姫芝アサリは勘違いをしていた
アサリがお風呂から上がると幼児二人はもう眠っており、解放された篤飛露が入れ替わりに風呂に入った。
篤飛露は風呂には時間をかけない主義らしく、アサリがもらった甘いアイスコーヒーを半分ほど飲んだ頃に出てきた。
篤飛露がリビングに入ると、あとは若い二人に任せたとでも言うかのように夫婦は揃って出ていき、アサリは二人きりになってしまった。
そんな事は気にしないのか、篤飛露は炭酸水を取り出すとソファに座って半分ほどを一気に飲み込む。そしてペットボトルをテーブルに置くと、突然上を向いてアサリを見ようとしない。
そしてそれを見たアサリも何故か急に見ていられなくなり、視線を横えと移した。
「……の、ノートに何を書いていたんですか? やっぱりあの頃の子供はお絵描きが大好きですから、いっぱい書いていたんでしょうか」
少しの沈黙に我慢ができず、視線は篤飛露を見ないようにしながら、アサリがそんな事を言う。それに対して返事は帰ってきたが、篤飛露もアサリを見ようとしていない。
「ああ、アニメのキャラとか、絵本の真似とかな。……俺はやってなかったけど、アサリも昔の事を覚えているか?」
「……いえ、私も書いてませんでしたね。書くものがありませんから」
「そうか……」
そう言われては何も言えなくなったのか、篤飛露はうやむやな返事をするだけだった。
また、無言になる二人。
こんな事を言ってしまったら篤飛露でも何も言えなくなるのは当然だ。言ってしまってからアサリはそう後悔する。
ごまかす為にコーヒーを飲む。ちらりと前を見ると篤飛露も同じ考えだったのか、ペットボトルを口にしていた。
「……多分もう言う機会が無いだろうから言っておくけどな、二度とするんじゃないぞ、あんな事」
コーヒーを飲んでいる最中に、篤飛露がそんな事を言った。
確かに、家庭の問題にただの中学生をここまで関わらせるべきではない。
そう思い素直に頭を下げる。
「……分かっています。篤飛露にはすごく迷惑をかけてしまいました。……友達……、友達にかけていい迷惑ではありませんでした、今日巻き込んでしまった事は。次があったら迷惑をかけないように、申し訳ありませんが私の事は放っておいて、気にせず帰ってください」
篤飛露とは友達だろうか、言いながらついそんな事を考えてしまった。
今日みんなで一緒に遊んだのだ、今は友達でいいのだろう。
友達以上で呼べる言葉、二人はそんな関係ではない。そしておそらくだが、こんな迷惑をかけたのだ。もう一生そんな関係になる事は無いだろう。それどころか友達以下になったとしてもおかしくはない。
頭を下げたまま、両手でで持った薄い茶色のコーヒーを見つめる。
「違う、あれぐらいなら何回でも助けてやれる。俺が言っているのはその後の、アサリが考えた気になって一番やったらいけない事をやろうとした、そっちじゃなくてあれの事だ」
しかし叱りつけるように言って、篤飛露はアサリを否定する。
あれぐらい、と言ったが中学生が関わっていい問題じゃない気がするのだが。
「……そっちじゃなくてあれの事、と言われても……」
「……だから、その。……食後の、あれだよ」
分からなかったので素直に聞いたら、顔を見せないまま言いにくそうに言葉を濁された。
食後と言うのも珍しい気がする。そう思ってからその先でやった事を思い出すと、一気に顔を赤くした。
「あ、あれについては私も忘れますから篤飛露も忘れてください!」
「男があれを忘れろと言われて忘れる訳ないだろ!」
二人は睨み合い始め、小声で大声を言い合う。
少しの間そうしていたが、アサリはバカバカしくなってソファに体を預けると、横を向いて言い放つ。
「篤飛露は私がどんな格好をしていても平気ですから。篤飛露以外には気を付けます、それでいいですよね」
拗ねたように聞こえたかもしれない。そう思ってからすぐに、実は自分は拗ねているんだと気がついてしまった。
何しろあんな事をした結果、もうするなと言われたのだ。そんな事を言われたら女心が傷つく決まってるし、拗ねてしまうのも当然だ。
「いや、俺の前でもするなよ。当たり前だろ」
