【肉体が亡い③】ひとりぼっち

 麻衣花さんにすがられた。

 夏の風が夜の森を揺らして、耳触りが良い音の中で僕に急接近する麻衣花さん。僕は欲望に突き動かされて、麻衣花さんに触れたくなる。


 麻衣花さんは眼球の館に行きたい理由を詳しくは言わなかった。でも彼女の壊れてしまいそうな笑顔から察せるものがあった——麻衣花さんこそ御殿様の御業に晒されている張本人なんじゃないか。

 それは神威を謳う村の陰謀なのか、或いは麻衣花さんが精神的な病を患ってしまったのか。

 

 なにより弱々しく見える彼女を僕は救たくて、眼球の館とやらに一緒に赴いて、それが麻衣花さんの助けになるなら僕は良いと思った。彼女を守りたい気持ちが溢れて止まらない。


 先輩で、師匠で、お姉さんで——高嶺に居た麻衣花さんが今は近いところに感じる。

 ——堕ちた人には優しく振る舞える僕の嫌な性格が出てきて、いつもなら自己嫌悪の海に溶けるところだ。けれど今はその嫌な性格すらも起爆剤にして、この勢いに乗りたい。


 体が温もりを交換し合うくらいに急接近したその時だった——大勢の悲鳴が夏の音色を切り裂いた。


 神社の表が激しく騒々しい。僕らのいる縁側に火の粉が飛翔して、殿舎を挟んだ後ろで何か唯ならぬことが起きている。緊張の糸が全身を突っ張って、僕らは縁側から腰を上げた。その時、僕と麻衣花さんの手と手は繋がっていて、我に帰った僕らは刹那の沈黙の後、互いに手を解いた。


 急いで殿舎を半周すると既に火の頭が垣間見えた。境内の砂利を踏み付けながら屋台が立ち並ぶ境内へ。


「あっつ!」


火照る熱さと共に目に飛び込んできたのは燃え上がる屋台。青いビニールの屋根が化学的な臭いを放ちながら赤と黄色に揺らめいていた。

 屋台用のコンロが暴発したのかと思ったけれど、火災になっているのは金魚掬い。店主は既に逃げたようだけど、火と屋根の残骸が水槽に降り注いでいた。きっと金魚たちはもう——


 野次馬から断続的に聞こえる「また小火ぼやか」「まただよ」「これで何件目だよ」という呆れた声。それもそのはず、この村では連続的に小火が発生していた。

 民家のごみ収集場、バス停のベンチ、学校の百葉箱、グラウンドのゴール、役場にある人形、取り替えしのつかない物は燃えてないけれど、ここ1ヶ月で火の気配が村を蝕んでいる。駐在も頭を抱えて、隣町の●●署も動いているって聞いた。


 境内で燃え上がる火は一見正月のお火焚きにも見えた。紺とオレンジの制服を着た消防団の人たちが到着して、早速ホースを担いで消火準備に勤しむ。仕切りの人が野次馬たちを遠ざけて、皆々安全地帯から火を眺めていた。


 その傍らで野次馬に紛れた幼稚園年長くらいの子どもたちが5人くらいの輪を作り、僕らの方に視線をやりながら仲間内で話している。子どもというのはあからさまで、果ては麻衣花さんのことを指差し始めた。いよいよスルー出来ない騒つき方をしている。


 麻衣花さんは朗らかな笑顔で子どもたちの方へ歩み寄って屈んで目線を合わせた。


「お姉さんの顔になんか付いてるかなー?」


 子どもたちはきょとんとして、麻衣花さんが入って来たら冷たい表情をした。子どもたちと麻衣花さんで明白な温度差がある。


「ねえ、なんでおこらないのーー!」

「れおくんのママ、またれおくんがつけちゃった!」

「れおくんわるいこ!」

「あっちいっちゃったよー」

「れおくんまたもやすよー!」


 まとまりの無い一方的な言葉の嵐が麻衣花さんに吹き荒れる。誰かと間違えられてる? 

 しかし麻衣花さんは「れおが……」とポツンと呟いた。子どもたちの言い分と噛み合っている麻衣花さんを見て僕の頭の中は暗闇が広がふ。


 騒めきに吸い寄せられるように親も集まってきて、ちょっとした園の行事みたいな光景が形成された。親たちは子どもの証言めいたものを各々聞いている。


「れおくん? 誰れおくんって。……相川さん、そんな子いましたっけ?」

「いやあ。まず幼稚園にはいないですよね」

「そもそもあんまり聞かない名前ですよね、“れお”」


 子どもたちの世迷言に翻弄される親たち。その親子の一団の中でバツが悪そうに立ち尽くす麻衣花さん。揺らめく火の逆光で彼女は黒く淀んでいる。


 ……麻衣花さん、何か心当たりがあるのか?


