れない。
そう思いながら心の中で何を言うかを確認して、最初の言葉を言った。
篤飛露の言葉を聞いた春菜は、鋭い声で言葉をぶつけた。
「無事とか間に合ったとか指一本とか、何か事件でもあったんみたいな言い方じゃないの!」
アサリに何をした、あんたじゃなかったら一体だれが妹に触ったんだ。
目だけでそう語っていた。
「いえ、事件は何も起こっていません。私がギリギリだったけどまにあったので、アサリさんと相手を離して、それからは近づけさせませんでした」
相手という言葉が聞こえて、春菜の声が大きくなる。スリッパのままで土間に立ち、両手が濡れるのにも気にせず篤飛露の肩を揺さぶった。
「相手って誰、アサリちゃんに、アサリちゃんに何があったの、誰かが何かをしたの!」
篤飛露に叫ぶように言う。アサリが何者かに襲われたと思っているのだろう。実際には口裂けテケテケ女が相手なのだが、そんな事は言えるはずもなかった。
「落ち着いてください、さっきも言いましたけどアサリさんには無事です。指一本触らせてません」
「大丈夫なのね、アサリちゃん大丈夫なのね。変な男に、何もされていないのね!」
疑問ではなく、確認の声。
一言も男とは言っていないのだが、春菜の中ではもう犯人は男だと決まっていた。否定さえしなければ、後は篤飛露の都合のいいように話は進むだろう。
「はい。会う前につては聞いただけですが、制服は何処も破けて無かったですし、アサリさんも怪我は無いと言っていました。相手が襲うより私が駆け寄った方が早かったらしく、本当にギリギリでしたが、触れられていないと本人も言ってました」
そう言われて安心したのか、大きく息をついて篤飛露から手を放す。力が抜けたのか少し離れると床下に座り、さらにもう一度、大きなため息をついた。
「……ごめんなさい、続けて頂戴」
「続きと言いますか、私の方を最初から話します。……アサリと会ったのは偶然だったんです。自分の用事が終わって森水公園を帰っていたら声が聞こえて、何事かと行ってみると尻もちをついたアサリ……、アサリさんと、襲い掛かろうとしている奴が居たんです。それで慌てて近づいて相手を離したんです」
少し落ち着いた春菜が、アサリの事を呼び捨てにして、慌てて『さん』を付けている事に気がつく。そう言えばさっきはお互いに呼び捨てで喋っていた。
多分それが、教室でのいつもなのだろう。姉の前では『さん』をつけなければならないと思っているのだろうか。
「言いにくいなら、アサリちゃんをいつものように呼んでいいよ」
「すいません。それで蹴りを入れて離して、アサリを助けるために庇いました」
一応謝りつつ、篤飛露はアサリのことをやはり呼び捨てにした。篤飛露にとっては『アサリさん』と呼ぶのは言いにくい。
「蹴ったんだ。で、相手はどうしたの、逃げたの?」
アサリが男の子と、互いに呼び捨てでようんでいる。……そういう事なのだろうか?
それにしてもいきなり蹴るとは。弟が蹴りをする所を見た事は無いし、同級生も見た事は無い。体も大きいし、ひょっとして暴力的な子なのだろうかと春菜は思ってしまう。
確かに普通の人間なら妖怪を見ていきなり蹴りを入れることなどできない。そういう意味では篤飛露が暴力的な子というのは、間違ってないのかもしれない。
「いえ、相手はそれでもアサリを襲って来ようとするので、来るたびに何度も殴りました」
「なるほど、何度も殴ったんだ。……殴るんじゃなくて、逃げようとはしなかったの?」
「逃げることはできませんでした。アサリが尻もちをついていて、後で聞いたら腰を抜かしてたらしいです」
そもそも口裂けテケテケ女を逃がすわけにはいかなかったのだが、そこはうまく誘導する。
「なるほど、腰を抜かしてたから逃げれなかったんだ。だから相手をなぐった、と」
篤飛露の企みは成功し、ケンカをするのはアサリを守るためだと誤解させている。しかし同時に春菜は、篤飛露の予想外の事も誤解をしていた。
(この男の子、ヤンキーだ)
いくら襲われているのを見たからと言って、いきなり蹴りを入れ、次に殴った、しかも何度も。普通の中学生はそんな事はしない、暴力的どころじゃない。
春菜は確信していた。目の前のこの子はヤンキーである事を。
髪は染めていないが間違いない。普通の中学生はいきなり蹴ったり殴ったりできるはずがない。きっと日常的にケンカをしているのだろう。
おそらくだが、この男の子がアサリを助けてくれたの本当だろう。しかしひょっとしたら、ケンカをしたかっただけかもしれない。
(さっき自分の用事が終わったと言っていたけど、まさかそれもケンカで……!)
