第7話 師父 ゼンゾー・リュー
どれくらい、二人顔を背けて黙っていたのだろう。イヴリンはちらりと横目でラスを見た。イヴリンが解説を拒絶してからというもの、ラスは膝を抱えて床の一点を見つめたまま、ぴくりともしない。
もしや寝ているのだろうか。
疑ったイヴリンは、ラスの顔を覗いてみようとゆっくり身を伏せる。その時、前方でバサリと羽音がした。
「おほほ、これはこれは。ずいぶん可愛いお嬢さんだ」
椅子の足に停まっているメイが、こちらを向いて嘴を動かした。嘴から出てきたその声は、流暢な共通語。しかも、歳を重ねた人間の男のものである。
イヴリンは伏せの姿勢のまま、言葉を失った。
椅子の足から飛び下りたメイが、二人の前まで跳ねてくる。
「旅先でロマンスとはお前さん、なかなかやるではないか」
哀愁と笑いを帯びた声でラスに話しかけた。
「師父!」
笑顔になったラスが、身を乗り出した。ずっと丸めっぱなしだったせすじを伸ばした彼は、「シフ。ジウ ウェイ ラ(お久しぶりです。師父)」と挨拶文らしき外国語を口にして、水平に腕を持ち上げ手を重ねた中で頭を下げる。
「エン(うむ)」
烏が頷いた。
身震いをしたイヴリンは飛び上がるように立ち上がり、メイから最も離れた壁際まで走って逃げる。が、まだ足りないとばかりに壁にぴたりと背中を押し付けた。
「烏が喋っ……中年男っ? ええっ? 嘘でしょ!」
「め、メイは雌。し、師父はお爺さんだよ、イヴリン」
ラスがイヴリンの間違いを正す。
「ははっ。お前は相変わらずトンチンカンよの」
論点がずれているラスの指摘に、メイが笑った。イヴリンに嘴を向けると、「電話は知っとるかな? お譲さん」と訊ねる。
野戦病院で使用経験があったイヴリンは、「ええ」と答えた。
「屍案内人の連れはね、電話の役割もするんだよ」
「メイは機械だって事?」
「うははは。これはなかなか強情な頭のお嬢さんだ」
石頭呼ばわりされたイヴリンはムッとして口をつぐんだ。
「えっと、つまり」とラスが説明を引き継ぐ。
「れ、霊魂を、千切って飛ばすんだ。メイの体を、借りて話す。だから『電話』。いい?」
いい? と聞かれれば、理解に困る事ばかりなので全く良くはない。とはいえ、成熟した優しい声色と肩の力が抜けたような話し方は嫌いではないと感じた。なので、「分った。とりあえずメイは九官鳥ってことで」と納得できるギリギリの解釈で受け入れる。
「ぜんぜん違う」
ラスが不満げにかぶりを振った。一方メイは「ああ~、よいよいそれで」と何度も頷く。それからラスを仰ぎ見た。
「それよりもなぁ。こっちの方が、少々厄介な事態になっておるのだわ」
と少々、不穏な発言をする。
「ウェ(どうして)?」
ラスがメイに振り返る。うっかりすると母国語が出るのだろう。共通語を話す相手に合わせて、「えっと……どうして、ですか?」と言い直した。
「ああ。ギル・バンが裏切りおったのよ」
「ギル・バン事務総長が? で、でもあの人は、師父とは同志のはず」
「ああもちろん、友達だとも」
メイが強く肯定した。しかし言ったそばから「友達なんだがなあ……」と言葉を濁して首を捻る。
「あのスカポンタンめ。わしらを牛耳り、屍と案内人を囲うと言いはじめたのだ。そうして、平和利用に役立てると」
「や、役立てるって?」
狼狽ぎみだったラスの声色に、僅かな怒りが加わる。
「こ、この人達は、もう死んでます。これ以上、何をさせるって、言うんですか」
「ひとまずは、戦後処理班に回すと」
「戦後処理……」
オウム返ししたラスは、じっと黙りこんだ。数秒の後、何度も首を横に振る。
「や、やっぱり、信じられない、です。あの人は僕の先生、だったのに」
「議論は散々繰り返した。ワシらも国際連盟と協調関係になるからには、平和維持に努める義務がある。しかし、死者を利用するというのは、我々にとっては信念を折るのと同じことだ。どう考えても賛同はできんかった。そしたら奴め、従わねば屍案内人機構を潰すと脅して来た。そればかりか、ワシが国際連盟に嘆願書を提出する直前に察して、ワシを拘束しおったのよ。今は幽閉されておる」
「た、助けに行きます! 場所は?」
身をひるがえしたラスが、コートのポケットから小さな鐘を取り出し、それを荷物から突き出ている竿の先に結び始める。しかしその動きは、メイの「ああ~、よいよい」というのんびりとした声で中途半端に終わった。
