白無垢に抱かれる者⑥

 三年以上通った大学構内。身を隠す場所として頭に浮かぶ空間は多かった。その中で九里香が選んだのは、入り慣れた瀬田の研究室だった。


「おい、大丈夫か。目を覚ませ、おい。どうなってるのか説明してくれ。成功してんのか、それとも失敗してんのか」


 堅いリノリウムの床の上で、九里香は珊瑚の肩を叩いた。咳き込む彼女は、一度大きく息を吸った。再度、数回の咳を挟んで、粘液の絡んだ雑音混じりの声を転がした。


「……申し訳ございません。失敗です。あの方はアゲハモドキではありませんでした」


 丸い目を細めて、彼女はそう言葉を落とした。窓から入る電灯の明かりで、彼女の輪郭が僅かに認識される。

 起き上がった珊瑚は自らの口元を拭った。鉄錆の匂いが、彼女から放たれている。どうも出血量が多いらしい。九里香は珊瑚の腕を取った。指先に削られて出来た凹凸を感じる。その一つを押すと、珊瑚の身体が一瞬震えた。


「やっぱ傷になってるな。一度退散するぞ。瀬田先生を呼ぶ。傷の手当てが必要だ。得体の知れないやつの爪で抉られた傷なんて、どんな抗生剤が必要かもわからん」


 そう言って、九里香はジャージのポケットをまさぐった。指先に触れるものが煙草しか無いと悟った時、自らのスマホが警察署の冷たい箱の中で弄くり回されていることを思い出す。大きく溜息を吐きながら、彼は珊瑚の方へと目を向けた。


「玉依さん、悪いがスマホ貸してくれないか」


 出来る限りの平静を装おう。九里香がそうしたのは、彼自身がそうしなければならないと強く感じていたからだった。そうでもしなければ、九里香自身の思考が上手く整わなかった。


「その選択はあまり良いものとは言えませんね」


 静かに、深く息を吸いながら、珊瑚はそう返した。腹の底から声を出さざるを得ないのだろう。彼女は肺を軋ませながら、九里香の耳元まで口を寄せた。


「貴方自身が狙われている以上、何処に行こうと同じです。寧ろ、瀬田教授や外の一般人を巻き込むことになりかねません。それこそ、須藤さんのような被害者が出ます」


 九里香は「は」と一つ声を飲んだ。そんな様子を見て、珊瑚はころころと笑う。何がおかしいんだと聞くよりも前に、彼女の思考が今の虚勢を張る自分と同じ状況なのだと、九里香は察した。


「私たちに残された選択肢は、朝まで耐えるか、それともあの花嫁の正体を暴くかです」


 彼女の言葉に、九里香は「そうか」とだけ返した。その返答を聞いて、珊瑚は掴んでいた九里香の服を離す。咄嗟に九里香はその手を掴んだ。力無く倒れようとする珊瑚の頭蓋は、椅子の金具に打ち付ける寸前で動きを止めた。


「その様子じゃ、虱潰しで何度も答え合わせをするってことは、出来なさそうだな」


 何も知らない九里香から見ても、珊瑚の身体は限界に近いように見えた。彼女の四肢に、力は無い。これがあの異形の花嫁との対峙に起因していることは明らかだった。


「神に近しいものを、私のような卑しい人間が、下等生物に落とそうというのですから。その御身とその御名を間違えるなどという不敬を働けば、天罰くらい受けるものですよ」


 天罰と称したそれを、珊瑚は微笑みながら示す。指先でなぞる傷は、数分の間にぐずぐずと膿を溢れさせた。息をしながら腐っていく。そんな表現が、九里香の中で生まれていた。


