【肉体が亡い⑧】祓除
母と子。父と子では繋がりが強いのは断然母となる。母の子宮で命を宿し、臍の緒で結ばれていた子と母には科学では解明できない超自然的な繋がりがあり、故に母親を生贄に捧げなければ虚躰児を手繰り寄せることは出来ない。引っ張り上げた虚躰児を生贄の魂に縛り付けて、それごと黄泉へと送る——それが鞠緒の祓除だ。しかし村で猛威を振るう虚躰児は成長していて一つの魂だけでは振り解かれる。そこで鞠緒が考案したのは二つの魂で挟み討ちにすることだった。
*
目を瞑っても微睡みすらない、意識が散々としていて闇に点滅する光を眺める時間が続いた。
布団から顔を出すと洋風窓から黒よりは青い空が見れて朝の到来を感じさせる。
僕らは眼球の館で一泊していた。各々客室を与えられて、夜を過ごす。僕は一睡もできていなかった。蓮見夫妻は最後の夜をどう過ごしたのだろうか、僕はそんなことを気にしていると、いつのまにか眠気が一周回って妙に冴えた。瞼は重いのに眼がミントのような爽快感を覚えた。
気分転換に僕は眼球の館の裏庭に来た。夜と朝の狭間に身を置いて、澄んた空気が鼻を貫く。ここには吸い殻入れがあるから僕は煙草を取り出した。ここに来た理由は煙草を吸う為と、もう一つ細い期待を抱いていたから。
この場所は麻衣花さんたちが寝ている客室から俯瞰出来る角度で、麻衣花さんが部屋から僕を見つけてくれないか、あわよくば会いに来てくれないかと、そんなダサい期待をしていた。
麻衣花さんと過ごす時間はもう1日よりも少ない。二人で話したいけれど、自分から話に行く勇気も無い。
そんな自分を憐れみながら僕は煙草に火を付けた。
そして暫く経つと僕の期待に応えるように裏口の戸が開いた。
茶色い髪を揺らしながら可愛らしい部屋着を着た麻衣花さんが本当に現れ、期待通りに事が起きたことへの歓喜と、自分の情け無さへの自己嫌悪でぐちゃぐちゃな感情になる。
「びっくりした。麻衣花さんどうしたんですか?」
偶然を装って気持ちの悪い僕。
「部屋から葉山くんが見えて、来ちゃった」
憑き物が取れたみたいに明るい麻衣花さん。僕が好きだった頃の麻衣花さんだ。
麻衣花さんは僕の隣に並んで、距離感は近すぎもせず、遠すぎもせず、バイトをしている時に似ている。
麻衣花さんとの距離はこれが一番心地良いんだ——麻衣花さんとの関係の仕方に悩んでいた僕が辿り着いた境地。
「吸います?」
憑き物が落ちた気分になって僕は調子良く言った。
「うん」
笑顔で受け取る麻衣花さん。煙草をやめた理由を健康の為と言っていたけれど、本当だったんだ。
「人生最期の一本、なんか煙草が重たく感じるよ〜」
「反応に困りますよ。それ」
「はは、私葉山くん困らせるの好きだから。葉山君って結構顔に出るからさ、子供みたい——
麻衣花さんを一瞬黙らせる為に彼女が咥えた煙草に火を点ける。
「麻衣花さんが簡単に死のうとするから、そりゃ困ります」
「そう言ってくれる人がいるだけで嬉しい。まあでもこれ以上玲央を放ったからしには出来ないし、子の責任は親の責任だからね」
「でも、麻衣花さんが悪いとは思えないですよ。なんかこう、業を背負わせれてるようにしか」
「葉山くんは私に甘々なんだから〜。全然悪いよ私、めっちゃ悪人。それに元カレが殺されて、聖司の浮気相手の子も殺されて、聖司の家族みんなも死んで、それでも私、こんなにピンピンしてるんだもん」
「……それはきっと、麻衣花さんが突破しちゃったんですよ、苦しみのキャパみたいなのを」
「すぐ私の肩を持つ〜。いいのいいの」
半目で僕を宥める麻衣花さん。
煙草の紫煙が朝靄に溶けていく。
「でも、あんなに追い詰められた
麻衣花さんは話の内容とは裏腹に意気揚々とした語り口だった。
「なんか、こんなこと言うの失礼かもしれないんですけど、何故だか麻衣花さんが幸せそうに見えます」
思わず漏れた。身も心も軽くなったように顔を綻ばせる麻衣花に僕はうっとりとしてしまった。
麻衣花さんは長く煙を吸って、先端の火を強く灯らせる。それから深呼吸のように吐いて、
「はは、なんか核心を突かれた気がする。だよね、私もさ、そう思う。……子供と一緒に死ねるって、こんなにも幸せなんだなって」
清々しい顔でそう言った。
そして、日が昇り始めた。
*
木の香りが仄かに漂い、小窓から差す微かな陽によって光が粒立っている屋根裏。僕らは眼球の館の最上階にいた。
石灰で描かれた幾何学模様の陣とその両端にそれぞれ胡座を描く蓮見聖司、正座をする麻衣花さんがいた。麻衣花さんの片目は眼帯で覆われて、麻酔がまだ効いているのか頭が少しフラフラしている。
麻衣花さんは祓除の対価として右目を鞠緒に差し出した。眼球の館の2階、喫茶店のような空間の奥にある手術室に連れて行かれた麻衣花さんは30分後に帰ってきた。部分麻酔だったらしく、意識がある中で眼球を摘出されるというのは想像するだけでも血が凍る。
