【殺す木⑪】初夜
前泊の日が来た。
出勤の為に門を潜り、幽玄に光る灯篭が幻想的な程に並ぶ庭園を経由して屋敷へ。
この広い武家屋敷では古宮家の人に出会すことは珍しく、今日とて僕は羽賀さんとしか会わなかった。前と同様に夕食を客間に運んで食事を摂り、決められた時間に使用人用の風呂に入って、後は朝を待つ——はずだった。
2匹の蛾が蛍光灯に集って、暇潰しにその様を眺めていると廊下から襖をノックする音がした。
てっきり僕は羽賀さんが訪ねたのかと思って「はい」と返事をし、寝転がってる体勢から胡座に切り替えた。
しかし、不意によぎる『もしかしたら膵華かもしれない』という思考。
膵華を怒らせた以降彼女に会ってない僕は急に心臓が強張って身構える。
襖がサッと開いて、そこに居たのは……
「り、理胆さん……?」
和装の麗人が鉄のような表情で立っていた。
体が震え上がり、胡座から正座に切り替えるタイミングを失った。お陰で中途半端な片膝座りになる僕。無礼過ぎる。
理胆さんは冷徹を目に宿して、
「来なさい」
強い口調で告げた。
心臓を握られたような感覚と嫌な汗が全身に滲む。従うしかない僕は「はい」と声を震わせて、もはや鷹に捕らえられた獲物、身を委ねるしかない。
幽寂な長い廊下、理胆さんの後ろ姿に着いていきながら僕の頭の中では後悔が渦巻いていた——鞠緒の言う通りにここに来るべきでは無かった。
絶望の淵にいながら僕は屋敷の端の方まで来た。確かこの辺りは古宮家の人らの自室がある場所。僕みたいな末端の使用人には禁域も同然だ。
理胆さんはある襖の前で立ち止まり、マネキンのように真っ直ぐな背筋で半回転。着物の袖から白い手を伸ばして障子の襖に手を掛けると流動的に開けて、CAが席を案内するみたいな手つきで僕を招く。
「今夜は此処で寝なさい」
僕は言葉を失って瞬きだけが反応していた。
なんで、何故、何の為に——しかし理胆さんが放つ気迫に押されて質問出来ない。
僕は「わ、わかりました」と返事をして、囚人のように部屋に収まるしかなかった。
背後で襖がバシっと閉められ、常夜灯だけが着いた薄黄色い広間に閉じ込められた僕。部屋の中央には2枚の布団がぴったりと並んで、目を凝らすとそこには先客がいた。
布団に半身だけを突っ込んで座っている少女の影。
「……膵華?」
僕の問いに「よ」と単調な声が返ってくる。
「ご、ごめん、なんか部屋間違えてるみたい」
「大丈夫、合ってるから」
そう言って隣の布団をとんとんと叩く膵華。
「さすがにそれはダメでしょ」
一向に進まない僕に膵華は淡々と、
「ここから出たら理胆叔母さんに殺されるよ」
言葉で僕を封じた。
そして棒立ちでいる僕に見かねた膵華は布団から抜け出して立ち上がったけれど僕は思わず目を背けてしまった。そうせざるを得ない事態になった。
「どうしたんだよその格好……」
性的な興奮なんか湧かなくて、僕はただこの状況に対する不気味さに恐れ慄く。
膵華は目を泳がせて顔を俯きながら僕に近寄ると僕の左腕の袖を引っ張った。
「……やだ?」
目は合わさずに恥ずかしげに言う膵華。
その二文字で僕は何を求められているか察する。
「さすがにそれは、よくないよ色々と……」
「自分で言うのもアレだけど、それなりに練習もしたし、その……見た目が気に入らないならごめんだけど……」
「見た目とかじゃなくてさ、ほら、僕ら付き合ってる訳でもないし、膵華だってお家の決まり事で無理矢理やらされてるんでしょ? ダメだよこんなの」
「古宮家の為ならいいの。それにあんたなら私良い」
「それは何と言うか……きっと洗脳されてるんだよ、この家に」
「ううん、相手は誰でもいいって訳じゃない。選ぶ権利は誰にも邪魔されない。そういう決まりになってるから。だからあんたを選んだのは理胆おばさんでもはがばあでもない、私だよ」
中学3年生の女の子からこんな言葉が紡がれていることに僕は吐き気すら覚えた。まさにこれは次期当主を産む為に理胆さんが仕掛けた“施策”じゃないか。膵華のこの格好だって僕を興奮させる為に理胆さんが着させたんだろう。