「あなたは、怖くなかったの?」
普通はケンカする何て怖い事なんてしない。ましてやいきなり見知らぬ人を蹴るなんて、できるはずがない。
春菜は昔聞いた格闘技の選手のインタビューを、うろ覚えながら思い出した、何でも試合中は普通ではいられないそうだ。
「怖いとか考えてなかったですね。その時はアサリを守る事も考えてましたから」
実際に全く怖くはなかった、相手の口裂けテケテケ女が素手だったからだ。篤飛露は相手が武器を持ってない以上、大体の生物に勝てる。自身ではなく、確信で。
アサリの事も守るつもりはあったが、気配を感じているに留めていただけだった。
だから篤飛露は、アサリを守る事『も』考えていた、と言ったのだが春菜は、アサリを守る事しか考えていたから怖くなかった、と勘違いをしていた。
篤飛露は、アサリの事で頭がいっぱいだった、と思わせる事に成功したのだ。
「そう、勇敢なのね」
そうは言ったが、春菜はこの男の子の事をどう思うべきか分からなかった。
確かにアサリを守ってくれたかもしれない。女の子が襲われているの見て、一人で助けようとしてくれる。そんな男の子が一体どのくらいいるのだろうか。
しかし、頭から離れないのだ。この男の子はヤンキーだという事を。
アサリを助けたのは偶然で、ケンカができるから取り合えず蹴った、ただそれだけかも知れないのだ。
「クラスメートに何かあったらを助けるのは当然です。……最終的に後ろ回し蹴りを当てて、相手はいなくなりました」
誤解をしているのは篤飛露の予定通りなのだが、篤飛露はここまで楽とは思っていない。
この言葉も誤解を仕向けるように言っている。いなくなったと言うか、爆発四散したのだが、勿論そんな事は言わない。そんな事を言えば今まで言った全てが信じてもらえなくなる。
「そう、後ろ回し蹴りを……」
そう呟いた春菜だが、篤飛露の言葉に一つ疑問点があった。
(後ろ回し蹴りって何だろう?)
