姫芝春菜は妹を怒らなければならない
姫芝春菜は家の玄関で、妹の帰ってくるのを今か今かと待っていた。
アサリが帰って来ないので連絡をしてみると、今日は教室で勉強会をしていると返答があった。その返答にはすぐに終わって帰っているとも書いてあったが、もう九時を過ぎているのに帰っていない。帰りが遅いと連絡をしてみたら、今度は一切を無視された。
何でまだ帰ってきていないのか、一体どこで道草を食っているのか。
春菜は探しに行こうとしたが、弟の拓南に止められた。代わりに中学校まで拓南が探しに行ったのだが、何処にもいなかったらしい。
そのまま探しに行くと連絡があったが、その後は帰ってこないどころか連絡もない。ミイラ取りがミイラになったとはこういう事を言うのだろうか。
そして先ほど、ようやくアサリからの連絡があった。
『今帰ってます』
と。今帰ってますと言うなら一体何を今までしていたのだ。
こちらからの連絡は一切無視して一言も返さず、ようやく返事が来たと思ったら一言だけで、言い訳の一つもない。
これは、しつけが必要だ。
両親は揃って出張で北海道に出かけている。
春菜はもう大学生だし拓南は高校生、留守番ぐらいは問題はない。仕事が終わればそのまま有給でも取って観光でもしてくればいい、お土産たくさんお願いね、と両親を送り出したのは今朝早くだ。
帰ってくるのは金曜日の夜、そして今日は水曜日だ。つまりアサリのしつけは春菜に任されているのだ。
中学生に上がった時は問題なかったのに、二年生になって早々にこうなるとは。きっと中学生に慣れて、色々とタガが外れたのだろう。お説教二時間コースで教育しなおさなくては。
そう考えたところではたと気づく。お腹を空かせてないだろうか。
ただでさえ成長期だ、きっとお腹を空かせているに違いない。何しろアサリは毎日成長期にふさわしい食欲をいかんなく発揮している。
お腹を空かせたまま説教をした所で、はたして意味はあるのだろうか。それに昔の日本にはご飯抜きなどと言うしつけがあったらしいが、春菜に言わせればそれは立派な虐待だ。アサリにそんな事をするなんて、考えただけでぞっとする。
やはり食事を先にすべきだ。
そこまで考えていたところで、ある可能性に気が付く。
成長期なら我慢できずにもう何処かで食べている可能性もあるのではないか。
仮にもう何処かでご飯を食べているなら、もう作ってあるうちのご飯はどうなってしまうのか。ご飯を無駄にしてはいけない、無理やりにでも食べさせなければ。成長期なのだからきっと大丈夫だろう。それにダイエットとは無縁の、むしろもっと食べなければならない体型をしている。
食べた後に説教をして、アサリは気を落とすかもしれない。ひょっとしたら自分は誰からも愛されてないとショックを受けるかもしれない。
しかし問題は無い、アフターケアもちゃんと考えている。
今日はアサリは春菜と一緒に眠るのだと決めているのだ。
考えてみれば中学生になってから一緒に眠った事なんか一度もない。中学生にもなると嫌がるかもしれないが、これは罰なのだ。いや、罰なのはおかしい。妹と姉が一緒に眠ることが何で罰になるのだろうか。
そう考えが決まったところで、春菜はもう一つ重大な事を決めなければならない事を思い出した。
ご飯とお風呂、どっちを先にさせるべきだろうか。
お腹を空かせてお風呂に入らせるべきなのだろうか。しかしお風呂の後にご飯を食べて、それからお説教をしても眠ったりはしないだろうか。
しかしご飯の後にお風呂に入れても眠りたくなるのは同じだろう。春菜は今日は帰ってから早々に済ませているが、お風呂も一緒に入るべきだろうか。
ご飯の後にお説教をして、最後に二人でお風呂に入る。これはどうだろうか。
いっそお説教は明日の学校が終わってからにして、三時間、いや、まさかの四時間コースでお説教をすれば、もうこんな事はしなくなるんじゃないだろうか。
そう考えていると拓南からのようやくの連絡が入った。そう言えばアサリから連絡があったと伝えたが、返事はまだ無かった。