幾何学模様の陣には他に赤子の像や仮面といった呪物、古びたランプやアンティークなサイフォンが複数置かれ、サイフォンでは赤い液体が沸々と蒸留されていた。これは先程注射器で採取された蓮見夫妻の血液だ。
低い天井には無数の
その下、服を捲し上げている麻衣花さんの背中に墨で字を入れている鞠緒。背中だけ捲れているから正面にいる僕は麻衣花さんの裸体を見ることはない。
あまりにもカルトチックで非日常が混在した悍ましい光景だった。
何より蓮見夫妻はこれから生贄となる。言葉を変えれば二人は死ぬ。
鞠緒は殺人者となるのに、随分と慣れた手つきで儀式の準備に勤しんでいた。
生贄となる麻衣花さんを見れば見るほど儚い気持ちになる。たった半年の仲だったけれど僕は彼女に憧れていた。輝いていた麻衣花さんは今ではもう弱々しい小動物。彼女を抱きしめたい気持ちが沼地の泡みたいに沸くけれど、それは愚かな感情だし、その資格は僕に無い。
想いは届くこともなく、
「準備は整いました」
鞠緒の一声で空気が張り詰めて、蓮見聖司はスゥっと鼻で息を吸って顔を上げた。麻衣花さんは目を閉じて覚悟を決める。眼帯姿が痛々しい。
「それでは始めます」
鞠緒の合図。
僕は儀式が一望出来る陣の手前で全てを見守る。
鞠緒が手印を組むと突然血液を蒸留していたサイフォンが激しく揺れ始め、ランプたちが点滅を繰り返した。何か人智を変える力が働いている。そう思ったのも束の間、バタンと吊り人形の糸が切れたみたいに麻衣花さんが顔面から倒れる。
刹那——パッとブレーカーが落ちたみたいに屋根裏が真っ暗になり、点滅するランプが鞠緒を幽玄に浮かび上がらせた。無重力の中みたいにふわっと膨れる鞠緒の髪。闇に浮かぶ彼女の姿は
今はまだ午前中なのに夜よりも暗い闇が場を支配する。
「我々は狭間に参りました」
鞠緒の声。『狭間』とは何を意味するのか。
「それでは彼を引きずりこみましょう」
サァァァァっと無数の紙垂が風に揺れる。
秋風がススキを撫でるような、そんな音だった。
次第に一枚一枚の先端に火が灯り、灰を上げながら焼け落ちていく。伝染するように燃え広がって半分以上の紙垂が消え去さる。
訪れたのは嵐の前の静かさ——そして、
パリン!っと屋根裏の窓が割れ、熱気と共に火の粉が吹き荒れた。炎の竜巻に飲み込まれたみたいな混沌が渦巻く。
鞠緒繭は手印を組むのを止めず、佇む。蓮見聖司は荒れる金髪に顔を顰めながら四方八方を視線で往復し、麻衣花さんは依然動かない。——まさか既に死んでる……?
火の粉の中に揺らめく人影が現れ、それが虚躰児なのは一目瞭然だった。彼は鞠緒を見つけるな否や彼女目掛けて飛び込むが、直前で鞠緒は踊るように
「な……そういうことですか」
何かに気づいてどよめく鞠緒。しかし儀式を中断することは無い。
印字を両手で組み直し、薄紅い唇を震わす——
「
鞠緒が
——パァン!っとサイフォンが銃で撃たれたみたいに爆発してガラス片と血液が炸裂。部屋いっぱいに血液が四散した。その刹那、部屋は午前に戻り、火の粉も虚躰児の影も消え去り、皆々返り血を浴びた凄惨な姿になる。
訪れる玉響な静寂。
戯れる3匹の鳥の声だけが小窓から聴こえた。
鞠緒繭は手印を解き、僕は顔を覆った腕を降ろした。
蓮見聖司は膝を立てて屈んだ状態からゆっくりと立ち上がった。キョロキョロとして落ち着かない様子だ。
「祓除は完了です」
鞠緒が告げる。蓮見聖司は狐につままれたみたいに呆然として、事態を整理しきれないまま「あれ、俺は?」と人差し指を自身に向けて鞠緒に訊いた。僕も同じ質問を鞠緒に投げかけたい。蓮見聖司は何故生きている?
「祓除の途中で気づきました。陣には魂が三つありました」
麻衣花さんの——亡骸の傍らで立ち尽くす蓮見聖司。彼は何かを悟ったのかその場で「ああああああ」と溢し崩れ落ちた。僕はまだ理解出来ていない。何に気づいた? 蓮見聖司は。
「本当に誕生したばかりの命だと思いますよ。それでも魂は魂。なので私は母体である蓮見麻衣花とそのお腹の子の魂を使って祓除を行いました」
麻衣花さんは妊娠していた……?
そうか、麻衣花さんが唐突に煙草をやめたのは妊娠の自覚があったから……
「納得がいきました。何故、虚躰児が暴挙に出たのか。かつて子を望まなかった父と母が今度は子を望んで愛し合った。そして宿した——肉体を持つ正常な子を。それは彼にとってあまりにも……悲劇だったのでしょう」
蓮見聖司は鞠緒の言葉を浴びながら激しく泣いた。それは赤子のように大きく口を開けて、喚くように泣いていた。
彼は残された。全てを失っても尚。
「蓮見聖司、魂とは同等なのです。それは腹の中の胎児も同じ」
鞠緒の言葉は十字架となり蓮見聖司にのし掛かる。
そして怪物を作った男は暫く泣き続けた。
世界に轟くくらいに大きな声で。
その隅で僕もまた涙が頬を伝った。
麻衣花さんは倒れた直後から形を変えない。虚しさと悲壮を滲ませながら、その亡骸は床に横たわっていた。
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