【肉体が亡い⑦】悪魔

 ●●村でそれは立て続けに起きた。


 月の無い曇りの闇夜、田園の畦道を歩いていた浅岡剛(25)は背後から人の気配を感じ、振り向いた時には刃が顔面に到達していた。三日月を描くように切り裂かれた顔。右目を失い、口と頬がぱっくりと繋がってしまった。浅岡は『包丁が宙に浮いていた』と話しており、浅岡の身長が167cmであることから、これだけの深い切り傷を付けることが出来るのは身長160cm以上の者だと断定される。




* 



 古宮団地の2号棟で転落事故が起きた。木曜日の夕暮れ、橋田翼くん(8)は友達らと団地で鬼ごっこをしている途中、最上階の7階フロアから転落し即死。一緒に遊んでいた子どもの一人は『玲央くんが翼くんを落とした』と話している。児童を抱き抱えて落とすことが出来るのは中高生〜成人だとして捜査は進められているが犯人の痕跡が一切見つからないこと、古宮団地で起きたことから村の人らは『御殿様の御業だ』と噂している。






 ●●村東部、木造2階建の中山アパートが全焼。104号室以外の住民は生還したが104号室に住む夫(56)と妻(51)、長女(23)の3名が焼死。出火元は空き部屋である102号室。何故2部屋も先の104号室に住む一家が全滅したのか不可解であったが、後の調査で火災が起きる直前、104号室の玄関は外側からドアストッパーで止められ、窓には鉄板が貼られていたことが判明。完全に脱出経路が塞がれた104号はオーブントースター状態だったと云う。焼死体からは舌を噛み切ろうとした形跡があり焼死の苦しさを物語っていた。


 現場からは灯油を撒いた形跡が見つかった為、放火事件として捜査が進んでいる。









 それは僕がバイトから帰って22時半くらいの頃、シャワーを浴びようとシャツに手を掛けた時にジーンズのポケットに入れた携帯が震えた。取り出して画面を見ると【非通知】の表示。普段なら出るのは躊躇うけれど、僕は掛けてきたのが誰だか察しがついていた。


「はい」

「鞠緒です」


 電話越しでも分かる透き通った声。生気の無い冷たい音。


「葉山さん、今すぐそこからことをおすすめします」

「え」

「先程、蓮見夫妻を館に招き入れてお話を伺ったのですが、村で起きている一連の事件、葉山さんも対象者の可能性が出てきました」

「……僕が?」

「端的に話しますが、先日田園で顔を切り裂かれたのは蓮見麻衣花が高校時代に交際していた男性ということが分かりました。それに古宮団地の転落事故で亡くなった翼くん、あの子は蓮見聖司と近々で肉体関係があった橋田真理愛の息子。そして昨日の火事、あれは蓮見聖司の実家です」


 戦慄が体を貫いた。

 しかも焼死したのは蓮見聖司の両親と妹……

 鞠緒繭は淡々と続ける。


「村では蓮見夫婦と縁のある者が次々と殺されています。彼の殺戮には条件があるみたいで、恐らくは——“父母の仲を脅かす者とその近親者”。今、蓮見夫妻の車でそちらに向かってますので、逃げて凌いでください」


 情報が洪水のように押し寄せて、糸が絡み合うように理解が追いつかない。危険な状況と言われても、何がどう危険なのか、パニックで分からない。言葉の端々から摘んで理解出来たのは——玲央くんが僕を殺そうとしている……?


 ゾッとして外へ行く支度を始めた時、風が部屋に吹いた。窓も雨戸も開いていないのに。蛍光灯が不規則に点滅し始め、淀んだ湿り気が体に纏わりついて、真っ青になった僕の皮膚に鳥肌が巡る。机に置いた財布を手に取る寸前で僕は停止していた。


 電話からは


「——は18歳——成長——の——知恵もあり——す——玄関——鍵——けて——入るこ——容易い——」


 唐突にノイズが混じって聞き取りづらくなった電話越しの鞠緒繭の声。最後に『——化け物』という単語を残して電話は途切れた。


 玄関に背を向けていた僕は嫌な予感がして振り返ると、キーコ、キーコと音を立てながら閉めたはずの玄関が一人でに開いていて、隙間から外が見える。


 僕はこの時、毎晩窓から覗いていた玲央くんが何の為にそこに居たのか察しがついた。……あれは僕を殺そうと伺っていたのか。


 首筋の産毛を撫でる気配。

 薄気味悪い風は音色となって、


 「ほーう……ほーう……」


 粘っこい重低音の声が鼓膜を震わせて、声がする方を首だけ曲げて怒る恐る向いてみると——


 鋭利な刃先が宙に浮いて、蛍光灯の点滅の度に僕の目へ一直線。


「ぅお!」


 僕は翻って反射的に部屋を飛び出した。


 怪奇はこれだけではない。

 目に飛び込んできた廊下の景色は砂金を宙にばら撒いたような奇妙な光景で、熱を帯びた粒子のようなものがサァァァァァと隅から隅へ虫のように散りばめられていく。それはまさに命を宿した火の粉。刹那、目の前が瞬く間に炎に包まれてた。揺らめく火の中で人の影を模った空間がゆらりゆらりと、それは僕と同じくらいの背丈で、ますます近づいてくる。


 這い寄る熱と人影に腰を抜かしそうになるが、なんとか耐えて僕は無我夢中に駆ける。エレベーターは間に合わない。辛うじて炎と炎に隙間があった階段を選んだ。けれど遮るように透明な人影が立ちはだかる。