 先程、『あっちいっちゃったよー』と言っていた女の子の前で麻衣花さんは再び屈んで、警戒の目で見る親には目もくれず「ねえもうちょっと詳しく教えて」と問いかけた。


 女の子は境内にある二つの階段のうちの北側の方を指して、他にも何かを伝えている。両手で三角形を作る様なジェスチャーをして、それから麻衣花さんは「ありがとう」と息を詰まらせながら言うと、スイッチが入ったみたいに急に駆け出した。その目はただ一点だけを見つめていた。


「麻衣花さん!?」


 出遅れて僕も彼女の背中を追い、村の中心部を抜けて、村外れの丘まで来た。


 無慈悲に煌めく夜空の下には棄てられた三角形の鉄塔が佇んで、かつては村に電気を送っていたのだろうけど、今は『ひとりぼっち塔』、『ぼっち塔』なんて渾名を付けられている廃墟の類。

 その塔の麓で丸くなった女性の背中がしくしくと蠢いて、それが麻衣花さんだと一瞬で分かった。僕も上がった息をを整えながら麻衣花さんとの距離を詰めて話し掛ける。


「はぁ……はぁ……大丈夫ですか麻衣花さん」

「葉山……くん」


 麻衣花さんは振り返って立ち上がった。腕を交差させて何かを抱き抱えてるような仕草をしていて、僕の目が正しければ麻衣花さんは虚空を抱いているが不気味なリアリティがあった。


「それ、どうしたんですか」

「葉山くんには視える?」


 僕は首を横に振って赤裸々に否定する。


「私もだよ。触れることも出来ない。でもこの子は……玲央れおはここにいる」


 ひとりぼっち塔の巨影の傍ら、対峙する麻衣花さんと僕。夏なのに冷たい風が僕らを撫でて、麻衣花さんの交差した腕からふわっと解き放たれる何か。

 サササっと草を掻き分けながら細い獣道が百足のように伸びて、僅かな火の粉を散らして僕のすぐ側を横切った。


 視えない何かが確固たる存在感を持ってそこにはいた。脳がそう判断している。


 虚気うつろげに獣道を眺めながら、靡く髪を片手で抑えて僕に視線をやる麻衣花さん。


 僕は水を握りしめたみたいに、何に遭遇したかは薄々察したけれど本質は掬いきれないでいた。

 

「ちょ……麻衣花さん、いつのまに子ども産んだんですか」


 この場において僕はどう反応すれば分からなくて、至った結論は——笑うしかなかった。無理に肩を揺らして、むしろちゃんと笑えているのだろうか、自分がどんな表情なのかも分からない。感情がグチャグチャだ。


「ね、本当、いつのまにかお母さんになってた」


 麻衣花さんはしわくちゃに泣いて、笑った。


 麻衣花さんの子どもは丘の彼方へと消えた。いつもこんな風にどこかへ去って行くのだと麻衣花さんは言う。親の温もりと愛を補給したら、また次の悪戯へ無邪気に進む肉体の亡い子ども。


 僕らはひとりぼっち塔の足元に広がるコンクリートの土台に腰を下ろした。麻衣花さんとの距離は自然と開いている。


 麻衣花さんは体育座りで前後に揺れながら、夜に溶ける黒を見つめて、その経緯を話し始めた。


「人ってさ、普通妊娠したらお腹が大きくなるじゃん? 私の場合はそうじゃなかった。悪阻つわりが来て、暫く日にちが経っても全然大きくならなかったの。そのまま10ヶ月目に陣痛が来て、何が産まれたと思う? 何も産まれなかったんだよ。でもね、私感じたの、“子どもがいる”って。それにね、、ぎゅううううって胸から母性みたいなのが溢れてきて、なんというか……心は子と繋がってるんだよね。それから旦那と考えて“玲央”って名付けた。玲央はね、外にいたり家にいたり気紛れでさ。しかも家に出入りする時なんか2階なのに窓から入ってくるんだよ。窓を開けて欲しい時は声も出してさ、猫みたいだよね。喉も口もないから不思議な音しか出せないんだけど『ほーう……ほーう』って。」


“ほーう……ほーう”


 僕は引っかかるものがあった。


 僕の寝不足の種。部屋の窓から聴こえる『ホー、ホー』という鳩の鳴き声。なんで深夜に鳩が鳴いているんだと不思議に思っていたけれど、そういえば鳩にしては低い音だった。







 まさか……彼が窓から覗いていた?



 


 

 

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