最後に蹴りが付いてるのだから、当然蹴りなのだろう。ひょっとして必殺技なのだろうか。
「ただ、どちらかというとその後の方が問題だったんです」
そう、口裂けテケテケ女など何ら問題は無かった。考えればその後が大変だったのだ。
昔、暗黒皇帝軍団と知り合ったばかりの仲間と共に戦い、地球の危機を救った事もあったが、それよりも大変だった。あの時は途中ではぐれてしまったが、大丈夫だったのだろうか。
今日の事を説明しようと考えるうちについ、そう思い出してしまった。
「後って、もう帰れるだけでしょう。……そういえば帰るの遅かったけど、そんなに犯人とその……ケンカをしてたの?」
言葉を思い浮かばなくて、ケンカという言葉を使ってしまった。ケンカという言葉を使ってしまった事で、自分にもケンカを仕掛けて来たらどうしようと思ってしまう。
しかし篤飛露はケンカという言葉を聞いてしまい、つい少し笑ってしまった。冗談以外でケンカという言葉を聞いたのは、いつの事だろうか。
「いやその、ケンカと言うか、とにかくそれは時間的にはまだ日が暮れる前に終わったんです。ただ、アサリが、近づかせてくれなかったんです」
「アサリが近づかせてくれない?」
思わずオウム返しに言ってしまった。
ケンカが終わったのにこんな時間まで居たのか、そう思ってしまう。それに近づくなとはどうゆう事だろうか。助けてくれたなら感謝こそすれ、近づかせないとは、一体何が有ったのだろうか。
「近づくな、遅かった、……あと、殺してくれ、とも」
苦しそうに言う篤飛露。その原因を思い出すと笑うかもしれないので、我慢するような言い方になってしまった。
「そ、そんな事を!」
篤飛露の言葉に、春菜は気づいてしまっていた。
何故そこに思い至らなかったのか。ショックを受けずにはいられなかった。その大きさに、絶望したような顔になってしまう。
中学二年生になったばかりの女の子が、帰り道に襲われたのだ、ただそれだけで相当なショックだろう。
それなのに帰ってきたアサリに、姉は何と言ってしまったのか、自分の行動を後悔してしまう。
実際には全然違うのだが、篤飛露はさらに誤解をするように仕向ける。
「すいません、やはり遅かったかもしれません。もっと早ければ、間に合っていたんでしょう」
具体的には何が遅かったとは言わなかった。それが情けだと、篤飛露にもわかっていたからだ。
そんな事を思いついてしまい、見られないように顔を横にする。そしてその仕草が誤解を加速させる。
「いいえ、あなたがいなかったら、考えたくも無かった事が有ったんでしょうし」
そんな篤飛露を見て、思ってしまう。
この男の子は少なくとも、間違いなくアサリを助けてくれたヤンキーだ、と。
「その後は、長い時間をかけて説得してました。濡れていたのはその為です。汚れたから、濡らして、全てをわからなくしてくれ、と」
「そう。……ってごめんなさい、あなたも濡れているんだ。今タオルを持ってくるから」
「大丈夫です。歩いてもうだいぶ乾いてますし、最近暑くなってきましたから。それより話を聞いてもらって、安心してもらった方が、俺も良いですから」
何ていいヤンキーなんだろう、そう春菜は少し感動してしまった。いいヤンキーなんていたんだ、とも。
「じゃあせめて、これを使って、全部使っていいから。あ、ゴミはこっちに」
ウエットティッシュの横についでに置いてあるティッシュを箱ごと渡す。篤飛露は受け取ると何枚かで顔を拭ったが、顔はもう大体が乾いているので、すぐに戻した。
「たまたまペットボトルの水を少しかかってしまったんです。そしたら、もっと掛けろと言いだして」
「それで水を」
「言われた通りにしたんですが、どんなに濡らしても、まだたりない、まだたりない、もっともっとだ、といわれて」
「そう、よっぽどショックを……」
きっと襲われたことで、自分は汚れてしまったと思ってしまったのだろう。汚れてしまった、だからきれいにしなくてはと、強迫観念に駆られていたのだろう。
そう考える春菜は涙が出そうになるが、何とか我慢する。そんなアサリを助けてくれて、そのうえ落ち着かせて家まで連れてきてくれた少年が、中学生が、目の前ににいるのだから。
実際には全然違い、下半身が汚れたのは物理的にだし、だから水をかけたのだが、そんな事は言うはずもない。
(この人、簡単に信じすぎやしないか)
そんな事を篤飛露は考えてしまい、春菜の姿に罪悪感すら感じそうになる。
