ピーチの柔軟剤(2)
泥の中に倒れた峰子の手から、黒焦げになった懐中時計がすっぽ抜けて落ちた。あたしは相手より先に時計を拾おうとしたけれど、足を引っ張られて転んでしまう。
そのとき自分の脚にしがみついていたヤツの姿を、あたしは一生忘れないだろう。
そいつの顔は素焼きの土でできていた。小学生が粘土で作ったような――後から思えば、菅生ありすちゃんが作ったんだから当然だ――雑な造形の、ぽっかり空いた口の中で、ガラスの破片を埋めこんだ歯だけがギラギラ光っている。焼けてボロボロになった毛糸製の髪の毛と、はぎれの服。顔は半分、腕も一本しか残っておらず、腰から下もなくなっている。それでもそいつは――メイズさんはものすごい力であたしにしがみつき、あたしの身体を這いあがってこようとしていた。
「ヌゥゥゥゥゥイィィィィィ!!」
反対の足で顔を蹴りつけると、スニーカーの底に噛みつかれた。あたしは相手を足で押しのけようとしながら、必死に時計を手さぐりした。前にメイズさんを退治したとき、ユーシャンさんの友達が時計をバラバラにしたというのをおぼえていたからだ。
ない。ない。手に触れるのは泥だけだ。
だからといってそっちを向くこともできない。メイズさんを押さえこむので精いっぱいだ。
ひやりとした金属が指先に触れた。けどつかもうとした途端、つるっと手からすり抜けてしまう。希望が絶望に変わる。
あたしは時計のあったほうに首をねじ向けた。泥の中にきらりと円盤が光る。手を伸ばしたけれど、あと数センチ届かない。あたしの足をはねのけたメイズさんが、あたしの首にしがみついてきて、調子の狂ったオカリナみたいな声で笑った。
そのとき、泥を蹴散らしながら走ってきた女の子が、力いっぱい振るったスコップでメイズさんをはね飛ばした。泥の中に叩きつけられたメイズさんは半回転して起きあがると、そのまま、ギクンと固まった。
「おまえは!」
女の子は答えず、もう一度スコップを振りかぶった。
「や……めロ!」
メイズさんが
スコップの刃が、懐中時計を叩き割る。半分焼けこげてもカチカチ動いていたそれは、その一撃で完全に動かなくなった。
「なゼ……二度も……」
メイズさんの動きはみるみるにぶくなっていく。
「こんな、
そして顔から泥の中に倒れこんだかと思うと、ボロボロッと崩れて、まわりの土と見分けがつかなくなってしまった。
スコップの女の子は息を切らせながら、動かなくなったメイズさんの残骸をしばらく見つめていたけれど、やがてポツリと言った。
「偶然じゃないよ、メイズさん。死人の時間は止まってるけど、生きてるわたしたちは、自分の望む未来に行ける。……本当にどこにも行けない迷子は、あなたのほうなんだよ」
あたしは顔を叩く雨も忘れて、女の子の顔を見上げていた。服装も髪型も平凡で、ふにゃっとした顔の線はどこか頼りなさげだったけど、目には強い光があった。それから、ほんの少しの悲しみも。
女の子はふっと我に返ると、あたしが立つのに手を貸してくれた。
「須賀縫ちゃん、だよね。怪我してない?」
「はあ。なんとか……えっと、あなたは」
「わたし、
女の子……深月さんは顔にはりついた髪をかきあげると、はにかむように笑った。
オーイと声がしたので見上げると、本物の峰子が斜面の上で手を振っている。あたしたちがふたりそろって手を振りかえしたときの、峰子の驚きっぷりがなんだかおかしかった。
あたしたちは下山をあきらめ、ダム管理事務所の軒下で、雨がやむのを待っていた。
「ユーシャンがわたしに秘密でなにかやってるなっていうのは、前から気づいてたんだ。だからこっちも、こっそりおうちの人から行き先を聞きだして、追いかけてきてたの。街に着くなりこんなことになってたのはビックリしたけどね。ユーシャンに電話したら、今病院だって言ってて」
「え。ユーシャンさん、大丈夫なんですか」
「崩れてきた工事現場の鉄骨にはさまれて、救急車で運ばれたところだったの。
「制服って……」
あたしは思わず、灰と雨と泥でぐしゃぐしゃになった自分のセーラー服を見下ろした。
深月さんが首を横に振る。
「ううん。同じ学校の制服っぽかったけど、縫ちゃんじゃなかったと思う。もっと髪が長くて……そうそう、耳にピアスしてたよ。銀色の……」
峰子がビクッと露骨に反応した。
「その子を追いかけて、ここの近くまで来たんだけどね。途中で見失っちゃったんだ。このスコップも、落ちてるのを拾ったんだけど」
よく見るとそれは、あたしたちが持ってきたスコップだった。峰子が途中で落っことしたやつが、ずいぶん下の方まで転がっていってたんだろう。
それにしても……長い髪に、ピアス?
「峰子。それって、初音先輩じゃないの?」
「……かも……ね」
もっと大騒ぎするかと思ったのに、意外と反応が薄くて拍子抜けする。首をかしげていると、峰子が露骨に話題を変えてきた。
「っていうか、縫。あんたどうして、メイズさんが私に化けてるってわかったの」
「ああ……」
そう、あれは幻覚だった。峰子が足を滑らせたところから、全部幻を見せられていたんだ。あたしがそれに気づけたのは……。
「におい……かな」
「におい?」
「うん。……あ、峰子、ちょっと」
あたしは横にいた峰子をグイッと抱きよせると、首のうしろあたりに顔をうずめてスンスンとにおいをかいだ。くすぐったかったのか、峰子がやたらと暴れる。
「なっ! ちょ、なになになに!?」
「うん、やっぱり。峰子さ、あんたん
「はァ?」
「元々、あんたん
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