第20話 破壊されたロザリオ

「待て!」


 慌てたアレックスは、ラスを追って前に出た。その先で、しばし言葉を失う。飛び込んだままフェロックスの群衆に埋もれてしまうだろうと思っていたラスの体が、宙を舞ったからだ。

 ラスはフェロックスの頭上で体を上下反転させると、一体の女フェロックスの頭頂部に手を置いて、再び小さく跳ねあがった。途端、触れられた女フェロックスの体の動きが、スイッチが切れたように止まり、崩れ落ちる。


 着地したラスは、底に溜まっている腐敗物に足を滑らせはしたものの、持ち前の体幹の強さと高いバランス感覚でもちこたえた。そこからはひたすら、襲いかかってくるフェロックスらへの応戦と回避が続く。

 ラスは、屈んだり身を捻ったりと、掴みかかろうとしてくるフェロックスの腕を避けながら、木炭で描いた大極八卦図を、フェロックスの体に押しつけるように、左右どちらかの手で触れていく。


 頭頂部。首裏。肩甲骨の間。口。


 触れる場所は、この四カ所に決まっているようだった。ラスに触れられたフェロックスは、やはりぴたりと動きを止め、その場に倒れる。

 ラスは着地点で、一〇体ほどのフェロックスの動きを封じた。所要時間は、おそらく三〇秒に満たなかっただろう。


 ラスがその場から動いたのは、正面と左方向から、四体のフェロックスが同時に襲いかかって来た時だ。

 右の壁に向かって勢いよく走り込んだラスが、プールの底を蹴る。垂直の壁を人一人分ほどの高さまで駆け上がると、そのまま横に走り抜け、フェロックスらの後ろへ回って着地した。そこからは次々とフェロックスらの背中に掌をあて、動きを封じる。


「わあ、早いなぁ~」

「まるで曲芸ですね」


 ジャンとアボットが感嘆する。

 アレックスは、アボットの『曲芸』という表現に、馬鹿野郎、という気持ちを込めて低く唸った。これが曲芸なわけがない。力強く無駄のない動きで、的確に相手の急所をついている。両手に刃物を持たせれば、護衛ごと標的を葬れるだろう。銃を持たせれば、集会場丸ごと一つを、一人で殲滅できるかもしれない。今すぐにでも暗殺者に転職できる。

 ラスは、先の大戦では何度も前線に赴いたと言っていた。そこで仲間を大勢失った、と。そんな状況で生き残れたのは、運だけではなかったのだ。

 仕上がり具合に個人差はあるだろうが、おそらくフールーでは、他の案内人も同じように訓練されているに違いない。毒ガスや銃弾をものともせず突進する不死の軍団を率いる指揮官に、フールーの案内人はもってこいかもしれない。


 アレックスは顔半分だけ振り向き、腕試しをもちかけたマッキンリーを伺った。

 杖のグリップの上に両手を重ね、直立しているマッキンリーの表情。髭の下にあるその口は、笑っていた。合格、という事なのだろう。

 アレックスがマッキンリーに気をとられている間に、ラスが残る二体のうちの一体に足をひっかけて仰向けに転倒させ、その口を左掌で覆った。フェロックスは沈黙する。


 最後の一体は、左の壁際にいた。動きを止めたフェロックスの口から手を離したラスが上体を起こし、その一体と向き合う。


「彼、三日前の案内人だ」


 ジャンの言葉で、その一体の目が微かに青く光っていることに、アレックスは気付いた。身につけている服も、キャソックを模した本国のモルトス案内人の制服である。しかしその制服はそこら中が汚れ、破け、見るも無残だ。凄惨なのは制服だけではない。顔、太腿、下腿、首筋。彼の体のそこら中に、食い荒された形跡が見られる。両腕にいたっては左右とも、肩から下が無くなっていた。


「ロ……ロザ……リオ」


 獣が唸るような声が聞こえた。それが、フェロックスとなった案内人が発したものだとアレックスが悟ったのは、彼が二度目の声を上げた時だ。


「ロザ、リオ! ロザリオー!」


 半分近くを食われた顔面に残る口を大きく開けて、その案内人は何度もロザリオ、と叫ぶ。


「凄い。案内人は、フェロックスになっても喋れるんだ!」

「ロザリオ……胸にある、あれでしょうか」


 ジャンが握った拳を興奮気味に上下させ、アボットは案内人の胸元で揺れている十字架を指さす。焦げ茶色をした、木製のロザリオ。それをとらえたアレックスの目が、大きく見開かれた。