『今、弧卯螺山の真ん中にいる。帰りは遅くなる』
弟は一体どこまで行っているのか。
弧卯螺山は一応は一番近い山だ。一番近いが、家から五キロは離れている。アサリは歩いているのだ、弧卯螺山の中腹まで歩いて何時かかるか分からない。そもそも女の子の歩く距離ではない。
しかし拓南もアサリを探していたのだ。拓南は妹にとっては兄になるので、弟にもお説教をする権利が有るだろう。何しろ弧卯螺山の中腹まで、自転車で探しに行ったのだ。
しかし弟も帰りが遅いなら、お説教は明日に回すのがいいだろう。今日はアサリと一緒に寝る、それだけはしなければならないが。
それはそうと今は何時だろうと時計を見ると、アサリから連絡があってから三十分は立っている。
「あの子、今帰ってるって一体どこから連絡したんだか」
誰も聞く人は居ないと分かってはいたが、それでも独り言を呟かずにはいられなかった。
最初は早く帰って来いと仁王立ちをしていたが、しばらくしたら疲れないように床にしゃがみ、最終的に仰向けになって横になっている。
考える事も無くなり暫く玄関の方を眺めていると、外の明かりが点いているのが見えた。サーチライトが点いたのだろう。
すぐさま春菜は立ち上がり、腕を組んで仁王立ちになる。
最初に話すセリフは決めていた。
アサリちゃん、今何時なのか言ってみなさい?
その言葉を言うために玄関が開くのを今か今かと待ち構えていたが、何故か一向に開かない。
施錠をかけているが、アサリは鍵は持っているのに。
そう思っているとチャイムが鳴った。
「お、お姉ちゃん、開けてください」
玄関の外側から、かすかな声でアサリの声が聞こえる。まさか鍵を無くして、探していたからこんな遅くまで帰らなかったのだろうか。
「アサリちゃん、今何時だと思ってるの。鍵を無くしたなら無くしたで、お母さんに言わないといけないんだから、早く私に言わないとダメでしょ」
言いながら鍵をあけドアを開く。
そこにはアサリをお姫様抱っこで抱えた、男の人が立っていた。
「……?」
ドアを開けたまま、春菜の体がかたまる。
ずいぶんと大きな男性が、多分アサリをお姫様抱っこにして抱えている。多分と言うのは、アサリは両手で顔を覆って見えないようにしているからだ。
そして、何故か二人ともずぶ濡れだった。
アサリに何か有ったのだろうか、この人はアサリと知り合いなのだろうか、何でお姫様抱っこしているのだろうか、と言うかお姫様抱っこのままで歩いてきたのか、だから顔を隠しているのか、あと何で二人とのびちゃびちゃなのか。
混乱で何も言葉が出ないでいると、男性が口を開いた。
「誰かに見られて変な話をされても困りますから、とりあえずアサリを中に入れた方が……」
「あ、そうですね、はい」
言われた春菜は後ろに下がり、二人を玄関に招き入れる。
名前を知っているという事は、やはりアサリの知り合いなのだろうか。聞こえた声は思いのほか若かったし、顔をよく見ると春菜よりも若そうだ。青年というよりは少年と呼ぶべきか。ひょっとしてアサリの先輩かもしれない。
「立てるか、腰はもう大丈夫か?」
「だから、もう大丈夫ですって言ってるじゃないですか」
「本当か、アサリは恥ずかしがりそうだから、大丈夫じゃなくても大丈夫って言いそうだからな」
「だから大丈夫なんですから、もう本当に下ろしてくださいよ。……誰かに見られたらって言ってましたけど、近所の人に絶対見られてますよ」
アサリの肩を少年が支え倒れないようにし、アサリも少年の首に腕を回したままゆっくりと玄関に立った。そしてアサリがそそくさと少し離れ、少年はドアを閉めた。
春菜は何も言わず、そんな二人を凝視していた。気になるのは少年のさっきの言葉。
『腰はもう大丈夫か?』
それはいったいどういう意味で言っているのか。まさかこんなに遅かったのも、お姫様抱っこで帰ってきたのも、頭の上からつま先までびちゃびちゃなのも、それはつまり、そういう事?
