第26話 アレックスとアボット

 雲に到達する頃、後方から声がかかった。


「あ、アレックス。アボット、さん。イヴリンが、き、気持ち悪いって」


 振り返ると、横たわるイヴリンの背中を、ラスが懸命にさすっている。段階的に高度を上げる際の独特な浮遊感や気圧の変化に、早速やられたのだろう。昼飯をかっこんですぐであるし、気持ち悪くなるのも当然である。


「嘔吐用の袋を探せ。吐けば楽になる」


 手っ取り早く胃の内容物を出してしまえと言ったアレックスに、「やだあ……」とイヴリンが弱々しく抵抗した。続いてジャンが、「吐くの? やだあ~っ」と悲鳴を上げる。いつの間にか毛布から抜け出してきたようだ。他人の吐しゃ物を見たくないだけの煩い薄情者に、アレックスは足元に備えつけられている懐中電灯を投げつけてやりたい衝動に駆られた。


「え、えっと。イヴリン。とりあえず、頭の位置、をこっちに変えて、目を、閉じて。そ、それから鼻で息をせずに、口から、ゆっくり、吸って吐く。いい?」


 ラスがイヴリンに、乗り物酔いの対策を指導する。犬が唸るようなうめき声を上げたイヴリンは体を起こすと、言われるまま、進行方向に頭を向ける位置へとゆっくり回った。


「すごく合理的だね!」


 ジャンが拍手を送る。


「乗り物酔いは視覚や内耳の揺れの感覚がズレて起こるから、なるだけ視覚情報を減らして、バランス感覚が安定するようにするといいんだ。あと、鼻呼吸をやめれば機内の嫌な匂いを防げるし、ゆっくり呼吸することで副交感神経が働いてリラックスできる」


 ジャンがペラペラと喋った直後、機体が減速し、上昇角度を緩やかにした。再来した浮遊感に強烈な吐き気を催したらしいイヴリンに加え、ジャンまでが「うっ」と口に手を当てる。


「僕もやろ」


 息を詰まらせながら言うと、イヴリンの隣で並ぶように横になった。


「い、イヴリン。て、手首。袖上げて。乗り物酔いに効く、ツボ、があるから」

「ねえ烏さん。僕のツボも押してよお。嘴でいいからさあ」


 ラスの甲斐甲斐しい声と、ジャンの本気か冗談か分らない戯言を聞きつつ、アレックスは正面に向き直った。高度を上げるにつれ、徐々に機内の温度が下がってきている。アボットが行動に移すならそろそろだろうと判断したアレックスは、離陸時から黙りっぱなしの操縦士に話しかける。


「イヴリンに、俺に、イカレ科学者まで。誤算だったなあ」


 アレックスを一瞥したアボットが、操縦桿を握りながら眉を寄せた。


「何の話です」


 返答はとぼけているも、その声色は非情に硬く緊張している。

 もうひと押し必要なようだ、とアレックスは誘導尋問を続ける。というよりもこれは、殆どけしかけているようなものだった。


「『オラティウム空軍基地』に、『護送』とは。センスが悪いんじゃないか?」


 最北端の基地名。死人の運搬作業に、『輸送』ではなくわざわざ『護送』と命ずる。策戦開始の合図にしては、あまりに露骨でお粗末であるなと、曹長からの伝達を聞くと同時に暗号の存在に気付いたアレックスは、がっかりしていた。

 アレックスからの揶揄に、アボットがぎゅっと顔をしかめ、操縦桿から右手を放す。その手が銃に触れる前に、アレックスは自分の右手袋を外し、アボットの膝の上にぽいと投げた。


「操縦席で撃ち合う気は無い。どのみち、お前の手はもうかじかみかけとるはずだ。決断が遅すぎるぞ。諦めてはめとけ」 


 そう言って、半年前からアレックスを怪しませていたどこかの工作員に、もう片方の手袋も投げる。

 アボットは戸惑っているようだった。が、アレックスが自分の出方を伺っていると察したのだろう。銃に伸ばしかけていた右手を、操縦桿にゆっくり戻す。


「協力して下さると?」

「お前と心中はご免だ」

「同僚ごっこはこれで終わりですか?」

「続ける意味はなかろう」


 そうですね、とアボットが小声で応じた。そして束の間、唇をきゅっと結び視線を下げた彼は、意を決したように前を向く。


「では折角なので、言わせて頂きます」


 アレックスの部下として着任してからこれまでで、最も歯切れよく前置きをしたアボットは、すう、と息を吸い、そこから一気に啖呵を切る。


「私はあなたが大嫌いだ! 気難しいところも、短気なところも、有能でありながら頑固すぎて損をしているところも、何より横柄な態度が、一番気にくわない!」


「ほお。そうかい」


 アレックスはにやりと笑う。


「俺もお前の、クソ真面目で理想主義なくせに、変に洒落好みなところが気色悪くてな」


 部下であれば明かさなかったであろう相性の悪さを、堂々と口にした。

 しばしの沈黙の後、「どうも」と言ったアボットが、膝の上にあった手袋を、アレックスに投げて返す。


「防寒用手袋ならありますので」


 仏頂面で左のポケットから一対、取りだすと、操縦桿を操りながら、両手にはめた。

 どうやら操縦士喪失による輸送機墜落の大惨事は免れたようである。加えて、こちらの様子を伺っているはずの他の三機や護衛機にも、目に見えた動きは無い。邪魔者を乗せたがために撃墜されるかもしれないという懸念は、杞憂に終わりそうだ。

 安堵したアレックスは、何カ月も同僚ごっこを強いられた腹いせにもう一言、悪口を追加してやることにした。


「あと、お前は乗り物全般、操縦が下手くそだ」


 アボットが忌々しげに舌打ちをする。


「もう煩いよ。喧嘩なら外でやってよぉ」


 ジャンからの呑気な苦情が、後方から聞こえた。

 

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