「あいつのことだ。命までは取ってこんわ。掴まる前に連れを逃がしたので、そっちからの連絡は受け取れんで悪いのだが」
「え。で、でも……」
「お前は彼らを、一日でもはよう家に帰してやれ。遅れれば遅れるほど、軍が迫ってくるぞ」
整列している五人のモルトスに、メイが嘴を向ける。五人を見つめたラスは、やがて視線を落とした。「ドンラ(分りました)」と小声で答えて、きゅっと拳を握る。
「あとはまあ、そこにいる頭でっかちなお嬢さんと、もうちょっと仲良くおなり」
イヴリンに振り返って言ったメイの目が、にやりと細められる。
馬鹿にされたと感じたイヴリンは、腰に手をあてて生意気な烏を睨みつける。「あんた、丸焼きにしてほしいの?」と壁際から一歩前に踏み出した。
ラスが大慌てでメイを抱き上げ、小屋の隅へと逃げる。
「め、メイはとてもいい子なんだ。お願い焼き鳥にはしないで!」
これでもかというほど顔面を引きつらせて訴えてきた。
メイがラスに抱かれたまま、嘴を上にあげて「ははは」と笑う。
「ラスは今年で二十二なんだがなあ。冗談がまーるで通じなくてなあ」
困った我が子に頭を悩ませる親のような口ぶりで言うと、「ごめんね?」と首を傾げてイヴリンに謝罪した。
「嘘でしょこれでもう大人なのっ?」
イヴリンは声をひっくりかえらせた。肌のキメの細かさや幼さが残っている顔つきの印象から、ラスを自分と同年代もしくは年下であろうと判断していたのだ。全身の骨格も、ケルトニアの一般的な成人男性に比べると随分細作りである。
ラスが必死に、謝罪と弁解を始める。自分の不器用さがイヴリンを呆れさせたと勘違いしたのだろう。
「ごめん。その、案内人は、夜中に活動するから。ご、ごめん。生きてる人と話すの、慣れなくて。と、特にあなたみたいな美しい人が、相手じゃ、もっと、緊張するから……」
最後に三度目の「ごめん」を呟くと、顔を赤くして俯いた。
思いがけず、『美しい』という褒め言葉をもらったイヴリンは、気を良くする。
「謝らないでいいのよ」
自分は本当は年下なのだが、年長者の気持ちで内気な青年に微笑みかけた。
「師父。えっと、それじゃあ……ぼ、僕は、五人と行きます。状況、が変わったら、連絡をください。ラゴウ(指きりげんまん)」
メイを椅子の脚に戻したラスが、右手の小指をメイの右足の一本にひっかけて、上下に振った。
「ああ。今まで以上に人目を避けよ。ギル・バンのみならず、世界中の軍部がお前達を欲しがっておる事、ゆめゆめ忘れてはならんぞ」
「はい」
「もしもの時は迷わず
もう一度、ラスが「はい」と頷いた数秒後。メイが翼をはばたかせ、カアと鳴いた。
メイをひと撫でしたラスが、憂い顔でふ、と小さく息を吐く。が、すぐにイヴリンに顔を向けると、はにかむような笑顔を作った。
「ご、ごめん。いきなりでびっくりしたよね。通信は、もう切れたから」
イヴリンは謝罪に応える代わりに、ラスと師父の会話の中で気になっていた点を訊ねる事にした。
「ギル・バンてもしかして、国際連盟事務総長のギル・バン?」
ラスが頷く。
「そ、そうだよ。さ、さっき話してた、師父は、世界屍案内人機構の代表、ゼンゾー・リュー」
「あ~、やっぱりそうなんだ」
屍案内人に大きな組織体制があったのは初耳だったが、国際連盟はイヴリンもよく知っていた。終戦とほぼ同時に発足した、世界初の国際平和機構である。そのトップが、ギル・バンだ。砂漠の大国ペラの元外務大臣を務めていた男で、前職は霊魂を保護し運ぶ『葬送人』だったと言われている。
イヴリンは引きつった笑顔で幾度か頷いた後、床に視線を落として思いきり顔をしかめた。
「烏が喋ったややこしい話全部、聞かなかった事にしたぁい……」
★
ヘルヴェティア国の都市、ジェナーヴァ。ここには、大戦による物理的な荒廃は見られない。きちんと整備された街並みは自然と調和した美しい景観を保っており、道行く人々の表情も明るい。戦後の復興真っ最中である他の国々と比べて人の様子も街の様子も平和で安定しているのは、ヘルヴェティアが中立国として大戦に直接参加しなかったからである。
ジェナーヴァには、広大な湖を見下ろせる緑豊かな公園が広がっており、その敷地内には、白い柱がずらりと並んだ真新しい建造物がある。国際連盟の本部、通称『万国の宮殿』である。