そう言えば聞いたことがある。誘うときの定番、今日は両親が出張でいないの。確かに今日は両親が出張で不在だが、姉も兄もちゃんといるのに。
アサリはまだ中学二年生なのに、こんな事をするなんて。そう考えてから思い直す。
いや待てよ、少年の方が原因なのかも知れない。
多分少年は先輩だろうから。『今日は親が居ないんだろ、な、いいだろ?』とか言って強引に誘ったのだろう。アサリは断れず、こう、色々あって、あーなってこーなって、そーなってしまったのだろう。
だからお姫様抱っこをしてあんなにくっついてたのに、急に恥ずかしくなって距離を取ったとでも言うのか。よく見ればアサリは少年と顔を合わせようとしないが、ちらちらと横目で見ている。
春菜の頭の中で色々なことがぐるぐると回り、最終的に少年を睨みつける。
「お姉ちゃん、篤飛露をそんなに睨みつけてはだめですよ」
姉に責めるようにそう言ったが、春菜に重要なのは少年が篤飛露という名前だと知った事だけだった。
「アサリちゃん、帰って来たら、ただいまでしょ!」
厳しい声で𠮟りつけられ、アサリは思わずすくんでしまう。
「ごめんなさい。お姉ちゃん、ただいま帰りました」
小さい声だったが、春菜は頷いて挨拶を返す。
「はい、おかえりなさい。ちゃんと手をきれいにする、そこの人も。……で、その、篤飛露君は、アサリのどんな関係なのか、きっちり明しなさい」
「それは……」
玄関に置いてあったウェットティッシュで手を拭きながら、言い淀むアサリ。何を言うべきかを悩んでいると、篤飛露が前に出て、アサリから貰ったウエットティッシュを丸めながら口をはさんだ。
「先に風邪をひかないように、濡れてる物を脱いで風呂にでも入った方がいい。説明は俺が説明しておくから、早く」
「でも、私が説明しないと。篤飛露が説明しても信じてもらえないかも知れません」
「大丈夫、こういうのは多少は慣れてる。ただ後からアサリもあった事を聴かれるかも知れないから、その時は家族に本当の事をちゃんと言えばいいんだ、ちゃんとな」
そう言いながら篤飛露は、アサリの瞳を見つめる。
瞳だけで何かを伝えあっている。
春菜にはそうとしか思えなかった。
「本当の事なんて、言えるわけないじゃないですか。それに篤飛露もさっき本当の事を言ってはだめだって言ってました」
「この人は、アサリの家族なんだろ。ならきっと信じてくれる。だから、本当の事を言うんだぞ」
「……本当にあの事を言うんですか。私も帰る時に考えたんですけど、本当の事を話したらどんなことを言われるのか分かりません。きっと、怒られるだけではすみません」
「大丈夫だ、家族を信じろ。アサリを家族と言ってくれる人なら、きっと信じてくれる。だからアサリは聞かれたら本当の事を話すんだ。いいか、本当に本当の事を話すんだぞ」
気が付けばアサリと篤飛露は見つめ合い、二人だけの時間を作っていた。
ここで口を挟むべきか、そんな事をしたら心の狭いお姉ちゃんだと思られはしないだろうか、しかしここは姉としてキッチリ締めるべきではないのだろうか。
少し躊躇していたが、やはりここは姉として口をはさむべきだろう。睨みつけるのをやめ、アサリに優しく口にした。
「確かに、アサリちゃんは靴と靴下を脱いで、すぐにお風呂に入っちゃいなさい」
「でも……」
「ほら、本気で風邪ひくぞ」
アサリはなおもこの場を離れようとしないが、篤飛露が言ってようやく靴を脱ぎ始めた。しかし裸足になっても二人を交互に見てまだ離れようとしない。
「アサリちゃん、風邪をひいたらお父さんとお母さんが心配するでしょ。ここはいいから早くお風呂に入りなさい」
