【殺す木⑦】闇の中の声
豹変した膵華が部屋から出て行くと暫く僕は凍りついたままだった。『肺明』という単語が彼女の逆鱗に触れ、僕が下手を打った為に羽賀さんが痛い目に遭わされる。
部屋がぐるぐると回転して、それ眩暈だと気付くには少し時間が掛かった。
そして途方に暮れている僕を叩き起こすように唐突に襖の間から紙切れがサっと落ちてきた。廊下から誰かが差し込んだとしか思えない状況で、襖を開けて廊下を見渡したが既に遅く誰の仕業か分からない。
廊下に突き出した顔を部屋に引っ込めて、落ちている紙切れを拾って開けてみると——
——午前1時、離れに。
殴り書きのようなペン字で記されていた。
『離れ』という単語からこれが誤送ではなくて、離れの鍵を持っている僕に向けられたメッセージということは明白だった。
誰がが僕に何かをさせようとしている。
しかもこのやり方からして、古宮家には内密でだ。
部屋の次は天井がグルグルし始める……
もし仮に、本当に仮にだけど、この指示通りに動くとしたら離れに行くにはそれなりの隠密行動が強いられる。一番手っ取り早いのは中庭を経由するルートだけど、名の通り“中庭”なだけあって外も屋敷に包囲されている。細心の注意を図らなければ離れまでには辿り着けない。
ならば先にこの紙切れを投函した主を導き出して協力を仰ぐか——理胆さん、膵華、羽賀さん……まさか肺明? いやいや、この中で可能性があるとしたらせいぜい羽賀さんくらいだけれど、僕は首を横に振る。
この紙切れのことを古宮家の人らに切り出すのはリスクが過ぎる。やはり単独での隠密行動が最適だ。
それにしたって、離れに侵入することを前提で僕は考えているけれど、膵華の豹変っぷりを見るにこの古宮家内で粗相を起こしたら何をされるか分からない。
ここは紙切れを見なかったことにして大人しくしている——という選択肢もある筈だけど、僕は分岐点の中心にはもういなかった。
ここにきて鞠緒の顔が思い浮かんでいた。
行かない選択肢を選んだ時、僕は軽蔑されるんじゃないか。そんな不安と、脳内で悪魔の姿をした鞠緒が僕を地獄へと手招きする。
「行くしかないよな……」
AM:0:35
隠密行動前、問題が発生した。
問題というよりは計画に大きな穴があった。
それは——僕はあの離れで光を使うことが出来ない。
てっきり離れの中で光を焚きまくる想像をしていたけれど、それは普段の介護の話で、今回の場合はそうはいかない。万が一、光の漏れている離れを外から見られたら一発でアウトだし、何より懐中電灯とランプが置いてある使用人室に行くのは隠密行動の難易度を格段と上げることになる。
つまり僕は狂人の棲まう離れに暗闇で挑まなければならなかった。使えるのは精々携帯のライトぐらいだろう。
古宮腸座には慣れてきたとはいえ、夜の……しかも明かりも無い空間で対面するのは心が慄然とする。
けれど腹を括るしかなかった。
僕は靴下のまま中庭へ踏み入り、土の柔らかい感触や小石の痛い感触を足の裏で感じながら足先に全神経を集中させて忍足で音を殺していく。屋敷からは一切の明かりが消えていて、闇夜に聳える古宮邸は圧を放って僕を押し潰そうとしてくる。
慎重に……慎重に……
この時間では風の音も虫の声も無く、僕の行動の一個一個が存在感を抱いて音を生み出す。「パキリ」と木の枝を踏む音ですら僕からしたら銃声の様な爆音だ。
心臓の鼓動が骨をも砕きそうになったけれど、次第に僕は離れとの距離を詰めていて、辺りに人がいないことを確認出来た時には天国に辿り着けたみたいな安堵が刹那的に訪れた。勿論待ち受けているのは怪物を閉じ込めた檻。夜に佇む離れを見た頃には安堵は一瞬にして吹き飛んで、今度は湿ったい嫌な恐怖が纏わりつく。
