第38話 砕けた赤い石(残酷描写あり)

 熱い、と感じてイヴリンは目を覚ました。

 瞼を開けた視界に飛び込んできたのは、青空に舞い散る火の粉である。パチパチと何かが燃える音も、足元から聞こえる。


 覚えの無い火の気からは急いで遠ざからねばならない。戦地での経験から学んだイヴリンは素早く体を起こし、後ずさった。眼前で燃え盛っている白い山のような物体を見上げ、息をのむ。これが頭の上に落ちてきた飛行船だと気付くまでに、数秒を要した。

 燃え盛る炎と残骸の中には、焼け死んだ人間が重なり合っている。乗務員と、凶屍らだ。瓦礫から這い出た後に力尽きたのだろう。人の形をした幾つかの赤黒い塊が、飛行船の残骸に足を向けてうつ伏せで倒れている。

 焼死体を見つけたせいだろうか。化学物質が燃える強烈な臭気に混じって肉が焼ける匂いまでも嗅ぎ取ってしまい、イヴリンは腕で鼻を覆った。


「誰かー! 誰かいる!?」


 生き残っている者がいないか大声で呼びかけてみるも、返事は無い。

 この大惨事で、何故自分は無事だったのか? とイヴリンは疑問を抱いた。炎に包まれた飛行船が迫りくる恐怖で脚が動かず、イヴリンはその時確かに、死を覚悟したのだ。そして、横から突き飛ばされたことを思い出す。

 誰かがイヴリンに体当たりをしたのだ。おかげで命拾いをした。しかしその誰かが、イヴリンには分らなかった。


 危険だと承知しながらも、紅蓮の炎を上げ続ける飛行船に、そろそろと近づく。

 間もなく、ひしゃげた金属フレームの傍に落ちている帽子を発見した。思わず駆け寄り、掴み取る。

 それは間違いなく、イヴリンの父親が気に入っていた鳥打帽であった。昨日からはずっと、オリバーの頭の上に乗っていた。

 自分を突き飛ばした人物を特定したイヴリンは、あらん限りの声で呼ぶ。


「オリバーさん! どこ!」


 覆いかぶさってくる黒煙に咳き込みながらも、這いつくばって瓦礫の下を覗いた。けれど、呼び声に応えて動くものは無い。

 頭上で再び爆発音がして、炎を巻いた瓦礫が落ちてきた。

 あわやというところで逃れたイヴリンは、燃え盛る瓦礫を前に、帽子を強く握り締める。一つ、とびきり大きな叫び声を上げると、くるりと背を向けて走りだした。


 イヴリンの頭の中には、ラス・リューがいた。彼に助けを求めるつもりだった。

 強く頼もしい兄でもない。優しい思い出で、落ち込んだ心を癒してくれる両親でもない。村の親しい友人達でもない。一昨日出会ったばかりの、不器用が固まってできたような屍案内人。しかし誰よりも強い意志の持ち主であると断言できる。ゆえに、彼ならばこの絶望的な状況を打開できるのはないかと。イヴリンは、そんな根拠の無い淡い期待を抱いたのだ。

 だがその期待は、裏切られることとなる。


 レギオ・ルブラへの出入り口前にイヴリンが辿りついた時、そこではジャンが、大声で泣き叫んでいた。


「逝っちゃ駄目だよ! ねえラス。僕は死人が大好き。僕みたいにペラペラ喋らないから! でもだからこそ美しく研究したいんだよ! 君は僕の希望。美しい死人研究を続ける為には欠かせない、究極の礎なんだよ。あの超絶美しくないフェロックスプールを、制圧したのは君だけ! だからお願い、いなくならないで!」


 まくしたてながら、細く長い四肢を地面に横たえているその人の体を揺さぶっている。その人の体は何だかとても軽そうで、風が吹けばふわりと浮かんで飛んでいってしまいそうに、イヴリンには見えた。