「ちゃんと説明しておくから、大丈夫だ」
二人がかりで諭すように言われ、ようやくアサリが浴場へと向かう。
姿が見えなくなくかり、春菜は再び篤飛露を睨みつけた。
本当の事とはどんな話なのか、キッチリ話してもらいましょうか。言葉でこそ出してはいないが、顔がそう言っているのが篤飛露にもはっきりと理解できた。
「お姉さん、まずですね」
「あなたのお姉ちゃんになった覚えはありません」
一言目からバッサリと切りさいた。まず最初から否定することで優位に立てる、娘が結婚相手を紹介しようとするけどお父さんは許可しませんからね、の応用技だ。この欠点は娘から嫌われることだが、今はアサリがお風呂に行ってここには居ない。だから一切の問題はない。
「すいません。では何と呼べばいいでしょうか」
しかし篤飛露は怯まない。別に結婚しに来たわけでは無いのであたりまえなのだが。
春菜は勝手に篤飛露を手ごわい相手だと認識した。
「私はアサリのお姉さんだから、そうね、姫芝さんのお姉さん、でいいわ」
「分かりました、姫芝さんのお姉さん」
苗字で言わせることで歓迎はしていないと暗に教える、軽いジャブのつもりだったが、相手は平然と返事のカウンターを返してきた。
普通は少し挫けそうになりそうなものなのに、よっぽどの覚悟があるようね。と、春菜は一人で勝手に気を引き締めた。
「ボ……私は、紋常時篤飛露と言います。アサリさんとはクラスメートです」
「……クラスメート?」
思わずそう口にしてしまったが、改めて紋常時を見るとアサリとクラスメートであってもおかしくはない、言われて見れば中学生と言っても差支えない顔つきだ。
大きいとはいっても平均より大きい程度だし、探せばもっと大きい人も日本に何人かはいるはずだ。さっき言いかけたのは多分、中学生らしく自分の事を僕と言おうとして、慌てて私と言い直したのだろう。
ただ彼は私服だったので、同じクラスメートだという事が頭から抜け落ちてしまっていた。
「はい。今日アサリさんは友達と放課後に勉強会をしていたんですけど、私は用事があって参加していません。だから私はこの通り私服ですし、制服のアサリさんと会ったのは偶然なんです」
確かに、勉強会をするとは言っていたし、その頃は普通に返信があった。アサリの友達には知ってる顔もいるので聞いてみればわかるだろうし、ここは本当の事かもしれない。
「じゃあ、帰っているアサリと偶然会って、それからずっと一緒に何をしていたのかも、説明できるんでしょうね」
問題はこれ以降だ。返信がなくなった時間、つまり二人が会っていた時間。長い時間二人だけで一体何をしていたのか。どんな説明をしてくれるのか、自然と語気が強くなってしまう。
「はい。ただ一つ、大事な事を先に言います。ちゃんと会った事は全部説明しますので、落ち着いて聞いてください」
仰々しく大げさに言うが、一体何を言おうというのか。落ち着けとは言うが、言う事によっては両親に帰ってきてもらわなければならないし、落ち着けるはずがない。
「早く言いなさい!」
いらいらしながら、せかすように言い放つ。こうも言われたら落ち着いて聞くなんて無理に決まっているだろう。
言われた篤飛露は対照的に態度を変えず、春菜に向かって目をそらさず、ゆっくりと口にした。
「アサリさんは無事です。間に合いましたので指一本触れさせていません。ただ、怖くて立てなくなったので、あんな方法でここまで運びました」
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