第8話 胸をよぎる不安
碌な治療道具がない。
ラスの荷物に救急セットがあると聞いたので、じゃあ私が左腕の手当てをいたしましょうかと蓋を開けてみたイヴリンの感想である。竹を編んで造られた掌大の箱の中にあったのは、包帯の切れ端と、鋏。消毒液が入っていたであろうと思われる空瓶。そして何故か、縫い針一本と木綿糸が一巻き。それだけである。
「旅人なら消毒液くらい常備したら?」
正面で左の袖を折り上げている荷物の持ち主に、看護師として忠言する。
更に荷物を漁ると、水筒を見つけた。上下に振ってみる。チャプチャプと水音がした。次に、蓋を開けて匂いを嗅ぐ。ほぼ無臭。多分、普通の水だ。少なくとも腐臭はない。
「傷なら、水で洗えば、十分だから……ああっ、これ飲み水!」
水筒の中身で左腕がダバダバと洗われるなり、ラスが悲鳴に近い叫び声で抗議する。
貴重な飲用水を傷口の洗浄に躊躇なく使ったイヴリンは、「後で補充してあげるわよ」と空になった水筒を床に置いた。包帯の代わりに自分の寝巻の裾を鋏で切りとって、それをラスの腕に巻きはじめる。
ラスが申し訳なさそうに、腿までのスリットができてしまったネグリジェに目をやる。
「ご、ごめん。服が、台無しだ」
「いいわよ別に。帰ったら縫い直すから」
イヴリンは事もなげに言って、布の先を鋏で二分割して結ぶ。石をぶつけられた額の出血は止まっていたので、手当ての必要は無かった。手持無沙汰になったイヴリンは胡坐をかくと、袖を直しているラスを覗きこむ。
「ねえ、ところでさっきの話、どれくらいの人が知ってるの?」
「あ、あの話?」
ラスが眉をひそめたので、イヴリンは「フェロックスに噛まれてもフェロックスにはならないって話」と補足した。
「ああ、それか」
ラスが小さく微笑んだ。目を閉じ、こめかみを押さえながら、説明を始める。
「か、屍や凶屍の研究は、どの国でも、昔からしてたんだけど……えっと……。『世界共通屍教本 Ⅰ』 第一章 死人の歴史。屍や凶屍を総称して死人という。死人は有史以来存在しており専門家による研究もなされているが、世間ではその実態がいまだ誤認されているのが実情である。原因は、宗教や民話によってねじ曲げられた死人のイメージが社会に根深く定着していること。『死』が前提にあるために、死人とそれに対する研究が社会的に忌むべき対象とされ、一般的に話題に出す事自体が避けられている。この二点である」
またもや教科書の引用で早口に喋られてしまい、理解が追いつかなかったイヴリンは、「うーん」と唸り、「要するに?」と求めた。
「よ、要するに? ……えっと……要するに……」
ラスは幾度か首の角度を変えながら、もごもごと口を動かしていたが、結局悔しげに首を横に振ると、「ごめん」と言いつつ額を擦る。
「む、無理。共通語で書かれた文の、要約? を、フールー語で考えて。それをまた、共通語に直す、のはすごく難しいから。せ、せめて、フールー語で話せないと」
「フールー語は分んないわ」
「そっか。そうだよね」
申し訳なさそうにラスが笑った。そしてまた、小さく「ごめん」と呟く。
「あなたって、謝りすぎね。――ねえ、そう思うでしょ?」
イヴリンは笑うと、壁際で整列しているモルトス達に同意を求めた。
「か、屍は普段、喋らないよ。最初に少し喋ったら、最後の一言、の為に、言葉の力を、残しておくから」
専門家から馬鹿丁寧に指摘され、恥ずかしくなったイヴリンは「……知ってる」と嘘をつく。
「なんにしても、私達はモルトスやフェロックスのこと、沢山誤解してるのよね。それはちゃんと納得したわ」
これまでのラスとのやり取りから、イヴリンは簡単な結論を述べた。そこで、ふと胸に不安がよぎる。
今日、村でフェロックスに襲われたのはビッテだけだったのだろうか? イヴリンの家は村の中ほどにある。もしビッテより前に、襲われた村人が他にいたとしたら?
村人たちはまだ、迷信を信じている。
病院のベッドの上に並んで、眠るように死んでいる両親の姿が、イヴリンの脳裏に蘇った。二人の肩には、フェロックスの噛み傷。そして右腕には、過剰量の麻酔を投与した、注射の痕が。
「大変!」
青ざめたイヴリンは、手当てを終えたばかりのラスの腕を掴むと、引っぱって力任せに立ち上がらせた。荷物と杖を放り投げるように渡し、またラスの手を取る。
「ほら急いで!」
慌ただしく小屋を出た。
ラスは鐘を鳴らしてモルトスの五人を呼びながら、「ど、どこへ?」とイヴリンに行き先を訊ねる。
「村よ!」
イヴリンは叫んだ。
「早く! 迷信の犠牲者がまた出ちゃう!」
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