「何でですか。篤飛露は私にはそうゆう事をしないんですよね、どうせ」
拗ねたままでそう言うと、篤飛露は頭を抱え始める。
しばらくそうして下を向いているが、やがて大きなため息をついてから前を向き、アサリを見つめる。
「…………あのな、俺は何もしないように我慢してるだけだ。俺だって抑えが効かなくなったら、自分で何をするか分からないからな」
そう言ってからも下を向いて、ため息をついた。ここまで言いたくはなかった。そう小さく呟きながら。
「…………え?」
言われたアサリは後悔している篤飛露を見る。
何を言われたのかを信じられなかったが、様子を見ていると本心で言っていたように見える。
「でも、篤飛露が言ったんじゃないですか。私に対してそんな事をする気はない、って」
何故か少し慌てながらそんな事を言う。
アサリも篤飛露もパジャマを着ている、つまり篤飛露のパジャマ姿が見えるという事は、アサリのパジャマ姿も見られている。
アサリは意識している事に今頃になって気がついてしまった。
「そりゃな。保護者が迎えに来るって分かってから、そんな事しないに決まってるだろ」
さらにそんな事まで言われてしまった。
つまり言い換えれば、誰も迎えに来ないなら、そして我慢できなくなってしまったら、一体どうなってしまったのだろうか。
いつの間にか横を向いている篤飛露の顔をよく見たら、うっすらと赤くなっているようにも見える。
ひょっとしてアサリと同じように、篤飛露もパジャマを見られて恥ずかしく思っているのだろうか。
「……気を付けます・……」
アサリも顔が赤くなっている、それはもう自分でもわかり横を向く。
互いに顔を見ようとせずに、しかし横目でちらちらと見る。
二人は妙な雰囲気になってしまった。
「……ほら、もう寝るぞ。明日は早いんだからな。コーヒーは後で俺が片付けるから」
この雰囲気を変える為に篤飛露が立とうとする。
しかしアサリにも、今を逃せば言えないだろう事が有った。
少し迷ったが、やはり言うなら今しかないと思い、既に背中を向けた篤飛露に告げる。
「篤飛露も私と同じで、実の両親とは一緒に住んでないんですよね」
そう言われて篤飛露は動きを止めた。そして顔だけをゆっくり動かし、アサリを見つめる
「……同じって、俺が一人でアパートに住んでる、って意味じゃないよな」
「はい。……篤飛露を産んだ両親は、私と一緒で、別にいるんですよね」
はっきりと、確信している声で言った。
「……それ、今言う内容じゃないよな。さっきも言ったけど明日は早いんだけどな」
「確かにそれはそうなんですけど、今を逃したらそうそう言いませんよ、こんな事」
だから今言ったのだ。
学校や帰り道で話せる内容ではないだろう。しかし今なら話をしても誰にも知られない、知られても問題ない人しかいない。
朝でも話せるかしれないが、しかし一日の始まりに話す内容ではない。
「どうしてわかったんだ? 誰も、保護者の二人も話してないと思うけどな」
篤飛露が不思議そうにそう言ったが、アサリにしてみれば不思議そうにそう言うのが不思議だった。
「篤飛露の話では高校を卒業してすぐ産んだんですよね、でも車の中の話ではお母さんは二十代って言いましたよね。計算があいません。それに親なのに他人行儀な言い方をしています。それでおかしいと思っていたら、気付いたんです。いつもは、さっきも二人の事を保護者って呼んでるのに、あの話では父親母親って呼んでたじゃないですか。だからひょっとして、今日お世話になった人とは別に、もう会わない生まれの両親が居るんじゃないかと思ったんです」
「……なるほどな」
アサリの言葉に、篤飛露は一言を返しただけだった。
だからアサリは自分の考えを続ける。
「多分なんですけど、苗字が今の家族と一緒ですから、篤飛露も私と一緒で養子になったと思ったんです。……篤飛露は今の家族と仲良くしてますよね。だから、篤飛露は私と一緒だから、きっと私も今の家族と上手くいくと、それを私に伝えたくて、でもいきなりそんな事を言ったら驚きますから、私が自分で気がつくようにあんな事を言ってたんですよね」
