うどんと呪文(2)
市立図書館に現れた峰子は、あたしが制服姿なのを見ると変な顔をした。理由を説明してやると、その顔がみるみる青ざめていく。
「死んだ? ……ウソでしょ……」
「ウソじゃない。府頭先生だって死んでるんだよ」
「それは……わかってるけど」
でも、峰子の言いたいこともわかる。先生には悪いけど、大人が死ぬのと同じ中学生が死んでしまうのとは違う。ぜんぜん違う。ましてやマミはあたしの友達だ。ほんの数日前まで、普通に話していたのに……。
あたしと峰子は、冷房の効いた図書館のロビーでふたり、お通夜みたいに黙りこんでしまった。セミの声がやけに遠い。
「峰子……」
「わかってるわよ。立ち止まってる場合じゃない。……行こ」
峰子はなにかを振り切ろうとするみたいに、大股で歩きはじめた。
峰子の作戦というのは、儀式で初音先輩が唱えたという、呪いの呪文に注目してみることだった。
――バールガミサ・バルガミサ。
――フルメトフランメ・フルメカツレウァ・アーメフラッシェ・タムウェー。
初音先輩は凝り性で、しかも海外のオカルト本なんかにも詳しい。たとえ
そんなわけであたしたちは、片っ端から外国語の辞書を引いてみることになった。フランメはドイツ語で炎、という意味。だからはじめは、残りもドイツ語だろうと思っていたのだけれど……。
「……ないわ。『フルメト』なんてドイツ語の単語、どこにも載ってない」
「え~? 峰子の探し方が悪いんじゃないの?」
「うっさい
「でもあたし、ドイツ語なんて読めないし……」
「バカ。私だって読めないわよ。なんのために発音記号があると思ってんの」
「発音記号ってなに?」
「習ったでしょ、一年生の最初に。英語の授業で」
「寝てた」
「超バカ!!」
とまあ、こんな調子で、いっこうにはかどらない。
峰子は途中でドイツ語の辞書を放り出し、ラテン語、英語、フランス語、イタリア語、ギリシャ語、おまけにアラビア語……その他もろもろの辞書を山のように抱えて戻ってきた。
「……まさかそれ、全部……」
「読むのよ。当たり前でしょ」
あたしは決死の覚悟でページをめくりはじめたけれど、みっしり詰まったアルファベットを見ているだけで頭がクラクラしてくる。中一の英語ですら赤点すれすれだったあたしには、あまりにも荷が重い仕事だった。
「ダメだわ……」
午後一時を回ったあたりで、ついに峰子も音をあげた。目の前のノートは、ボールペン書きのメモとそれをぐしゃぐしゃに塗りつぶした跡とで真っ黒になっている。
「『バール』って名前の神様が出てきたときは、オッと思ったのに……そっから先がぜんっぜんつながらない」
「やっぱ、意味なんてないんじゃないの。初音先輩がサイコロ転がしてテキトーに作った呪文かもしれないじゃんか」
「……初音先輩はそんなことしない。あんたみたいなアホとは違うの」
ここまで来て、まだ初音先輩の肩を持つのか。さすがにあたしもイラッとして、なにか言い返してやろうと思った。
けどその瞬間、おなかが盛大にグーッと鳴ってしまった。
峰子が、じとっとした半目を向けてくる。
「緊張感のないヤツ……」
「しょ、しょーがないじゃん。あたし、朝に牛乳飲んだだけなんだから」
峰子は毛先パーマをかけた頭をガリガリかきむしると、大きなためいきをついた。
「ああ、もう。……だけどまあ、下手な考え休むに似たり、か……。わかった。ちょっと休憩ね。うどんでも食べにいこ」
図書館の裏には個人経営のうどん屋があった。テーブル席がふたつにカウンターがあるだけのちんまりした店だ。客はあたしたちだけ。席につくと、お店と同じくらい小さくて年季の入ったおばあちゃんが注文を取りに来た。
「えーと、すだちおろしぶっかけ冷やうどんの特大ひとつ。あと、おにぎりセットふた皿」
「いや量」
「なに。おにぎり欲しいの? 食べたいなら自分で頼みなよ」
「……要らない。私ざるうどん並盛と、ささみの天ぷら」
「うっそ天ぷらとかあんの。あ、追加いいですか。えび天、げそ天、ちくわの磯部揚げ。それからコロッケ!」
「量!!!」
おばあちゃんがクスクス笑いながら厨房に引っこんでいくと、なんだかあたしも急に笑えてきた。
「……なにニヤニヤしてんのよ」
「いや。なんか昔もこんなんだったなーって」
「昔?」
「ケンカする前。小一とか、小二とか。ブロックで遊んでも、虫採り行っても、峰子ってブチブチブチ文句ばーっか言っててさ」
「あんたがいちいち雑だからでしょぉ!? シンデレラ城だっつってんのに怪獣出したり、死んだクワガタ拾ってきたり!!」
「あーあったあった。なつかしいなあ」
ひとしきり笑ってから、ふと気になることがあった。
「あのさ峰子。そもそもあたしたちって、なんでケンカしたんだっけ?」
「は?」
峰子が露骨にぶすったれた顔をする。
「覚えてないんだ」
「ないよ。え? 峰子覚えてんの?」
峰子はそっぽを向いて、格子窓から外をながめた。窓の外には笹が植わっていて、さやさや風に揺れている。真夏の太陽はアスファルトの上では殺人光線だけど、緑に降りそそぐそれは、まるでエメラルドみたいにきらきらしていた。
「……ローソク」
ぼそっ、と峰子が言った。
「なんて?」
「私の、七歳のお誕生会。ケーキのローソク、あんたが横から消しちゃったの。私が消すはずだったのに……」
あたしはしばらく、空いた口がふさがらなかった。
「ウソでしょ……あんた、そんなこと六年も七年も根に持ってたの」
「んなわけないでしょ! あんたの! そーいう態度よ!! 謝りもしないで、ずーっとすっとぼけて……」
あたしは記憶の箱を隅から隅までさらってみたけれど、それらしい記憶はひとつも出てこなかった。たぶん、本当に軽い気持ちでやったんだと思う。次の日にはきれいに忘れてたはずだ。
「そっか……。えっと、その……ごめんなさい」
「いいわよ、今さらもう。あんたの脳ミソがスポンジなのわかってて、ちゃんと説明しない私も悪かったし。……はぁ。ほんとくっだらない」
そう言って、峰子はまた窓の外に視線を向けた。
「でも……人と人が争うきっかけなんて、そんなものなのかも。庭木が隣の敷地にはみ出したとか、部屋に靴下脱ぎっぱなしにしたとか。そういう小さい火種が大きくなって、しまいには離婚とか殺人とかに発展するのよね。……あと、戦争」
「……話大きくしすぎじゃない?」
「かもね」
だけど、きっと峰子は正しい。
ひとたび炎が燃えあがってしまえば、その火種がなんだったかなんて、きっと関係なくなってしまうのだろう。憎いから、憎む。嫌いだから、嫌う。争いを続けるにはそれだけで充分だ。
争いの火が消えるのは、きっと……これ以上燃やすものがなくなったときだけ。
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