【殺す木⑤】離れの怪物

 離れの戸を開けてまず感じたのは鼻をツンと突く尿臭だった。薄暗い和室の奥から漂う悪臭に僕は思わず顔を顰めて、手で鼻を覆ったが背後の羽賀さんが「当主の前や」と僕の行動を注意したのでやむなく僕は鼻呼吸から口呼吸に変えた。しかし、さっきから耳を塞ぎたくなるほどの奇声を発してる者を『当主』と呼んでいる古宮家には本当に不気味さを感じる。


 離れの中は八畳間くらいの一つの空間となっていて、薄暗闇の中、部屋の隅で蹲っている人影が微かに揺らめいて定期的に奇声を発していた。全体的に痩せ細っていて上半身は裸。人並み以上に長い腕は常に痙攣していた。


「なゆはそるほしてときおめよゆへひこほほほしひのよねくりやなてめめすこひろひにてほおてれわぬねへんんすしひこはほほてののめへ……ァァァァァァァァアアアアアアアアア!!! ……和歌山、シーラカンスの養蚕、糸まきまき、ガス代、寒暖差、黄金バット、花一匁、バラボラアンテナ点呼中、侍大将……ねひのふそりゆてしのなにめゆなこしよんれてこんんオオアオオオオオゴォォォォォォアアアアアア!!!!」


 人というよりは単語を発する獣。気配を悟られたら食い殺されそうだけど羽賀さん曰く「人に危害は加えんし、逃げ出そうともせん」とのこと。


 僕らの気配を察知したのか古宮腸座は蹲ってる状態から顔を上げてこちらを凝視する。戸から漏れる光を彼の眼が反射して、薄暗闇に浮かぶ光る両目は悪魔そのもの。背筋が凍る。僕はこの時、自分が使用人として雇われた理由が彼のお世話だということを思い出して絶望した。これはちょっと勤まらないかもしれない……それくらい僕の本能が彼を怖がっている。


 華奢で坊主頭、屍人のように痩せこけて顔。まるで怪物だ。

 目が合ったまま彼は再び奇声を上げた。


 羽賀さんは一切動じず、


「怖いやろうけど、じき慣れるもんで」


 慣れた手つきで洗面台から水を汲んで、バケツの上でタオルを絞ると古宮腸座の身体を拭きに行った。


「飯もあんま召し上がらんし、お陰で糞もそんな出ん。定期的に清拭をして、時たま糞の処理するだけや。尿はのやり方覚えとるで溜まったら替えればええ。まぁたまに漏らすことがあるからこの臭いの有様やけど」


 羽賀さんが『それ』と言ったのはプラスチック製の尿器のことだ。既に液体が溜まっているのが見えたから、僕はそれの取っ手の部分を掴んで離れの中のぼっとん便所に流した。その一連の行動を見た羽賀さんから「言われんでもやるのが当たり前やからな」と褒められもせず厳しいことを言われた。


 僕はそれから古宮腸座の清拭の仕方を羽賀さんから学んで、他、ご飯の出し方や排泄介助のやり方、毛の剃り方とかを学んだ。古宮腸座は人が干渉することを気にせず……というよりは次元から切り離されなみたいにあらゆる干渉に対して無反応。自由気儘に奇声を発するだけの……ある意味人形の様だった。








 古宮家での使用人バイトを始めて4日が経った。基本的には大学の終わりの夕方に1〜2時間くらい入って古宮腸座の世話と離れの掃除をするだけ。使用人というよりは動物園の飼育員だ。古宮腸座といる時は懐中電灯やランプを持ち出してなるべく離れの中を明るくした。少しでも恐怖心を払拭する為だけれど、彼と接すると確かに一切危害を加えてこないから慣れてきている自分がいる。


 この古宮家でバイトを始めて殆ど羽賀さんとしか会っていないけれど、古宮腸座の夕飯の食器を屋敷のお台所に持っていく途中、庭園の見える縁側で理胆さんとすれ違った。前と同じ格好で厳しい表情をしている。一礼すると珍しく彼女の方から話しかけてきた。


「御当主様の様子は如何いかが?」


 力強く抑揚のある声。大女優の演技の様な迫力に僕はお盆を持ったまま頭が真っ白になった。古宮腸座との接触に関しては正直彼を人とは思っていないので思い入れが無いし観察しようにも『狂ってる』くらいしか感想が湧かない。


 大変だ、質問の答えが浮かばない……


「えっと……その、お元気ですよ」

「いいのよ、絞り出さなくても。あれは人を辞めてるもの。姉の私でさえ形容の仕方に戸惑うわ」


 不適な笑みを浮かべながら弟の狂いっぷりを呆気なく認めた理胆さん。


「それでも貴方は尽くすのよ、彼に。あれでも——この古宮の当主なのですから。分かりました?」

「……はい、もちろんです」


 理胆さんはそう言い付けて去っていく。僕に釘を刺すように。挙動、言動に一切の隙を感じさせない理胆さん。彼女はあくまで当主の姉という立場だけれど、実際のところはこの古宮家の女王なのではないかという風格を醸し出していた。


 そして今日のバイト終わり、次のシフトが土曜の早朝ということもあって羽賀さんから前泊を薦められた。「前日に来ればくらいは出すし、使用人用の風呂もあるで。勿論寝床もな」と高待遇で、ガス代と水道代を浮かせるために家の湯船に一回も浸かったことの無い僕にとっては有り難い話だった。


 その帰り道、古宮邸のすぐ近くの竹林の道で自転車を漕ぐ制服姿の膵華と出会でくわした。制服姿とは言っても上半身はほぼパーカーで令嬢とは思えないやんちゃな格好。膵華は僕を見つけると否や自転車を停めて降り、僕は「久しぶり」と声を掛けた。


「うん、久しぶり。どう、ウチのバイト」

「えっとー、順調かな。腸座さん——あ、」

「いいよで。あれを『当主』って言う方がピンと来ないし、ましてや私からしたら『お父さん』って言われるのも今はキツイから」

「そっか……にしても中々会わないね、屋敷で。まぁ僕が腸座さんメインで離れにずっといるからかもしれないけど」

「私も屋敷だと色々忙しいから。今度いつ入るん?」

「今度は土曜の朝だね。だから前泊させてもらうことになってる」

「あ、じゃあ金曜の夜いるんだ」


 膵華はパーカーのポケットに両手を突っ込みながら目頭をピクりとさせて意味深な表情をした。それは僕が夜にいることを嫌がっているのか、それとも喜んでいるのか、どちらとも取れる反応だった。


「いることになるね」

「ふーん。了解。それじゃあ」


 膵華はクールに振る舞って自転車に跨り漕ぎ出そうとした瞬間、何かを思い出したように僕に訊いた。


「そういえば理胆叔母さんになんか言われた?」


 心当たりは無い。


「いや〜特にそんな大した話をしてないかも」

「そっか。じゃ」


 ガチャガチャとチェーンの音がして、膵華は古宮邸の方向へと自転車を走らせた。




 ——理胆さんが僕に何を告げようとしているのか。それは今後、僕が古宮家の存続に関わる大きな責任を押し付けられることにも繋がる。

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