古代神殿を現代風にアレンジした様式の宮殿の内部では、スーツを着込んだ国際連盟の職員らが厳かな顔つきで廊下を行き来している。規律と潔白が隅々にまで行き渡っているかのようである。この地下にある物置同然の部屋に老人が一人閉じ込められていて、今まさに情けない顔で鼻をかんでいるとは、誰も思わないだろう。
その老人は、かつて東洋の貴族が着ていたものに似た、たっぷりとした裾と袖が特徴的な黒一色の衣装をまとっていた。白熱電球一つが照らす薄暗い光の下、質素な折り畳みベッドに座った彼は、実に嬉しげな顔でむせび泣いている。彼が体を前後させるたびに、白く長い三つ編みが広い背中で小さく跳ね、綺麗に剃りあげられた耳から上の頭皮が、電球の光を反射して鈍く光る。
「ラスに……ラスに生きた女友達がなぁ……そうかぁ。うん、うん」
涙声で言った彼は、ハンカチに顔を埋めると、体を大きく前に折って盛大に鼻をかんだ。ハンカチの濡れていない部分を探して頬と目元の涙を拭きとってから、羽織りのポケットに突っ込む。
ギイ、という金属音とともに、扉が開いた。入って来たのは、その老人と同じ年頃と思われる、厳格そうな痩身の男である。ゆったりとした黒衣に身を包んでいる老人とは対照的に、体に沿った全身真っ白な詰襟の長衣を着ている。白髪をオールバックでまとめ、鋭い顔つきに加えピリリとした隙の無い雰囲気は、まるで猛禽類だ。
人種も衣服も纏っている雰囲気も異なる二人である。しかし、瞳がぼんやりとした光を帯びている点は共通していた。
「また泣いとるのか。ゼンゾー」
純白の猛禽類を連想させる国連事務総長ギル・バンは、鬱陶しいと言わんばかりに口元を歪めた。扉を閉めると、部屋の隅にあった丸椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
「まったくお前ときたら昔から。親戚や同僚の冠婚葬祭は勿論のこと、現場に出ても死人相手に、やれ寂しかろうだの痛かろうだの、ワンワンワンワン。煩いことこの上ないわ」
腕を組むと、辛辣に旧友の涙もろさをなじった。
「犬かわしは」
屍案内人機構代表のゼンゾー・リューは反論したが、彼の纏っている雰囲気は実際、ふさふさの黒毛に覆われた大型犬そっくりである。すんすんと何度か鼻をすすりつつ、顎の部分に残っていた涙を両手で拭う動作にもどことなく愛嬌がある。
床にぼんやりとした視線をやった彼は、「なあ~、ギルよ。米が食いたい」と犬が切なげに鼻を鳴らすように要求をはじめた。
「職員一人一人の連れに霊魂飛ばしてなあ、ワシはもうヘトヘトよ。せめて飯くらい何とからんか。パンはパサパサしてかなわんわ」
ギルが、テーブルの上に置かれているトレーをチラリと見る。朝食に出されたパンとスープは、それでも完食されたようである。軟禁状態にあっても変わらぬ食欲を見せる男を前に眉根を寄せたギルだったが、小言の表出は言語化されることなく、眉間を揉むだけにとどまった。その代わり、
「職員への警告は、お前が勝手にやっとる事だろうが。お陰で俺はすっかり悪者だ」
とため息交じりに苦情を言う。ゼンゾーは冷笑した。
「そりゃそうだろう。お前がワシを拘束しとるんだから」
途端、ギルの眉間の皺が一気に深くなった。もう一月以上、平行線の話し合いが続いている交渉相手を睨みつけると、何度口にしたか分らない文句で怒鳴りつける。
「お前が嘆願書など提出しようとするからだ! 国際連盟か、どこぞの国の軍部か。いずれ掴まり使われるなら、どちらがマシか考えてみろ!」
「やれやれまったく。お前はなあ、思考が極端なのよ」
人さし指で顎をかいたゼンゾーが、そのまま顎髭をするりと撫でた。髭の先には、ラスの前髪にあった物と同じ、赤い玉が結ばれている。
「ラスは、信じられんと言っとったぞ。お前は僕の先生だからと」
普通教育の全てと屍案内の理論を養子に叩きこんでくれた恩人に向かって、親しげに微笑む。
「はん! まったく、あの変わり者め!」
ギルは忌々しいとばかりに吐き捨てた。
対して、ゼンゾーは朗らかに笑う。
「ああ~、確かに変わり者だわ。しかし案内人としては一流に育ってくれたぞ」
ゼンゾーの言葉に、ギルの眉間の皺が幾分浅くなった。
「そうだな確かに、仕事ぶりは悪くない」