「赤い石だ」


 ロザリオの中心には、ラスの前髪に揺れているものと同じ大きさの、赤い石がはまっている。

 あの案内人は、石のありかをラスに教えているのだ。腕を失くした自分に代わりに、それを破壊して自分を燃やせとラスに求めている。しかしその要求に相反して、彼は他のフェロックスと同じく、ラスの血肉に宿るエーテルも求めているようだった。理性を害されながらも、モルトス案内人として僅かに残っていたプライドで、同業者のラスに、己の不始末の処理を頼んでいるに違いない。アレックスはそう考える。


 プールの底床には、機能停止したフェロックスらが、一面を覆い尽くすように横たわっている。この環境で、ラスはどう立ちまわるのか。アレックスは、唾をのむ。

 右脚を引き、腰を軽く落として構えたラスが、案内人のフェロックスに小さく頷いた。次の瞬間、案内人のフェロックスが、他の個体を踏みつけながら、ラスに突進する。ロザリオ、と叫んでいた口から発せられているのは、もはや奇声だけだ。


 二人の体がぶつかる寸前、ラスが更に腰を落とした。突き出した右手で、フェロックスとなった案内人の口を顎ごと包みこみ、左手でロザリオを握り、相手を全身で受け止める。

 パキン、と何かが割れる音がした。すると一瞬の間に、フェロックスとなった案内人の体が燃え上がる。それは、アレックスがこれまで見た事のない、深緑の炎だった。


 緑色の炎に包まれた案内人は、ラスにもたれかかるように全身を預けると、ずるずると滑り落ち、横に倒れた。炎は他のフェロックスには引火せず、石の持ち主である案内人だけを燃やしている。

 ラスは燃え続ける同業者の横に屈むと、炎に手を差し入れ、光を失った案内人の両目をそっと閉じた。立ち上がり、アボットを見上げる。


「あ、あの、すみません。軍人さん」

「アボットだ。ラス君。セネカ・アボット」


 アボットが、ラスに名乗った。その顔には、ラスに対する称賛の意が表れている。 

 ラスは小さく微笑むと、「アボットさん」と呼び直した。歩み寄り、アボットに右手を差し出す。


「す、すみません。木炭を、ください。コートの中、にあります」


 アボットは言われるまま、コートのポケットから木炭を取り出し、ラスに渡した。

 ラスはその木炭で、プールの底に倒れているフェロックスらの体の一部に、円を波線で割ったような、小さな印を描いてゆく。


大極図たいきょくずだ。あれの使い方なら僕、知ってるよ。あれで、死人は図を描いた案内人からエーテルを受け取りやすくなるんだ。生き物を食べなくてよくなるし、フェロックス化もしないんだよ」


 ジャンが実に嬉しそうに、ラスの行動の意味を解説した。

 最後の一体の首筋に大極図を描き終えたラスが身を起こし、横たわる死人達を見渡す。早くも案内人の躯は、骨も残らず燃え尽きている。


「弔い、か、帰郷、か。望み、は後で訊きます。言葉は、とっておいてください」


 ラスは、横たわる死人達にそれだけ告げると、躯を跨ぎながらこちらへ戻ってきた。一蹴りでプールの縁に手をかけ、難なくプールサイドに上がる。

 アレックスはラスを迎え入れるなり、その姿を見て呆れかえった。あれだけの立ち回りをしておいて、汗一つかいていないのだ。


「バケモノかお前」


 不思議そうに首を傾げたラスが、「に、人間、だけど」と律儀に答える。

 アボットが、「どうぞ」とラスにコートを返した。


「見事だった。名前を訊こうか」 


 コートに袖を通すラスの背中に、マッキンリーが自己紹介を求める。ラスは、解せない、といった顔でマッキンリーに振り向いた。


「え……な、なぜです?」


 有益と判断された研究材料にもたらされるものが、解放なわけがない。

 移監。

 マッキンリーはそれを、栄転、と皮肉った。

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