「ただ、まあ。このまま朝まで立てこもるというのも、難しいかと存じます」


 珊瑚はそう呟いて、ふらつく脚で立ち上がった。彼女の顔を見上げる。と、同時に九里香の視界で『白』が蠢く。その仄かに輝く色には覚えがあった。


「正体が虫なら、少しでも隙間を見つければ、彼女は何処にでも進入可能でしょうから」


 白い腕を組んで作った角隠し。窓ガラスに貼り付く無数の腕。白い腹をよじって、窓枠いっぱいにその姿を現した白肢の女。

 一瞬。ほんの一瞬だけ、彼女がまるで、ヒトの手で出来た鱗を持つ、白い龍のようだと思えた。その異質ながらも美しい身体が、九里香の目を奪う。否、目が合った。九里香だけを見つめる視線が、角隠しの下からチラリと見える。白い顔。その上半分を覆う、二つの黒い塊。それが眼球であることは、九里香にもわかっていた。艶のあるそれに、僅かながら九里香の顔が反射していた。

 唾を飲み込んだ九里香の鼻には、微かにハナミズキの甘い香りが刺さった。


「一、二、三、四……五?」


 ふと、珊瑚がそう呟いた。その声色は疑問を織り交ぜて吐いていた。


「九里香さん、この大学の中庭に植えられている植物について、一覧になっているものなど知りませんか」


 丸い目を見開いて、珊瑚は九里香の肩を掴んだ。その顔には一種の確信と迷いの両方があった。


「隣の棟が農学系で、植物やってる研究室もあった筈だ。中庭の観察実習してるところを見たことがある。教員室で資料としてリスト化していても不思議じゃない」


 淡々と、九里香が言う。すると、珊瑚は九里香の腕を両腕で抱えた。そうでもしなければ立っていられないのだろう。眉を下げた珊瑚の両足を、九里香が掬い上げた。


「瀬田教授に言って、中庭周辺の建物は全て施錠しないでおいてもらっています。多分、建物内の鍵も開いている筈です。施錠されていた場合は……」

「開いてなかったら蹴り破る。教員室の扉は脆いんだ」


 酩酊して破壊した先輩を知っている。と、九里香は鼻で笑って見せた。そうでもしなければ、足を部屋の外に出すことなど出来なかった。出来ることなら部屋のあらゆる隙間をガムテープで目張りして、ここに引きこもった方が良いと、無駄な主張を叫びそうだった。

 だが、彼が気づいた頃には、あの白無垢は既に窓からいなくなっていた。部屋への侵入を諦めたわけではない。寧ろ、侵入経路を発見したのだろう。それがわかったのは、軽微だったあの甘ったるい花の臭いが、異様に濃くなっていたからだった。


 だん、だん、とととととと……。


 九里香と珊瑚は天井を見上げた。白い粉が二人の顔に降り注ぐ。部屋付きの空調。その隙間に、白く蠢くものがあった。


「掴まれ。走る」


 その目を認識した瞬間。九里香は部屋の扉を蹴破った。背後でガラス器具やら書籍やらがなぎ倒されていく音が聞こえた。振り返っている余裕は無かった。九里香の首にしがみつく珊瑚だけが、その惨状を見ていた。


「一、二。三、四……七か。これは少し……難しいな」


 棟を繋ぐ渡り廊下を走る中、珊瑚はそう呟く。「何が」と問う余裕は、九里香には無かった。それよりも、彼は嗅覚に神経を集中させていた。少しずつハナミズキの臭いが失せていく。それは、あの女との距離が少しずつ離れていっていることと同義だった。

 多分、時間が必要だ。資料を探す時間が。

 僅かでもと、九里香は少しの遠回りを繰り返して、目的の部屋へと向かう。そのうちに、鼻を刺す香気が薬品の刺激臭に変わった。それを区切りに、九里香は真っ直ぐ扉の前へ足を向けた。

 植物バイオ教員室。その文字列が目に入った瞬間、施錠の意味を忘れて、扉を蹴りつけた。防災を与して薄く壊れやすく作られているそれは、いとも簡単に割れた。半分放り出されるような形で、珊瑚は九里香の腕から滑り降りる。言葉の一つも無く、彼女は教員室のファイルを手に取った。ページを捲っては床に捨てる。それを繰り返す間、九里香は廊下に首を出して辺りを見回していた。


