第27話 ラスとイヴリン

 機長の紹介と称して、アボットが国際連盟の工作員だと兄の口から明かされた時、イヴリンは仰天した。「私達、殺されるの!?」とつい大声を出してしまうほどにである。

 そんなイヴリンに苦々しい顔で振り返ったアボットは、「そうはしたくはないので暴れないでいてください」とだけ告げると、後は何も訊くなとばかりに背中を向けた。しかしその背中越しに、「我々はガリアの北東部。ヴェルドゥヌムへ向かっています」と真の行先を告げたのだ。


 ガリアといえば、ケルトニアからは狭い海峡を挟んで、南東に位置する国である。そしてヴェルドゥヌムは、先の西部戦線で激戦地となった場所の一つであり、いまだ人が住めない土地があると聞く。そんなところへ一体何をしに行くのかという不安と緊張も手伝ってか、イヴリンの飛行機酔いは急速に回復した。目を開けても吐き気を催さなくなったことで、人生初となる雲の上の景色を小さな窓ごしに眺めながら、座っていられるようになる。


「ありがとう。もう大丈夫」


 体を起こしてからもずっと右手首を指圧してくれていたラスに、声をかけて袖を下ろす。

 ラスは曖昧に微笑むと、正面で横一列に並んで座っているモルトスらの毛布のずれを直しに行った。肩からずり落ちていたダンの毛布を拾い上げ、もう一度かけ直し胸の前で先を結ぶ。

 結び終えると、心配そうに窓から外を覗く。


「あ、あの人達も、冷えてないと、いいんだけど」


 あの人達、というのは、遺体袋に収納されて輸送機に積み込まれていたモルトスらの事だろう。


「密閉性が高そうなやつにくるまれてたから、きっと大丈夫よ」


 モルトスが寒がるとは思えないが、体が冷え過ぎると何か不都合なことが起こるのかもしれない。イヴリンはラスが安心できるよう、努めて優しく言った。


「グォライ(おいで)。メイ」


 イヴリンの隣に戻ったラスが、マリーの膝に止まっていたメイを呼び寄せる。自身が被る毛布の中に招き入れて、腕に抱いた。

 羽毛に包まれている体といえども、やはり寒かったのだろう。飼い主の腕に包まれたとたん、メイの全身の力が抜けたように見えた。

 頼りだった師父と会話ができなくなって残念に思っていたイヴリンだったが、ラスの指を甘噛みするメイの可愛らしさを知って、目を細める。それからふと、乗り物酔いを訴えてから床に転がったままのジャンの存在を思い出し、目をやった。彼は眠っているようだ。蓑虫のように毛布にくるまり、鼻が詰まったような寝息を立てている。


 できれば自分も眠りたかったが、緊張で目が冴えて眠れそうになかったイヴリンは、両膝を胸に寄せて毛布の中に体をすっぽり入れると、出会った時からずっと気になっていたことをラスに訊ねる。


「ところでその制服は、彼女が生前着てたもの?」


 と、マリーの青いナース服を指さした。

 ラスが首を横に振る。


「違う、けど。き、着替えになるものは、出来る限り本人が着てたものに、近い、やつを現場で探した、つもり」

「そうなんだ。じゃあこの人はやっぱり、正規看護師だったのね」


 イヴリンは、マリーに笑顔を向けた。一方ラスは困り顔で、イヴリンとマリーを交互に見る。


「マリーさんが、せ……えっと、何?」


 どうやらラスは、正規看護師、という名称を知らないらしい。


「まあ、そっか。あなた、自分の仕事以外は疎そうだもんね」


 イヴリンはマリーに掌を向けると、「青い服。看護師の資格を持ってる証」と解説し、次に自分の白衣の裾を摘まみ上げると


「私、速成看護師。一月ばかりの講習を受けただけのニセモノ。だから服の色は白」


 と続けた。


「に、ニセモノ? どうして」


戦地あっちで、よく正規さんに言われたんだ。『ニセモノがでしゃばらないで』って」


 不快な思い出を語ったイヴリンは、肩をすくめた。ついでに、アレックスにすら話していない、戦地での自分の不良っぷりも明かす。


「正規看護師って、効率ばっかり重視する人が多くてね。負傷者の手一つ握らないの。だから私、何か注意されても口ごたえばっかりしてたんだ。ほっぺた叩かれたら、叩き返したりもしてね。もう、喧嘩ばっかり」

「ま、マリーさんは絶対、イヴリンをニセモノだなんて言わない!」


 珍しく、ラスが強い口調で言いきった。村が襲われた時にレナを守ったマリーの様子を思い出したイヴリンは、「そうね」と素直に肯定する。


「きっと優しい人だったんだろうな。もし一緒に働いてたら、好きになってたかも」


 ラスは、アオシェアで四人を拾ったと言っていた。アオシェアは確か、海岸沿いの丘陵地だったはずだ。イヴリンは、そこで奮闘するマリーの姿を想像しながら、無表情に座っている亡骸を見つめた。