 その人とジャンの周りを囲んでいるのは、ラスが連れていた四人の屍だ。

 ゼンゾーはへたりこんで嗚咽を漏らしており、ギル・バンはゼンゾーの横で立ち尽くしている。

 ゼンゾーらから少し離れた場所で立っていたアレックスが、煤まみれの妹の存在に気付いて駆け寄った。「大丈夫だったか?」と話しかけるも、その声には、いつもの覇気がまるでない。


 イヴリンはアレックスを押し退け前に進み出ると、ジャンの隣に跪いた。

 ラスの、僅かに開いた薄い唇。続いて、長い前髪の隙間で柔らかく閉じられている左瞼に、指先で触れる。何の反応も得られなかったイヴリンは、今度はラスの頬を幾度か叩いた。呼びかけようにも声が出なかったので、次は胸周りの服を掴んで揺さぶる。


「無理だよ心臓止まってるんだ」


 涙ながらに言ったジャンを、イヴリンが睨みつけた。罵倒しようとするも、どんな言葉も喉に引っかかって出て来ず、薄く開いた唇だけが小さく震える。

 大粒の涙がイヴリンの頬をつうと流れた。

 その時、誰かがイヴリンの右手を掴んだ。マリーである。

 イヴリンの右手をラスの顎に乗せたマリーは、続いてラスの横に移動すると膝立ちになり、胸の上に両手を重ねて肘をまっすぐ伸ばした。そして両腕に全体重を乗せるように、律動的に胸を圧迫し始める。

 それは近年、新たな救命法として確立された心肺蘇生法であった。

 看護師の実技訓練でそれを習っていたイヴリンは、急いでラスの顎を持ち上げ、口から空気を送る。


「何やってるんだよお伽話じゃあるまいし!」


 童話の真似ごとと勘違いしたジャンが苛立ち紛れに責めたが、その頭をアレックスが「黙ってろ!」と抑えつけた。

 しばらくの間、心臓マッサージと人工呼吸が繰り返される。

 と、その時、パキンと小さな音がした。屍を除く全員の視線が集まった先で、ラスの前髪のひと房を留めていた赤い球が半分に割れる。


「ああ」とゼンゾーが、絶望にまみれた嘆きをもらした。

 半分に割れたその場所から、緑色の炎がポッ生まれた。炎は勢いを増しながら、ラスの頬を伝い首へ、首から肩へ、と這うように広がってゆく。


『もし浄化が間に会わず屍になりかけたら、燃える』


 教会の食糧庫でアレックスに言っていたラスの言葉を思い出したイヴリンは、炎を払い落とそうと必死に手を動かす。


「だ、駄目! 駄目! 待ってよ!」


 けれどもその両手は虚しく炎を通過するばかりで、消火はおろか揺らすことさえできない。不思議なことに、熱ささえ感じないのだ。

 焦りと苛立ちのあまり泣き声を上げかけたイヴリンの両側頭部を、マリーが掴んだ。強引にラスの顔の前までもっていくと手を離し、また、心臓の圧迫を始める。


『あたふたしてるだけなら邪魔! 目の前にある事何でもいいから、できることをやりなさいよ!』


 戦地で正規看護師に言われた言葉が、イヴリンの脳裡に蘇る。

 イヴリンはマリーに向かって強く頷くと、再びラスへの酸素供給を開始した。

 人工呼吸を繰り返すことで、イヴリンも酸素不足となり眩暈を覚え始める。

 くらくらと揺れていたイヴリンの視界がかすみだした頃、緑色の炎の勢いが衰えを見せた。そこからはまるでラスの体から撤退するように、指先から徐々に消え、最後、赤い球の周辺に残っていた蝋燭一本分の灯が、風に吹き消されるように消失する。

 次の瞬間。ラスの口に、すう、と小さな吸気が起こり、胸が僅かに持ちあがった。小さく震えた瞼がゆっくりと開き、その下から、白く輝く虹彩を持った焦げ茶色の瞳が現れる。

 心臓の圧迫を続けていたマリーの体が、尻もちをつくようにどさりと落ちた。


「愛の力だあ」


 顔を両手で覆ったゼンゾーが、さめざめと泣いた。




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