すり寄る膵華に僕は抵抗して彼女の両肩を掴んで止める。返ってそれがキスをする寸前みたいな体勢になって、ハッとなった僕は彼女から手を離した。それが僕の意思の表れにもなって膵華は溜息をついて遂に諦めてくれた。
「はぁ……なんか馬鹿らしくなってきた」
「そう思ってくれた方が健全だよ」
「健全とか先生みたいなこと言う」
「年齢差でいったらそのくらい離れてるんだよ僕ら。20代前半の先生だっているでしょ」
「うーん……そうだけど……」
そう言って口を尖らせる膵華。
「だからその、この部屋から出るのはマズいみたいだから、今夜はここで寝かせてもらえればと思うけど……普通に寝よう」
膵華は口を結んで一回頷き、納得した。
「わかった。うん。でも、その前にちょっと向こうで話さない?」
縁側の方を指す膵華。
「え、まあいいけど」
膵華は障子の襖を豪快に開けて全身に月光を浴びた。
それから縁側に腰をかけ、僕も倣って彼女の隣に腰を下ろす。中庭の夜風に体を委ねて月光に晒された。ベールの様な薄い雲にかかった満月が高い所で冴えた光を放っている。
月明かりの下、膵華は縁側で膝を立てて、光が貫通してしまうくらいに透明感があり、けれど体勢が際どいものだから僕は彼女を直視出来ない。
膵華は僕の耳元に口を寄せて聞こえるか聞こないかのギリギリな声で、
「ここなら聞かれないから」
と、意味深なことを言った。
「え?」
「理胆叔母さんはこの屋敷中に盗聴器を仕掛けてる。雑音を拾っちゃうようなこういう外には仕掛けないけど」
「マジで……?」
「この前は急に怒ってごめん。アレは肺明伯父さんのことをあんたが急に言い出すから、さすがにヤバいと思って私もキレた——というポーズをしたの」
「じゃあ羽賀さんは」
「はがばあには私が拷問したテイにして、包帯巻いてもらったよ」
「はぁ……よかった……」
「でも、まるでここは理胆さんのカラクリ屋敷だねあ
「理胆叔母さんは誰よりも“古宮”のことを思ってて、思想の為に色々やってる」
「統率しようとしてるのか……でもさ、そんな理胆さんがいるのに羽賀さんは何でうっかり僕に肺明さんのことを言ったんだろう。あの人も結構冴えてるはずなのに」
「それは私も分からない」
「そっか」
「うん。でもなぁぁー」
膵華は吐き捨てるように声を放ち、大の字になって縁側に倒れる。大胆で男勝りな素振りに格好の色っぽさとギャップが生まれていた。
「なーんか私の知らんところで、何か別の思惑が動き出しているのは感じるよ。はがばあはその歯車になってるような、そんな風に思える。大きな影がこの家にはあって、そんな中で私はすごく小っぽけだから、何も分からない」
「そうかな、僕から見たら膵華も大きいよ」
「私は——」
膵華は嘲笑うような乾いた笑いをして、
「私こそ古宮の歯車……というか機械だよ。当主を産む為の」
自虐して哀しい笑顔を浮かべた。
「機械である必要なんて無いよ。逃げる権利だってあるんだから、それこそ東京に逃げちゃえば」
「あんたは若いなぁ。そんな無責任なこと言えちゃうんだもん」
古宮家にいる時点で人生経験は僕より豊富だろう、『若い』と言われてもなんだか腑に落ちる。
「でもさ、無理矢理望まない子を産んで、その先に待ってるものって僕は
「なんか心当たりでもありそうな言い方」
「まあ、深掘りはやめて」
「ははは、わかりやすいね、あんた」
膵華は縁側の木板を叩いて笑った。けれど刹那に顔がマジになって寝室の方を見る。音を立てすぎて焦ったみたいだ。
そんな様子が可笑しくて僕はつい笑みが溢れた。それから空気がほぐれてうっとりしてきた。夜天の月が中庭の花ひとつひとつに仄かな冷たい明かりを灯して、この時間が愛おしくなってくる。膵華はなんというか——この村で初めて出来た“友達”、そんな風に思えた。
「膵華はさ、これからどうしたいの? 本当は」
大の字からひょいと起き上がって暫し時間を置いた後、はにかみながらこう答える。
「正直……あんたの言う通り、逃げたいかも」
月の少女の願い。泡沫の本音。
「それ、どうなれば叶えられると思うの?」
夜風が膵華の背後から、言葉の背を押す。
「古宮のみんなが死んだら、かな」
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