「ほーう……ほーう……」


 緋色の世界に浮かぶ包丁。殺意が込められた凶器は小刻みに震えて、僕を狙う。背後は既に火が回って退路を塞がれた。


 死ぬ。


 恐怖で目をつむることも出来ないその時、階段へと通じるコンクリートの枠の中で、羽ばたく黒い布が陽炎に溶けた。タン、タン、タン、とコンクリートを叩く革靴の冷たい音。黒基調のドレスを着た少女は火炎に揺らめき魔女の如し。包丁を持った虚躰児はその刃先の狙いを背後の鞠緒繭へと変えて、二人は対峙する。


 鞠緒繭の眼はあの時見た七宝模様へと変化して、妖しい睨みが虚躰児を刺す。包丁は火の粉を纏いながら鞠緒繭目掛けて飛んでいくが、彼女はその眼で何を視たのか——


「貴方……その呪い、誰にかけられたの?」


 純粋無垢で飾り気の無い質問が虚躰児の動きを瞬間冷凍みたく止めた。刃先は彼女の首元に到達する寸前だった。鞠緒繭はそれに対して動じることはなく、むしろ視て導き出した推察に戸惑い、目があっちこっちに泳いでいた。


「蓮見夫妻の他に……」


 鞠緒繭から発せられる言葉に飛び上がり、弾けた火の粉と解き放たれた包丁。蒸気機関みたいな音と共に火は死んで、引火した紙屑や落ち葉だけがパチパチと虚しく燃えている。炎の中の人影は泡沫の夢のように消えた。


 尻尾を巻いて逃げたのだろうか。


 緊張の糸が切れて僕は壁にもたれたが、騒ぎを気にした団地の住民たちが海中の貝みたいに次々と玄関から顔を出して、僕らは退散を余儀なくされた。


「さすがに死ぬかと思ったよ。ありがとう。君と会えて、その……本当に良かった」


 九死一生を得た僕は恐怖から解放されて、安堵が頂点に達してか鞠緒に吐露した。


「ふふ、私、天使に見えます?」


 悪戯に笑って、振り返る鞠緒。白く整った横顔に浮かぶ黒子は魔性だ。僕の心を乱す。


 鞠緒は微量の火の粉と戯れながら、女の子が新しい服をお披露目するみたいに両腕を広げた。


「私は悪魔ですよ。これからもさらに、貴方にとっては」


 黒基調のドレスが際立った。

 彼女の言葉は僕をくすぐり、その言葉の真意を知りたい気にさせた。

 鞠緒は「ふふ」と冷たく笑って再び背を向け歩き出す。


 階段を少し下った踊り場には蓮見夫妻もいて、生気のないげっそりとした顔をしていた。バイト先で会っていた頃の麻衣花さんとは思えない血の気の無い容姿。蓮見聖司もこの前会った時に比べると牙を抜かれた狼で、むしろ老犬のようにくたびれていた。鞠緒は館に二人を招いたと言っていたが、一体何を話した?


 葬式みたいな空気の中、僕は203号室、蓮見家の自宅へと案内された。麻衣花さんの家に上がるのはこれが初めてだ。

 トイレットペーパーなどの日用品が積んであったり、畳んだ服が床に置いてあったり。麻衣花さんや蓮見聖司は慣れた感じでそれらを跨いで行く。生活感溢れる部屋の奥、台所の手前のダイニングテーブルに僕らは掛けた。4人掛けで僕と鞠緒が蓮見夫妻と対面する形。


 重力がいつにも増しているように、蓮見夫妻は俯いて萎れている。家庭の景色に紛れた鞠緒は似合わず異端だ。冷たい笑みを浮かべて隣の僕に話す。


「蓮見夫妻は同意されました。虚躰児の祓除に」


 僕は心の中で胸を撫で下ろしてしまった。麻衣花さんが片眼を差し出すというのに。


「祓除の儀式は明朝、眼球の館にて行います。葉山さんもお立ち合いになります? ……蓮見夫妻と最期のお別れになりますので」


 僕はその時、耳を疑った。冷淡に紡がれた言葉の中に異物が混じっている。


「え、最期のお別れって」

「祓除には生贄を有します。お二人はその生贄となり、魂を消費して虚躰児を祓うのです」


 悪徳な詐欺に引っ掛かった気持ちになって僕は吃る。


「は、いや、え……眼球差し出すのが条件じゃないの?」

「ええ。眼球は頂きます。この前葉山さんと話した通り、人は死んだ後のカタチをこだわる生き物ですから、私は死体から眼球は頂きません。あくまで生前の契約の元、眼球を頂きます」

「ちょっとさ、そういう話じゃなくて……命を差し出すなんてあまりにも……」


 僕が思い浮かぶのはエクソシストの悪魔祓いだとか、心霊番組の霊媒師のお祓いだとかそういうので、人を殺してまで怪異を祓うなんてのはあまりにも狂気が過ぎてる。


 しかし鞠緒繭は堂々と確固たる自信を声に含んで言う。


「かつて人は災いを避ける為に人柱を多く捧げてきました。怪異から身を守るとはそういうことです。今回はたった2つの魂でこれ以上の被害を食い止ることが出来るのです。お安いでしょう」


 鞠緒繭—— 彼女には人の心が無い。だからこそ祓除に適している。それはある意味ではプロフェッショナルの証。麻衣花さんはむしろこの言葉を聞いて安心したのか、不安の表情が引いた。


 僕はそんな麻衣花さんを見てこれ以上何かを言うのはやめた。

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