と渋々といった調子で同意する。「子供の頃は、将来どうなることかと心配したが」とも続けた。
しかし、穏やかなのはそこまで。再びぎりっと眉を吊り上げたギルは、憤懣やるかたないといった様子で、大声で喚きはじめる。
「どうなることかと心配していたが、仕上がりは想像してたものよりずっと悪いわ! 死人に溺れきって。どうするんだ! あれでは世捨て人まっしぐらじゃないか!」
さらにはゼンゾーを指さし、その尖った鼻からフンと強く息を吐いた。
「お前はどうか知らんがな、ゼンゾー。俺はあの問題児に良い感情は無いぞ。十二になってもアルファベットを覚えんかったあいつに、全ての教本を朗読して暗記させたのは最悪の思い出だ!」
「いやはや。ははは。面目ない」
ゼンゾーは苦笑った。
ギルが一年足らずで教員を辞めたのは、屍に関する学問に人一倍の熱意を見せた一方、一般教養はまるでザルだったラスの教育で、精も婚も尽き果てたからである。ギルを屍案内人養成学校の教員に推薦し、ラスの座学をギルに丸投げしたゼンゾーは、これについてはただ謝るしかなかった。とはいえ、養父としてラスを擁護できないわけでもない。
「ラスが屍に入れ込むのは仕方なかろう。才能も境遇も、屍と生きる為に生まれてきたような子だ」
十九年前。民族間の紛争に巻き込まれた小さな村に、ラスはいたのだ。
霊魂の扱いに不得手なフールーの案内人が、霊魂の保護と浄化を主業とする葬送人と組んで現場に赴くのは常である。その時もゼンゾーは、駐在員のギルと、他数名の仲間と共に死人の回収に向かった。ところが村には、凶屍化している者は不思議とおらず、屍が数体、彷徨っているだけだったのだ。
村が襲われたと聞いて、本部を出立したのは五日前。日向に立っていればじんわりと汗ばむくらいの陽気の季節だった。当然、エーテルを枯渇させた屍は凶屍化し、その肉体も腐敗が進んでいるだろうと思っていた。しかし、何故か村には屍が肉体を維持し歩きまわれるだけの、高濃度のエーテルが満ちていたのだ。
エーテルの発生源を求めて捜索を重ねていると、ある一軒のあばらに行きついた。そこで、若い男と女の屍を見つけた。その二人は三歳くらいの男の子を真ん中に、前と後ろからその子を抱くように座っていた。
エーテルの発生源はその子供であり、その子が生きていると確信したゼンゾーが三人に近づくと、女の屍が最後の言葉を使って「息子をお願いします」と言ってきた。続いて男の屍が、子供の頭に手を添えて「ラス」と。
それで心残りが晴れたのだろう。同時に床に倒れた二人は、ただの躯となっていた。ラスは二人の間で呆けたように、床の一点をただ見つめていた。
「いやあ、一言も喋らんくせに暴れるわ噛みつくわ、連れて帰るのがまっこと大変だったが。初めてワシの手から握り飯を受け取って、にこりと微笑んでくれた時の顔が、かわゆーてなあ。今でもあの子の純真無垢な目を前にすると、胸がこう、きゅーんと……」
「親バカが」
呆れたと言わんばかりに、ギルがかぶりをふる。
続いてゼンゾーも、首を横に振った。
「いやあ、ワシは親ではないぞ。ラスは両親を覚えておる。息子にしたのは紙の上だけの話だ」
俯いて、組んだ両手を握りしめる。
ギルは背中を丸めたまま動かなくなった旧友を暫く黙って見つめていたが、やがて口を開く。
「なあゼンゾー。お前、今の世の中を三歳の頃のラスに渡せるか?」
声を落として問いかける。
「大戦は地獄だった。そして今も地獄は続いている。時代は変わったんだ。この世の人間全てが、地獄を作る一人になってしまう時代にだ。例え死人だとしても、世界に尽くす義務がある」
返事の無い友の横顔を見つめながら、ギルは続けた。
「死ねば被害者か? 英雄か? 違うだろう。なあ友よ……」
だがゼンゾーは答えなかった。ただ俯いたまま、涙をポロポロと流し始める。
「またそうやって泣く!」
ギルはのけ反り、天井を仰いだ。最初の話し合いからずっとこんな具合に、収集がつかなくなって終わるのだ。
「しかしなあだってお前、情に訴えかけるのは、反則じゃあ!」
叫んだゼンゾーは両手で顔を覆うと、声を上げて泣く。そして、涙による塩害で赤くなった顔をゴシゴシとこすっては、「はあ~、ヒリヒリするなあもう」とぼやくのだった。
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