日中のように離れから声がすることは無かった。
彼も寝ているのだろうか。
土まみれの足で中庭の陸橋へよじ登って、離れの正面玄関へ。痕跡を残さないように散らばった土を掌で払って、僕は戸の鍵穴に鍵を挿す。
恐怖を突破する第一関門はこの鍵を捻ること。
嫌な汗が額を伝って、僕はごくりと唾を飲む。
意味も無いのに呼吸を止めて、『ガチャリ』という音も立たないほどのスローモーションで僕は鍵を開けた。
第二関門はこの戸を開けること。
バイブレーションのように震える自分の手を眺めながら僕は戸に手をかけて引く。
悪臭が混じった生々しい暗黒が現れて、僕は携帯の豆粒みたいなライトを付けて離れの中を照らす。
闇に浮かぶ丸い光、深海の微生物みたいに光の射線を横切る埃。ゾンビゲームの主観映像みたいな光景がより恐怖を際立たせる。
第三関門は闇に踏み入ること。
心臓が口から飛び出てきそうなくらいに暴れて、闇に潜む者を既に知っているからこそ余計に怖いんだと気付く。
あの狂気の怪物が万が一敵意を持って襲ってきたら——と思うと……
しかし意を決して僕は闇へ飛び込む。
内部構造は知っているから光に頼りすぎず感覚で進んだ。深部に行けば行くほど「ふー、ふー」と古宮腸座の寝息らしき呼吸音が聞こえる。
そして寝息が足元の方から聴こえてきて、ライトをゆっくり、彼の顔部に光が当たらないように下げていくと胴体が現れた。膨らんだり萎んだりを繰り返している。
ここは起こさずにいこう。
僕は全身全霊をかけた忍足で彼の傍らにある箪笥へと近づき、血脈を巡る血流が感じ取れるくらいに体中の神経を研ぎ澄ませて一番下の引き出しに手を掛ける。
引いて開けると中には茶封筒が。
古色のついた渋みを漂わせ、ぽつんとただ一つ。
異様な存在感を放ち、微かに膨らんだ厚みから書類な封入されているのが分かる。
拾おうとしたけれど下が貼り付いていて結局爪で剥がすように取った。その時だった——ゾォォォォォォと背後を撫でる気配。それに足元から聞こえていた呼吸音が今は後頭部から聞こえる。
腸座が目覚めた?
いや、彼がもし起きたのならば奇声を上げるだろう。立ち上がって無言で気配を放つなんて芸当はできないはずだ。
なら背後にいるのは一体……
背筋に氷を当てられたみたいに身震いが起きて、僕の歯がガクガク鳴っている。
そして湿った声が鼓膜を震わす。
「……ぬいた」
掠れた男の声。
「……ぬいたな」
飢えた獣が言語を取得した様な不気味な囁きに恐怖が増殖する。
とうとう恐怖が突き出して僕は駆け出してしまった。
一目散に逃げて、右手に持った携帯のライトが縦横無尽に闇を往復する。
そして離れを飛び出して戸で塞いだ。
鍵をかけて、呼吸を整える。熱くなったエンジンを冷ますように。一先ずは脱出した安心感で恐怖を塗り替えた。
闇の中の声——聞き覚えのある声だった。
焦って判断能力が欠如して取り乱してしまったけれど、冷静に声を思い出したところあれは古宮腸座の声だった。
彼が——意思を持って僕に話しかけてきた。
そして僕は手に茶封筒を握りっぱなしだったことに気が付いた。手を開こうとしたけれど貝みたいに閉じていて中々開けれない。恐怖で金縛りにでもなってるのだろうか、開く為にそこそこの力を有した。茶封筒をポケットに入れて、行きと同様に隠密行動で客間へ戻る。
真っ先に茶封筒を開けると中には三つ折りになっている紙が。開いてみるとそれは古宮腸座が正気だった頃に記した手紙だった。
そこには“古宮肺明”について記されていた——
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