【殺す木②】膵華

 開けっ放しの窓から冷んやりとした風が流れ込んできて窓を閉めに行く一連の流れを終えた後に僕は秋の訪れを感じた。


 PC画面のオカルトサイトからは例の【餓死動画.mp4】は削除されていて、それがポリシー違反による強制的な削除なのか管理人による故意の削除なのかは分からない。オカルト系掲示板でもこの話題はすっかり風化していて、そもそも『フェイクだ』という声が大きかったことからオカルト界隈でトレンドになることも無かった。


 唯一現実リアルで話を共有できる鞠緒もこの動画については一切言及することは無くなって、(そもそも鞠緒とは虚躰児の一件以降会ってもいないが)僕も僕であれは夢現に見た幻覚なのではないかという気すらしてきた。だからといって、古宮団地の4号棟に対する疑念と畏怖は消え去ることなく心の底で沈殿している。


 僕はオカルトサイトのバツ印をクリックしてバイトの求人サイトに戻した。あれからというものセブンにいると麻衣花さんの名前が付き纏い、とてもじゃないがあの店に留まるのは精神的に厳しかった。今は大学近辺の日雇いイベント設営バイトで食い繋いでいるけれど、冬休みに備えて隣町で新しいバイトを始めたい。


「一番良いのは村でバイトなんだけどなぁ〜」


 僕はそう溢して窓から村を俯瞰した。夕暮れの下、田舎の風景に余計に溜息が出る。


 とりあえず夕飯でも作ろうと椅子から離れて冷蔵庫の扉を開いたらこれまた殺風景に溜息が出る。


「しまった〜」


 昨日学校帰りにスーパーへ寄ることを忘れていた。僕は渋々外に出て秋風にあたりながら自転車を漕いだ。


 村にある品揃いが偏っている店で食材を買って、夕闇が夜の暗さになった頃に無視しようにもし切れないある光景が飛び込んできた。


 それは古宮団地に続く山道の手前にあるシャッターの閉じたタバコ屋の、その傍らで騒ぐ二人の影。大きい影と細くて小さな影がなにやら揉み合っているような。自転車を漕ぐのを緩めて、流れゆく視界のスピードを遅くしてみる。人影が電柱の防犯灯に晒された時にそれが男と中学生くらいの少女だということが分かった。男が少女の胸部目掛けて拳を何度も何度も叩きつけている—— 様に最初は見えたけれど拳の向きが何か変だ。あれは何かを握ってるような構え。


 意識して男の拳を見てみると彼は手にナイフを持っているじゃないか。


 「おいおいおいおい」


 僕は足をペダルからアスファルトに置いて停止。ただその一方的な暴虐にどう対処すればいいのか分からない。ポケットの携帯に手を掛けたけれど、今電話したとして警察がスーパーマンの如くマッハで飛んでくる訳でもない。


 どうする——


 そう思った時には既に体が勝手にペダルを漕いで、自転車を男に向けて一直線に走らせていた。この場で一番武器になるのが自分と自転車の質量くらいしか無いことを本能は気付いていた。自転車とそれに跨る僕を発見した男は驚愕の顔で僕と目が合い、壁にぶつかったみたいな衝撃を僕は食らった。それは男も同じだ。自転車は男を轢いて、僕も自転車から投げ出されてアスファルトを転がる。手放されたナイフがカンカンとアスファルトを跳ねた。


 男はすぐさま立ち上がったが、ナイフを拾い上げることもなく一心不乱に逃げていった。彼を追う気は無く、むしろ蹲っている少女に僕は駆け寄った。


「大丈夫君!?」


 滅多刺しにされていた少女は顔を上げ、その顔は苦渋が滲んでいた。上半部を見る時、血塗れの姿を想像して目を萎めたけれど、それに反して出血してる様子は無い。


「あれ」


 念の為救急車とパトカーを両方呼ぼうと携帯を取り出した時、少女は掌を向けて僕を制止させた。


「いい」


 少女は立ち上がり、灰色のパーカーと黒の短パンのラフな全貌を見せる。鞠緒と同じ様な黒髪ロングだけれど鞠緒とは違って所々毛が跳ねている。その無邪気な髪には若さを感じ、顔も幼さがだいぶ残っていた。


 少女は徐にパーカーのチャックを下ろして、下着が露わになると思った僕は「なん!?」と存在しない言語を発して目を逸らすが、少女は呆れた声で「いや、これ」と僕に言った。視線を戻すと黒い板のようなベストが少女の胸部を覆っている。細長い縦の凹みが幾つもあって、男のナイフに付けられた跡だろう。


「防弾チョッキ……?」


 テレビで観た知識だけがその言葉を紡ぐ。


「そう。大丈夫だから、救急車も警察も呼ばないで。お願い」


 暴漢に襲われていたとは思えない発言に僕は面食らう。少女の本気で嫌そうな表情にさすがの僕も通報という社会の義務を果たせない。


 立ち尽くす僕を前に少女はパーカーのファスナーを上げて「まあ一応……ありがとうございます」と已む無く頭を下げて一礼した。見た目の幼さの割には早熟した落ち着いた声。


「全然そんな。まあその……無事で良かったよ」

「うん、でも正直あんたが来なかったらヤバかった。その、本当にありがと」

「気にしないで。家まで送ろうか? あ、それか親御さん呼ぶよ」

「本当に大丈夫。お気持ちだけ頂いとく」


 これ以上深入りしても彼女に迷惑を掛けるか。

 今日のことは無かったことにするくらいの心意気で僕は彼女に別れを告げた。 


 乱暴に倒れていた自転車を起き上げてサドルに跨ったその時、少女の「ちょっと……!」という声にまたもや制止させられる。振り返ると少女はパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま「あのさ……」と照れくさそうに近づいてきた。


「あんた、仕事とか探してない?」

「仕事?」

「うん。ウチの使用人とか」


 僕は「あー……」とあからさまに困って頭を掻く。


「大学生なんだよねぇ……」

「ならバイトでもいいよ。ウチ、マジで人手不足だから。ちょうど、あんたくらいの若いのが欲しかったの」


 若いのは君だろ—— とは言えなかった。

 少女は凛々しさとあどけなさが混合した、背伸びした感じで言葉を続ける。


「どう? 古宮家の使用人」


 彗星の如く現れたその単語は脳天に直撃して、思わず僕は「こ、古宮家ぇ!?」と特に“け”のところは裏返って、なんとも情けない声を漏らした。



 僕はこの後、少女——古宮膵華こみやすいかの求人に乗ることになる。ただえさえ貧乏暮らしだった僕に彼女が提示した条件は目に輝きが戻るくらいに魅力的で、大学を辞めて本業にしたら普通のサラリーマン以上に稼げそうな内容だった。けれど“古宮家”というこの村随一の曰く付き一家に勤めるというのは恐怖を覚えるし、何よりかつて古宮家の使用人をしていた蓮見聖司の父、蓮見耕梅の名が脳裏に過ぎって嫌悪感も沸く。


 色々な感情が絡み合って返答に迷ったけれど、僕は古宮家で働くことにした。それは金の為か、はたまた好奇心か。……そのどちらでもあり、もう一つ明白な理由が僕にはあった。


 そして古宮膵華が暴漢に襲われていた理由——これこそ今回の怪異事件において重大なプロローグ となる。

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