「最終的に、申し訳ないですけど、湖に二人で入りました。全身、頭のてっぺんからつま先まで潜りました」
「湖に!」
「はい、勿論すぐに陸に上がって、それでようやく落ち着いたのか、帰ることに同意してくれました。ただ、一回は治ったんですけど、湖に入ったせいでまた腰が抜けてしまい」
「それでお姫様抱っこで抱えてきたわけだ」
湖に入れた事やお姫様抱っこで帰ってきたのが衝撃だったらしく、それ以上は何も言わなかった。冷静なら、色々と言う事があったかもしれない。
「ただ、恥ずかしくなったのか顔は隠したんですけど、近所の知り合いに見られたなら誰かは分かったかもしれません」
「それはまあ、しょうがない」
「後は、顔を隠してたのでアサリは鍵を取り出さなかったので、チャイムを鳴らして姫芝さんのお姉さんを呼びました、という所です」
そこは、春菜の知っている事だ。篤飛露の説明はこれで終わりだろう。春菜は頭の中で言われた事を考える。
正直に言って、こんな衝撃は人生でも初めてだ。これに匹敵するのは親がこの家を建てた時の事件だが、方向性が違いすぎる。
終わったので、何かを言うべきなのだのだろうが、春菜は何を言えばいいのか分からなかった。
「ごめんなさい、最初に姫芝さんのお姉さんって呼ぶように言ってたから。アサリちゃんのお姉さん……うん、お姉ちゃんって呼んでいいから」
だからなのか、どうでもいいことを言ってしまう。本当はもっと別に言うべきことが有るのは分かっているのに。
「さすがに、お姉ちゃんはちょっと」
「照れないでいいのに。まあ中学生だから、大学生のお姉ちゃんは呼びにくいか」
篤飛露の説明が終わってずっと考えているが、春菜は何をどう言うべきなのか一向に頭に出てこなかった。なのでどうでもいいことは続けてしまう。
それは篤飛露も分かっていた。慣れない事に巻き込まれた人が混乱して、どうでもいい事を話し続ける事はよくある事だったからだ。春菜に限らず、誰だってそうなるだろう。
だから篤飛露は帰ろうとし、体を玄関へと向けた。
「今から自分の保護者に会う必要が有るので、そろそろ帰ります。アサリも風呂から上がるでしょうし、優しくしてやってください」
「あ、そうか、もう遅いから。でもこのまま返すのも……。そうだ、晩御飯はまだ食べでないでしょ、作るからうちで食べてく?」
そう言われると苦笑で返しながらやんわりと断る。
「家で準備してますから大丈夫です。……最後に、これは保護者から聞いた話なんですけど、ひょっとしたらアサリは、今日あったことを頭の中で変換してるかもしれません」
「変換って、どうゆう事?」
「つまり、今日あった事がショックで心を守るために、記憶を別の事に置き換えたり、忘れたりするんです。例えば今日あったことを妖怪に襲われた、そう思い込むとか、何も覚えてなくて気が付いたら公園にいたとか。人によって違うそうですけど、今日あった事はそれがあってもおかしくないと思います」
「……確かにテレビとか本とか聞いたことは有るかも。でもそんな事をご両親から聞いたことがあるんだ?」
「保護者が神社の関係者なんです。それでたまに、妖怪に襲われた、お祓いをしてくれ、何て要請があるそうなんです。そういう時は安心させるために、お祓いの様な物をする事もあるそうなんです。だからアサリが何を言っても、否定はしないであげてください」
神社なら仕事でお祓いがあるのは誰もが納得できるだろう。神社の人が妖怪を祓う事が本当にあるとは春菜も信じていないが。
「分かった。……もしもの時は、ご両親に頼めるのかな?」
「家族が理解してくれるのが一番らしいですよ、後は病院も。神社は最後の……、それこそ最後の神頼み、と言うやつです」
これは念のために、と紙を渡してくる。
「これは?」
「一応何かあった時のための自分の連絡先です。それではこれで」
そして扉に手をかけ、背中を向ける。その背中に、春菜は大きく頭を下げた。
「本当に、本当にアサリちゃんを助けてくれてありがとう。両親が帰ってきたら、改めてお礼をさせて下さい」
「アサリに何かあったら自分も嫌ですから、何もなくてよかったですよ。あと、ご両親と会うのは大げさですので、できれば勘弁してください」
そう言うと篤飛露は外に出て扉を閉め、そこにいるのは頭を下げた春菜だけになったのだった。
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