第2話 夜明け前の訪問者

「イヴリン。患者だよ! 開けとくれ!」


 木戸が乱暴に叩かれる音で、イヴリンは目を覚ました。

 この迷惑極まりない夜明け前の訪問者は、押しの強さではここフロンドサス村で一・二を争う女性、ビッテだ。年季の入ったガラガラ声からそう判断したイヴリンは、一九歳という年頃の娘相応に整えたブラウンの眉を、思いきりしかめた。使い古したベッドの中でうつ伏せに寝返った彼女は、頭の上に枕を乗せて、騒音を遮断しようと試みる。しかし枕一つでは、ビッテが出す騒音からは逃れられない。ただでさえ建て付けの悪い戸が、ドンドンドスドスと更に悲惨な音を立てはじめる。 


「早く開けな! あんた看護師だろう! サボるんじゃないよ!」


 ドスドス、がんがん。これでは戸をというよりもだ。

 イヴリンは、『子鹿のように可憐』で定評のある大きな目を枕の下で吊り上げると、「患者なら病院に連れてって!」と叫んだ。

 すぐさま「まだ開いてないだろ!」という返し文句が飛んでくる。

 この村の病院は、二四時間体制ではない。夜の八時から朝の八時までは、閉まっているのだ。看護師のイヴリンが職員用出入り口の鍵を開けるのは、まだ二時間も先の話。医者が来るのは、更にそこから三○分は後である。


 急ぎなのは分かった。だが、室内は暗い。暖炉の火が消えていて寒い。だから布団から出たくない。

 頭はすっかり冴えていたが、寒さとビッテへの反発心から、イヴリンは毛布の下でアルマジロみたく体を丸めた。


「開けろって言ってるんだよ!」


 ガラガラ声が野太くなった直後、一際大きな衝撃音とともに木戸が震えた。殴打をやめて、蹴ったらしい。

 扉の限界を感じたイヴリンは、マットレスを拳で一殴りしてから、「わかった~」と答えて枕を頭の上から取りはらった。

 むくりと起き上がり、肩にかかる栗色の髪をさっと一つにまとめてから、裾がほつれかけた寝巻ネグリジェの上に、毛玉だらけのガウンを羽織る。

 素足のまま、くたびれた牛革のブーツを履いた。

「うう〜、寒い寒い」

 白くなった吐息に顔をしかめながらも、板張りの隙間から風が吹き込んでくる木戸へと足早に向かう。


「あのねビッテ。看護師にも睡眠は必要なの」


 ドアを開けるなり、腕を組んでドア枠にもたれかかったイヴリンは、目の前の小柄な中年女に、苦笑いを向けた。

 小柄な中年女ビッテは右手にハンカチを巻いた孫娘の肩を抱き、なかなか戸を開けなかった看護師を膨れ面で見上げている。

 一体何時から起きているのだろう。孫娘のレナはイヴリン同様ネグリジェ姿なのだが、ビッテはいつもの着古したシャツとスカートに着替え済みで、エプロンまでしているのだ。


「ああそうかね。それで、あんたがぐーすか寝てる最中に、大事な孫が失血死したらどう責任を取るつもりだい」


 ビッテは滑舌の良い早口で言い返すと、イヴリンを押し退けて部屋に入った。暖炉の前にある肘掛椅子にレナを座らせ、暖炉横に積んである薪を幾つか抱えた彼女は、すっかり冷えた炉の中に景気よくぽいぽいと放り込んでゆく。


「まったく。これじゃあレナが凍え死んじまうよ」


 ぶつぶつ文句を言いながら古新聞を薪の間につっこみ、マッチで火をつけた。

 失血死だとか凍え死ぬとか、大げさな物言いをするのはビッテの癖だ。イヴリンはやれやれと言わんばかりに額を押さえてかぶりをふってから、不安げに自分を見上げているレナの前に屈んだ。


「見せて。手を怪我したのね?」


 怪我人が安心できるよう優しく声をかけて、血のにじんだハンカチをそっと取る。小指の根元に切り傷があった。一センチほどに渡りぱっくりと裂けているが、血はもう止まりかけている。


「あたし、死んじゃうの?」


 レナの顔は死人みたいに真っ青だ。おそらく、ビッテが散々騒いだのだろう。七歳の子供には、それだけでも怖かったはずだ。自分はレナよりもとお以上年上だが、それでも、死ぬだの失血死だのと周りに騒がれたら、おどおどしてしまうに違いない、とイヴリンは思った。看護師としての知識が無ければ、の話だが。


「安心して。お薬塗って、包帯を巻いておけば大丈夫よ」


 猫の毛なみにふんわり膨らんでいるレナの細い金髪を撫でる。

 にこりと笑顔を見せてから立ち上がると、部屋の隅にある棚へ向かった。一番上に置いてあった家庭用の救急箱を手に、レナの前に戻る。

 手当の準備をしていると、臙脂えんじ色のスカートに覆われた大きく丸い物体が側頭部に当たって邪魔をしてきた。パシンと平手打ちして苦情を言う。


「ちょっと。お尻が邪魔」


「キレイに縫っとくれよ」


 火起こしの最中に尻を叩かれたビッテは「痛いじゃないか」も「おや失礼」も言わず、看護師の処置に注文をつけた。

 縫う、という言葉に反応して、レナの肩がぴくりと震える。


「縫う必要なんてない」


 イヴリンは、心配性な中年女に答えつつ、フェノールを染み込ませた綿花をピンセットで摘まみ上げた。それを、レナの小さな手の傷口にポンポンとあててゆく。 


「傷痕が残ったらどうするんだい」

「残らない」


 外に出ておけ、と怒鳴りたい気持ちをぐっと堪えつつ、仕上げの包帯を巻く。簡単に解けぬよう先を結んで、余った部分をはさみで切った。


「はいおしまい。簡単だったでしょ?」


 明るく笑いかけると、ずっと強張っていたレナの頬がようやく緩む。

 普段のお転婆な気質が帰ってきたのだろう。「ありがとう」と歯を見せて笑ったレナは、肘掛椅子からぴょんと飛び下りた。そのまま、ビッテの太い腰に抱きつく。


「終わったよ。おばあちゃん」

「もうペーパーナイフで遊んじゃ駄目だよ」


 ビッテは愛おしそうに孫を見下ろし、農作業で鍛えた分厚い手で、少女の細い肩をさする。続けてビッテは、イヴリンに視線を移してこう言った。


「お礼に朝ごはん作ってやるよ。材料どこだい?」


 マッシュルームが2つ並んだみたいな大きな丸い目で、キョロキョロと室内を探りはじめる。


「結構よ」


 イヴリンはここでようやく、迷惑な隣人に「早く帰って」と要求することができた。



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