白無垢に抱かれる者③

 九里香が気付いた時には、既に空は青く晴れ渡っていた。背後では警察官が怒鳴り散らしながら玄関ドアを叩きつけていた。

 乾いた血液が、頬と唇で引っかかって痒みを覚える。パラパラと血液の粉を落としながら、九里香はドアを開いた。


「すみません、気付くの遅れちゃって」


 鍵を開けてすぐ、青い制服の男達に、彼はそう言った。鈍い混乱の中、ワンテンポ遅れて、手首に付けられた金属の輪の意味について理解する。

 マンションのエレベーターの中で話を聞く内、どうも九里香は殺人犯か何かと思われているらしい。当の本人も、俯瞰して状況を鑑みれば、誰もがそう考えて然るべきだとはわかっていた。反論する余地もない。隣人が通報したのだろう。顔しか知らない彼は、毎朝ベランダで珈琲を飲む習慣がある。横を見たら、九里香が血だらけになってベランダで呆けていたのだ。辛うじて原型を留めていた須藤の顔右半分もハッキリと見えていたことだろう。マンション内で混乱する様子を見せていないのは、九里香だけだった。

 エレベーターが一階に到着した瞬間、九里香の視界が遮られる。誰かがジャケットを被せたらしい。こもる小さな空間の中では、九里香の心臓と息の音が反響する。外から聞こえるのは、カメラの音。それも、スマホのシャキシャキという軽快なそれだった。

 思っていたよりも大事になっている。それに気付いた時には、九里香は後悔することすら諦めていた。


「死体が降ってきたんですよ。それしか言えないんです。上の階のヒトがなんて言ってても、深夜ベランダに出たら、須藤の破片がぼろぼろ落ちてきた。それだけなんです」


 警察署の冷たい一室。所謂取調室に入れられた九里香は、刑事の問いかけにそう言った。酷く冷淡で蛋白な態度も相まって、彼の前に座る刑事は「はあ」と呆れを漏らした。


「城島さんでよろしいか」

「はい。九里香でも、何でも」

「城島さん、あのですね。細切れになったご遺体を持って座っていて、それだけってことは無いでしょう。というか、何でご遺体の名前を知っているんですかね」

「彼女のいつも身につけているピアスが着いてたからですね。耳に。それと、顔半分は形を保っていたので殆ど確実に須藤……須藤千晶でしょう。毎日顔を見ていた俺が言うんだから間違いない」


 中年男性らしい顔の皺をより深くして、刑事は頭を掻いた。どうにも納得がいっていないらしい。それは九里香とて同じだった。


「他にも理由はありますよ」


 自分にも言い聞かせるようにして、九里香は口を開いた。困り眉の刑事と鏡あわせに表情を作る。気を抜けば虚無感が顔に出そうだった。

 

「理由……あのご遺体が須藤さんであるとわかる理由ですか?」

「俺は彼女が殺されている現場を耳にしていますから」


 そう言ってようやく、刑事と九里香の目が合った。崩していた体幹が一本に整う。彼は九里香を舐めるように据えた視線を下から上へスライドした。

 

「近隣の電話ボックスの中で、須藤の残りの破片が落ちているところがあると思います」

「何で知ってる」


 途端、男の口からは威圧とも取れる語尾が漏れた。


「深夜、彼女は公衆電話から、俺のスマホに電話をかけてきたんです」


 九里香がそう言うと、刑事は小さく溜息を吐いて、目を閉じた。そしてもう一度その目を九里香へ向けた。

 

「気になるなら俺のスマホも調べてみれば良い。ド素人の俺には、通話ログが聞けるかどうかは知りませんが、該当の公衆電話から須藤の死亡時刻に電話していたことくらいはわかるんじゃないですか」


 隠す素振りの一つも無く、九里香はそう言って足を組んだ。知人と会話するときと変わらない素振りで、彼は言う。その態度が良かったのか悪かったのか、それともその両方か。刑事は「で」と一つだけ、催促の声を上げた。

 

「つまり、俺は彼女の死の瞬間を聞いていただけで、手を下していないし、死体を運んですらいない」

「その根拠は出せるか」

「マンションのロビーには管理人室があります。その上、マンションフロアの全てに防犯カメラも完備ときた。俺が大学から帰宅してから一度も外に出ていないことはそれが証明してくれる」

「良いとこ住んでるな」

「良い家族に恵まれたもんで」


 そうか。と、刑事は一言置いて、再び目を閉じた。思考を巡らせているのだろうと、それだけははっきりと九里香にもわかった。

 

「俺はただ電話を受けて、須藤が死んだ音を聞いて、その死体がベランダに落ちてくるところを眺めていた。それだけですよ」


 追撃を、とでも言わんばかりに、九里香は言葉を机の上に叩きつける。彼の眼球は、目の前で腕を組む刑事以外の誰も捉えていなかった。同時に、刑事の男もまた、九里香の輪郭をジッと見つめていた。次の言葉を考え尽くしたのか、それとも考える意味が無いという結論に至ったのか、彼は乾いた下唇を噛んだ。