そう言って、自分は篤飛露から勇気を貰った、もう自分は大丈夫だ。その意味を込めて笑顔を向けた。
しかし篤飛露は向けられた笑顔を、斜め上を向いてかわそうとする。
「……いや、今言うべきじゃなかったかもしれないけど、全然そんな事考えてなかった」
「え?」
そう言って篤飛露は気まずそうにアサリの言葉を否定して、意味が分からないと言う顔をしたアサリに言葉を続ける。
「そもそもそれはちょっと、回りくどすぎないと思わないか、気がつかなくてもおかしくないだろ?」
「それは、そうなんですけど。……じゃあ、何でいつも学校で話に出す時には保護者って呼んでいるのに、さっきまでは御父さん御母さんって呼んだんですか。あれは私に違和感を気付かせるためじゃないんですか」
「いや、あれは単なる癖。引き取られて最初の頃は親とは呼びにくくて、つい保護者って言ってたんだ。だけど喋れるようになった香奈実と紅山が真似をしようとするから、呼び方を今みたい変えたんだよ。だけど二人がいる時は気を付けてるけど、学校とかの本人が居ない時は言いやすくてつい保護者って言ってしまうんだよな」
学校でも直さないとな。篤飛露はそう反省する。
アサリは全てが自分の勘違いだと知ってしまい、恥ずかしくなってしまい文句を言わずにはいられなくなってしまう。
「……じゃ、じゃあ普段からそう呼んでください! 学校でそう呼んでいると知られたらご両親が悲しみますから!」
恨めしそうな目を向けるが、篤飛露は全く気にせずついでとばかりに別な事も言い始めた。
「ついどうしてもな。……ついでに言うとな、俺が養子だって事は小学校が同じだった奴らには結構知られている。だから全然隠してない」
「……それはどうかと思うます。誰かが知っていじめようとして、言いふらしたんですか?」
小学校六年生なら言っていい事といけない事の区別はもうついてもいいはずだ。
しかし篤飛露をいじめて、無事で済んだ人が居るとも思えないのだが。
「いや、六年の時の授業参観で四人揃ってやって来てな。その時に言ったんだよ、俺は実の子供でもない養子なんだから、揃って来なくていいって。終わってすぐに、周りに聞こえるように」
「そんな事を言ったら家族が傷つきますよ」
そう言ってからすぐにアサリは篤飛露の意図に気付いた。
二年ほど前なら、当然だが両親は今より二歳若い。六年生の子供を持つのは今よりさらに違和感があるだろう。
「だけど言っておかないとな。神社の神主が俺達と同じくらいの中学生の女の子を妊娠させた、何て噂が立ったら、大事になる」
そう言われたら、確かにそうだ。言葉にしてみたら間違いなく街の噂は独占できる。
しかし考えてみたら、神主にはまだなっていないんじゃないだろうか。
「……大丈夫じゃないでしょうか。六年生なら十二年前の話になりますよね、ならまだお父さんも学生ですから、なら年相応のカップルですよね?」
「その場合、神主の息子が中学背の女の子を、って変わるだけだな」
神主の子供が中学生を妊娠させた。少し小さくなったかもしれないが、インパクトがあるのは変わらない。
なので少し話題を変える事にした。
「じゃあ、篤飛露のお爺さんも神主だったんですね」
「ああ、俺が生まれる前にはもう亡くなったらしいけどな。大叔父や曾祖父が色々と助けてくれたらしい」
そう言うと、アサリはある事に驚いて声を上げた。
「曾祖父って、ひいおじいちゃんですか。何歳なんでしょうか、凄いですね」
「九十過ぎからは覚えていないらしい。どうせ誰かが覚えているし、年を気にしだしたらかえって健康に悪いって言ってたな。……いや、そこはどうでもいいんだよ。明日まずアサリの家に行くんだから、早く寝ないといけないだよ」
アサリは言いたい事も聞きたい事も大体が終わり話もいい具合にそれたので、素直に立ち上がった。
しかし篤飛露に案内されている内にもう一個、大事な事を聞くのを忘れていた。
「そう言えば、早いと言っていましたが何時に起きるんですか?」
「四時半」
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