「ハナミズキ、オニグルミがあって……ハンノキ類が無い……」


 珊瑚が「基礎実習用資料」と書かれたファイルを見つめていると、九里香の喉が震えた。


「もう来る」


 白くうねるものが、廊下を器用に走る。否、壁と天井を這うと言った方が正しかった。その腕が、一つ、また一つと確実に距離を詰める。

 また逃げるべきか。九里香は部屋の奥で固まる珊瑚へと目を逸らした。




「――――やっと会えたね」




 その一瞬。耳元で囁く女がいた。

 細かい硝子片を擦り合わせたような声。人間ではない。直感で理解した。九里香の首筋を、鎖骨を、肋骨を、焼けた足を、その何本もの手で撫でる。その感触には覚えがあった。温度の無い指先。奪うことの無い腕。それでもなおすり減るのは、ヒトが正気と呼ぶもの。

 僅かに残っていた九里香の精神的余裕は、その愛情深い手に削られた。叫ぼうにも、蹴りつけようにも、九里香の脳は現実を理解すること自体を拒んでいた。


「一、二……七」


 そんな九里香が唯一認識したのは、鈴を鳴らすような珊瑚の声だった。


「わかりました、貴女の正体」


 そう言って、珊瑚は真っ直ぐに立っていた。九里香を背後から抱く白肢の白無垢へ向けて、彼女は一歩、足を踏み出した。


「私は貴女の名を知っている――――」


 呪文。やはり九里香にはそう聞こえた。ただの言葉ではない。より近しいと言えば、いつかの神社で聞いた、祝詞と呼ばれるもの。


「その身を覆うは蝋の枝。腹這いの偽脚は七つ。そして貴女は、胡桃を食む者」


 張り詰めた糸のような、細くも力強い声で、珊瑚は言う。言葉を重ねる度、彼女は拒む白い腕を叩き折って、九里香の傍へと近づいた。


「その御身は『蜂』となるもの」


 暖かな息が、九里香の鼻へ湿り気を与える。逃避のために閉じていた瞼を、九里香は開いた。視界には、表情を捨てた珊瑚の、人形のような顔があった。


「そしてその御名は――――クルミマルハバチ」


 セルロイド製の人形のような、そんな唇から放たれる名。それを認識した頃、九里香は地面に膝を付けていた。

 彼の表面にむしゃぶりついていた腕は既に無かった。九里香は周囲を見渡した。あの病的に輝いていた『白』は、もうそこに無かった。


「なあ、おい、これって……」


 九里香は目の前で棒立ちのまま動かない珊瑚に目を向けた。数秒無言を貫いた彼女は、九里香の肩へ吸い込まれるように倒れ込んだ。


「蜂の一種であるハバチ類の一部と、蛾の中まであるアゲハモドキは幼虫の姿が似ているんです……ハンノキ類につくハバチ類が多いのですが、構内にハンノキ類は存在しませんでした……それで、オニグルミがハナミズキの近くに生えているのを確認出来たので……クルミの木につくクルミマルハバチの幼虫だと、そう思ったんです」


 ぽつぽつとそう呟く珊瑚は、そう言ってすぐに、口を閉じた。彼女の顔の傷を、九里香は無意識になぞっていた。痛むだろうと、救急箱を探す。周囲を見渡しているうち、静かな息が聞こえた。九里香の肩に頭を預けた珊瑚が、力の抜けた顔で目を閉じていた。


 ホッと息を吐いて、唇を引きつらせる。終わった。と、その事実を噛みしめるようにして、深く息を吸った。

 

 その瞬間、甘い花の匂いが、九里香の脳を刺激した。九里香の目の前。廊下の奥では、白無垢の女が微笑んでいた。

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