 無言が続いて数秒後、部屋の扉が開いた。記録係の男とは別の、年若いスーツ姿の優男が、上がった息をそのままに口を開いた。


「し、失礼します! 駅近くの電話ボックスで、女性の手足が散らばっているという通報がありまして……!」


 九里香と刑事が、静かに顔を合わせる。九里香が取調室から出されたのはその三十分後のことだった。

 


「災難だったね、九里香くん」


 ミントの芳香剤が香る国産車。その運転席に座る男は、そう言ってハンドルを持った。助手席の九里香は、僅かに顔を顰めて、苦く笑って見せた。


「ご迷惑をおかけします、瀬田せた先生」


 瀬田は九里香の所属する研究室の教授であり、両親の旧友でもあった。その関係は教授と教え子と言うには少し深く、親子と言うには浅い。だが、こうして殺人犯として捕らえられていた九里香の身元を保証し、迎えに来てくれる程度には、世話を焼く仲ではあった。

 

「とりあえず、ご両親には私から連絡しておいたから、今日から暫くはうちで過ごしなさい。うちの息子の勉強でも見てやってくれ」

「俺にできることなら何でもしますよ。厄介事を持ち込んでいるわけですし」


 当たり障りの無い言葉を選んで、九里香は笑った。そんな彼を見て、瀬田は一瞬だけ表情を落とした。赤信号でブレーキを踏む。止まった車両の中で、瀬田は僅かに重い声を響かせた。


「その厄介事なんだけどね。何があったのか、説明できるかな」


 それは願いや聞き取りの姿勢ではなかった。命令、指示に近い。考えるよりも前に、九里香の口は動いていた。あったことを、淡々と。あの刑事達に証言した時のような揶揄いの一つも、この場では許されなかった。表現を間違えそうになる度、声が裏返る。目に入れたものを、耳にしたものを、全て、言葉にしていく。それは作業だった。だが、その作業は、九里香の蓋をしていた感性を掘り起こす作業でもあった。


「――――須藤は、殺されたんです。何か、よくわからないものに、腐りかけの魚みたいに。あれは、あれは……人間がやったことじゃない」


 吐き気がした。見ていない筈の絶命が、脳裏にはっきりと浮かぶ。想像できてしまった。須藤の肉の欠片と、骨の断面は、はっきりと生物を捻じ切る時にできるものだとわかった。唾液が顎の下に落ちていく。両手で口を押さえた。瀬田がどこからともなく紙袋を差し出す。反射的に九里香は顔をその中に突っ込んでいた。


「求愛給餌……というものを説明できるかな。九里香くん」


 胃液を胃から喉へと逆流させた九里香に、瀬田は静かにそう言った。何で今、講義なんかしようってんだ。理不尽さを飲み込んで、九里香は伸ばしていた舌を畳んだ。


「鳥類によく見られる求愛行動の一つで、一般には雄から雌に餌をプレゼントするような行動でしたっけ。すみません、鳥類は専門外なもんで」


 いや、よく出来てるよ。と、瀬田は朗らかに微笑んで見せた。その横顔に九里香がホッと息を撫で下ろすと、瀬田は再び口角を下げた。


「きっと、須藤さんはその餌になってしまったわけだね」


 ふと、ごく普通の雑談のように、瀬田はそう言った。「は」と九里香は声を漏らした。急に何を言うのだと、言葉を吐くことすら出来なかった。


「良いかな、九里香くん。今の君に受け入れられるとは思わないが、よくよく聞いてほしい」


 そう唱える瀬田の背景には、九里香の見知った道があった。それは瀬田の自宅へ向かう道ではない。昨日まで歩いていた、大学の正門近くのそれだった。

 

「君はおそらく、ヒトならざる何者かに求婚されている。そして、昨晩、その求婚を受けてしまった。何故なら君は、須田千晶の肉というプレゼントを受け取ってしまったのだから」


 ――――求愛給餌ということは、そういうことだよ。


 瀬田がそう言った頃、二人を乗せる車は大学構内の駐車場に停められていた。エンジンを止める。その手はスムーズに瀬田自身のポケットの中に入っていく。その所作には見覚えがあった。名刺だとか、そういうものを出すときのそれだった。


「この手の不可思議な事象に対して、詳しい人たちを知っている。私と妻が昔、世話になってね。その恩人はすぐには紹介できないが……君は運が良い方だ。彼の娘さんなら、この大学に在籍している」


 瀬田は自分の名刺の裏側に、万年筆で見知らぬ名前と電話番号を書き込んでいく。癖のある字の羅列を書き終えてすぐ、九里香と視線を合わせた。

 

「彼女なら、君を救うことが出来るかもしれない。名前は『玉依たまより珊瑚さんご』という。君の二つ下、学部の二年生だね。私からも連絡しておくから、すぐに会いに行きなさい」


 生乾きの筆跡が、僅かに九里香の指先に張り付いた。九里香が「はい」と無意識に返事をすると、瀬田は車のロックを開けた。

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