 生前の彼女と知り合わなくて本当によかった、と思う。赤の他人でしかない今の関係でさえ、傷ついた彼女を前にすると胸が痛いのだから。


「ぼ、僕ら案内人は、資格とか、無くて……。訓練中に目が光れば合格で、光らなければ、不合格。たった、それだけ」


 まごまごと、ラスが言った。

 何故いきなりそんな事を話すのか。イヴリンは、首を傾げてラスを見る。その疑問は、次の言葉であっさり解決された。


「で、でも、イヴリンは、包帯を巻くのが、すごく上手。だからちゃんと、看護師だよ」


 目の縁から溢れ出しそうな熱を感じたイヴリンは、顔を伏せる。

 資格を得るか得られないか、努力ではなく素質で決まる案内人の実態を比較対象に、ラスはイヴリンの努力と看護師としての能力を讃えたのだ。また、マリーを庇ったのだろうと思われた先ほどの強い主張が、実は自分を励ますためだったのだと気付いた時、イヴリンの目から、堪えきれなかった一粒がぽろりと落ちる。


「ぼ、僕、今何か、変なこと言った?」


 ラスが不安げに、イヴリンを覗く。

 イヴリンは泣いていることを知られぬよう、慌てて涙を拭きとり顔を上げた。

「どうして?」と笑顔を作る。


「だ、だって急に、俯いた、から」


 鈍いようで、意外と鋭い一面もあるらしい。


「何も変じゃなかったよ」


 イヴリンは内心では苦笑いつつも、ラスに微笑みかける。そこで気付いた。うるさそうな長い前髪の隙間から見える、ラスの両目。その瞳はしっかりとイヴリンの目をとらえている。努力的ではなく、とても自然に。


「目、合わせてくれるようになったんだね。ムズムズはもう平気なの?」


 問いかけると、ラスの視線が下がった。けれどまたすぐにイヴリンの目に戻ってくる。


「平気、とは少し、違うけど。イヴリンとは、気持ち悪く、なくなった」


 そしてラスは、「……い、今は、ふ、フワフワ、してる」と真顔で告げた。

 イヴリンは思わず吹き出した。今の証言が一体何を意味するか、本人は全く分っていないのだろう。


「そっか。なるほどね」


 こみあげてくる笑いを噛みしめながら、少し開けたカーテンの隙間からお日様を覗く気持ちで、ラスの前髪を右手の指先で横に寄せる。ラスは驚いたように少し身を引いただけで、それ以上の抵抗はしなかった。


 黒髪の隙間から、一重瞼の奥をミルクで満たしたその中央に、淡く光る焦げ茶色の硝子玉を浮かべたような目が現れる。案内人の目は眼球全体が発光しているのだろうと思いこんでいたイヴリンだったが、その瞳を間近で見たことで、ずっと忘れていた母の言葉を思い出した。


「そういえば子供の頃、お母さんが教えてくれたんだ。案内人の目がやんわり輝いてるのは、その人の魂が、虹彩から透けて見えているからなんだって。だから一人一人、光の色が違うんだって」


 本来、焦げ茶色の瞳の虹彩は、限りなく黒に近い茶色である。けれどもラスの虹彩は、全く異なる色をしている。


「ラスの虹彩は白だね。心が純粋だからかな」


 なんとなしに口にした自分の言葉で、妙に納得した。


【速成看護師に何ができる】

 訓練を受けて野戦病院で働くつもりだ、と書いた手紙への返事としてアレックスがよこした一文を、イヴリンは覚えている。ごもっともだ、とは思った。けれど速成看護師になれば、アレックスがいる前線近くの病院に行けるかもしれない。奇跡的な確率だとしても兄の元へ行ける望みがあるのなら、付け焼刃でもいいから知識や技術を身につけて、兄を助けに行きたかったのだ。

 行動を起こした先に突きつけられた現実は想像していたよりもずっと過酷で残酷だった。知識や技術、気概でさえも、正規看護師には遠く及ばず、自分達は本当に、何もできないただのお嬢さんなのだと痛感させられる日々は、とても辛かった。

 にもかかわらず、本国に帰った後もイヴリンは、白衣を着続けることを選んだ。例えニセモノだとしても、村に看護士が必要だったという止むにやまれぬ事情はあった。しかしながら、イヴリンなりの意地も手伝ったのだ。


 無邪気に核心をつくがゆえに、時に相手の逆鱗に触れるラスの言動であるが、まさか自分が、それに救われるとは思っていなかった。

 もしやこれは、ラスの純粋さが成せた技なのではないかと、イヴリンは思う。心地よい全身の拍動を感じながら、満月を内側に閉じ込めたような虹彩の光に包まれていく錯覚に陥る。


「わ、分らない」


 か細い声で、ラスが視線を外した。そこで一旦、夢心地が破られる。そして次にやってきたアレックスの怒声が、イヴリンを完全に現実へと引き戻す。


「そいつらの目が光る原理は、海蛍と一緒だ、イヴリン。人間の中には体内でルシフェリンとルシフェラーゼを生成する遺伝子を持つ奴がいて、訓練にはそれを目覚めさせる効果がある。とどのつまりそいつは甲殻類! 分ったか!」

「まったく。あなたは野暮の塊ですね」


 心底不快げなアボットからの小言が、それに続いた。

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