果南の地へ(3)
青い光の中に飛びこんだ瞬間、目の前に火柱があがった。
「うわっ!」
とっさに横へよける。ランタンをかばって受け身を取ったら、背中にとがった石がくいこんだ。火柱が消えたあとには赤い炎が残って、下生えの雑草に燃え広がっていく。峰子がシャベルで炎を蹴散らして前に出る。立ちあがってあたしが追う。
ぶ。
ぶぶぶぶぶ。
蛍がそこらじゅうで渦をまいている。目を開けていられなくなりそうだ。そこらじゅうで木の幹が、木の葉の山が、次々に炎をあげはじめた。
立ち止まったら死ぬ。前へ! 上へ行かないと!!
少しでも炎の勢いが弱い方へ走る。せっかく発見した山道はすぐに見失ってしまった。正しい方向に進んでいる自信がない。蛍の群れをシャベルで追い散らそうとしていた峰子が、振り返ってなにか叫んだ。羽音にかき消されて聞こえない。
峰子の背後に、フランメさまが浮かびあがった。
「峰子!!」
叫んだあたしの声も、たぶん聞こえなかっただろう。
峰子の後ろ首がフランメさまにつかまれた。駆けよろうとするあたしの前に、燃えた木が倒れこんでくる。横っ飛びにさけた拍子に、足首がぐりっと嫌な音をたてた。たまらずスッ転ぶ。
峰子はシャベルで、背後にいるフランメさまを突こうとした。けれど、簡単に受け止められてしまう。フランメさまのにぎった柄の部分がシュウシュウと煙をあげはじめると、伝わってくる熱に耐えられなくなったのか、峰子の方が手を放してしまった。背中を勢いよく突き飛ばされ、峰子が斜面を転がっていく。
「峰子ぉ!」
あたしは近くの幹にすがって立ちあがろうとした。足首が痛む。でも軽くひねっただけだ。まだ走れる。けれど炎の向こうに立つフランメさまはもう、青く光る両目であたしを捉えていた。
整った顔が一瞬、ピースのズレたジグソーパズルみたいに崩れたかと思うと、大きな口を開けた笑い顔になった。ぶぶぶぶぶ、と羽音が響く。笑っている。……楽しんでいる。
あたしはその瞬間まで、阿久津蕾果がこうなったのは、殺された恨みのせいじゃないかと思っていた。故郷をダム開発から守るために戦ったのに、その気持ちを裏切られて殺されたからじゃないかって。
でも違った。根拠はないけど理解してしまった。
こいつは、人を苦しめるのが好きなんだ。
火に油を注ぐのが好きなんだ。子供が虫と虫に殺し合いをさせるみたいに、人と人との争いをわざと大きくして、それを見るのが好きなんだ。
大学で学生運動に参加したのも。ダム反対運動を激化させたのも。そして、初音先輩の儀式に応えたのも……それが理由だ。
ばちっ。
白い火花が散った。今度は大きい。しかも一度で終わらなかった。
ばちっ、ばちっ。
頭の中で何度もフラッシュが起きる。両目は、フランメさまがゆらゆらこっちに向かってくるのを見ていたけれど、あたしの心は別のところに向いていた。怒りの発作が、はじめて恐怖を押しのけようとしていた。
こいつの……こいつらのせいで、みんなが。
キングのいないチェス。
あたしたちを焚きつけて。争わせて。高みの見物を決めこんで。だったら……。
だったら。
ばちっ。
ひときわ大きな火花が散った瞬間、あたしの頭の中に、あるアイディアがはっきり浮かび上がった。
ポケットにはマジックがまだ入っていた。あたしはそれをひっつかむと、ランタンのガラス面に、力いっぱい書きなぐった。
フランメさまの動きが止まった。
あたしとフランメさまは数メートルくらいの距離でにらみ合った。あとひと息であたしを焼き殺せる距離にいながら、フランメさまはそうしなかった。たぶん、迷っていたんだと思う。
そして次の瞬間、消えた。青い蛍たちも、あれほどうるさかった羽音も、一瞬で消え失せた。草木についた火だけが、しつこくくすぶっている。
「峰子! ……峰子ぉ!!」
あたしは斜面の下にむけて叫んだ。返事はない。蛍がいなくなったせいで、周囲は真っ暗闇だ。
峰子を探すか、先に進むか。
……あたしは振り向いて、山頂を目指した。はぐれたときはそうすると、あらかじめふたりで決めていたからだ。
終わらせる。終わらせるんだ。今はそのことだけを考えろと、自分に何度も言い聞かせた。
登るにつれて、さっきの足首がズキズキと痛みはじめた。でも気にしない。考えない。身体だけを動かす。
しばらくすると、運よくまた、山道の
また森が途切れた。
目の前に石段があった。半分土にうまりかけ、積み方もゆがんでデコボコしているけれど、けっこう大きくて立派だ。それが、つづら折りと言うんだろうか、左右にジグザグ折れながらずっと上の方まで続いている。石段の横には、同じくらいの間隔をあけて
ついにゴールが見えた。きっとこの石段の先に、
消えかかけていた元気と勇気がよみがってくるのを感じた。
そう思って最初の段に足を賭けた瞬間、少し先の石灯篭の上に、小さな人影が座っているのが見えた。こっちの視線に気づいて、ふわりと地面に降りる。
レースのつば広帽とスカートが風に舞った。
「ヌー……イー……。ずいぶん、小賢しいことをしてくれたわねーえ……」
人影が、ランタンの明かりの中へ踏みこんでくる。赤いつば広帽の下で、メイズさんは歯茎を
あたしは一歩あとずさった。メイズさんに向けてランタンをつき出すと、裏側に書きなぐった文字が目に入る。
「リュウメイユエ」。
あたしは自分の名前を塗りつぶした横に、そう書いたのだった。
ユーシャンさんに教えてもらった、メイズさんの本名を。……
「へえ……。困ってるみたいじゃん。未来のことは、全部お見通しじゃなかったの?」
お前なんて怖くないぞというつもりで、あたしはそう言った。声が震えてあまりうまくいかなかったけど、メイズさんはもう笑わなかった。
「ヌイ。その
「……いやだ」
「じゃあ、その文字を消すだけでいいわ。そうしたら、おまえだけは助けてあげる。あの女にだって手出しはさせないわ。ねえ……悪い取引きじゃないでしょう?」
「そんなの、あたしが信じると思う? 今さら?」
メイズさんは答えず、かみそりを持ったままじりじりと近づいてきた。ランタンの光に、刃がぬらぬらと光る。
そのとき、あたしの背後から青い光がさした。
振り向くと、森が青い蛍の光で、真っ青に染まっていた。その中心に、棒のように細長い女のシルエットが立っている。青く燃える両目があたしの頭上をこえて、メイズさんを見つめていた。
フランメさまが戻ってきた。
メイズさんが立ち止まり、前髪に半分隠された顔で、フランメさまの視線を受け止めた。赤いくちびるがめくれかえり、表情がゆがんだ。
フランメさまが歩きだす。身体を左右に揺らしながら、ゆっくりと。
メイズさんも、白サンダルを鳴らしてこちらへ向かってきた。
フランメさまが、青く光る口をカッと開いた。大股で加速しはじめる。骨ばった指をカギ爪みたいに曲げて、腕を大きく振りあげた。
メイズさんが、首にかけた懐中時計のフタを開けた。走りだしながら、かみそりを振りかぶった。
衝突の寸前、あたしは横に転がって逃げた。あたしの頭があった場所に長い腕とかみそりの刃が振りおろされ、互いに噛みあった。
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