白無垢に抱かれる者④

 職員用駐車場に一人残された九里香は、数秒その場で固まっていた。車から放り出された瞬間に、瀬田からは「小動物棟の生化学分析室へ行け」とだけ告げられ、そうするべきとは理解していたが、体が言うことを聞かなかった。自身でも驚く程に、九里香は動揺していたらしい。

 ふと、近くの駐車スペースに、一つの車両が停まった。見知らぬ職員は、九里香の顔を見るなり目を丸くする。今朝の出来事を思い出す。騒乱の匂いを振り払うようにして、九里香は早足で目的の部屋へと向かった。


 小動物棟生化学分析室――――水圏生物を専門とする九里香にとって、そこは初めて足を踏み入れる場所だった。日当たりは良い。湿度も気温も、陸生生物を飼育するには良い環境だろう。それはつまり、人間が過ごすにも良いということだ。だというのに、廊下はおろかガラス越しに見える部屋の一つ一つにも、人間を見ることは無かった。普通、大学の研究室と言えば、日曜祝日でも学生か教員が実験を行っているものだ。加えて今日は平日である。講義に出ているにしても、こんな静かなことがあろうかと、九里香は首を傾げる他なかった。

 そんな彼が足を止めたのは、分厚い鉄で出来た扉の前だった。そこには仰々しく「生化学分析室」と筆文字で書かれた古びた看板が貼り付けられていた。他の部屋とは異なり、この一室だけはガラス窓も無く、中の様子を覗き見ることは出来なかった。

 ドアノブに手を付ける。そのまま手首を捻れば、部屋に入ることは出来る。特に明言できる理由は無いが、九里香野中にはそれを躊躇う己がいた。それを僅かな呼吸で抑えつけ、扉を開けた。隙間からは濃いエタノールの匂いが鼻を刺した。


「こんにちは。貴方が城島先輩ですよね」


 部屋に入ってすぐ、軽やかな少女の声が聞こえた。九里香と目を合わせたのは、一人の小柄な少女だった。

 腰まで伸ばしてもなお、手入れの行き届いた黒髪。その黒さが陶器のように白い皮膚の輝きを際立たせる。丸くビー玉のような瞳が、九里香を捕らえて放さない。その少女が瀬田の言う玉依珊瑚であることは、直感で理解していた。

 

「下のお名前は九里香さんでしたっけ。随分と女の子みたいな名前ですね」


 彼女はそう言うと、ころころと鈴を鳴らすように笑った。「ほっといてくれ」と事情の説明を放り投げて、九里香は眉間に皺を寄せて見せる。

 

「そう拗ねないでくださいよ。瀬田教授からは非常に拙い状況だと聞き及んでいます。まあ、とりあえず、お座りください。お茶などはご用意できませんが」

 

 その笑みで、現実感の無かった彼女の周囲が、一瞬にして俗物へと変じる。否、視野が広がったと言う方が正しい。九里香は珊瑚が指し示した丸椅子に腰掛けた。汚れ一つ無い実験器具が二人の周りを囲む。その一つ一つに、珊瑚の作られたような笑顔が映っていた。


「申し遅れました。私、玉依珊瑚と申します。お顔を合わせるのは初めてですが、お噂はかねがね」


 九里香が「噂?」と零すと、彼女は目を細めて眉尻を下げて見せた。


「女と見紛う程にお美しい男性であると、方々から伺っておりました。加えて、言い寄る女性……いえ、男性もですか。恋愛関係については、大変ガードが堅いだとか、そんなことも」

「…………後者については否定しない」

「前者についても否定はなさらない方がよろしいかと思いますよ」


 ころころと、珊瑚の喉が鳴る。事実、九里香も珊瑚と同じく、人形のように整った顔立ちであった。珊瑚はその性別そのまま女性的な性質が強いが、一方で九里香はその性が一見してわからない程に、中性的だった。より厳密に言えば無性的であるという方が的を射ている。


「……俺の見た目をいじるこの時間、必要か?」


 表情を作る筋肉が、上手く制御出来ていない。そんな九里香を見て、珊瑚は「えぇ」と肯定を置いた。


「実際に見てよくわかりました。貴方が『怪異』に求愛されている理由が」

 

 薄ら笑いを浮かべて、珊瑚は机を人差し指で叩いた。九里香がその動きに目をやると、彼女はその指先を九里香の鼻先へと向ける。


「怪異とは、人間の認識の副産物。例えば、ヒトが神と呼ぶ者。例えば、幽霊、都市伝説、怪談。概ね科学では対処しきれない何某かの多くが、これに入ります」

「つまり、何だ。ヒトが理解し得ないものを理解しようとしたときに出てくる、認知のバグってところか?」


 九里香がそう言って頭を掻きむしると、珊瑚の舌の動きが止まった。丸い彼女の目が、より丸くなっていた。それが驚きという感情だということは、九里香にもわかっていた。


「あまりにすんなり理解されるのですね」

「俺が神様だとか、幽霊だとか言うものを表現するならそうなるってだけだ」


 そうですか。と、珊瑚は口角を上げた。その一瞬だけ、彼女は確かに感情を見せていた。喜怒哀楽で言えば、確かな「楽」をその口元に湛える。


「要は、俺はそういう神様みたいな奴に求婚されてるってことで良いのか」


 そう言って、九里香は理解の深度を問う。淡々とした口の九里香へ、珊瑚は再び指を示した。


「異類婚姻譚というものをご存じでしょうか」

「単語を耳にした覚えはあるが、内容までは理解していない」

「例としては鶴の恩返し、浦島太郎、天女の羽衣などですか。人間とヒトならざる者とが結婚する物語の総称だとでも言いましょうか」


 珊瑚はそう言って九里香の目前へと迫る。僅かに九里香は息を止めた。再開した呼吸の中で、甘い飴のような匂いを嗅ぐ。それが珊瑚の首筋から漂うものだということは、九里香も理解していた。


「正しく貴方は、この異類婚姻譚の渦中にいるのです。異形の者に嫁ぐ者として」


 珊瑚の呼吸が、九里香の眼球に熱を与える。既に九里香の脳は、思考をするスペースを失っていた。辛うじて、彼女の言うことは嘘では無いのだろうと直感で理解することが出来ている程度だった。


「…………そ、その、俺の相手は何なんだ。鶴の恩返しなら、鶴。浦島太郎なら乙姫。天女の羽衣なら天女。いるんだろ、俺にも。その相手が」


 九里香が絞り出した問いは、珊瑚を喜ばせたらしい。彼女は歯を見せて笑った。その鋭い犬歯を一度、ガチと叩く。


「それを推測し、のが、私の仕事です」


 暴く。

 その一言を、九里香は反芻していた。意味を理解するよりも前に、珊瑚は言葉を続ける。


「異形の花嫁には正体が、本来のあるべき姿があるのです。人間に観測され名付けられた、矮小で美しい姿が」


 そう言って、彼女は部屋の壁を指し示した。否、珊瑚の指先が向いていた先は、壁ではなく本棚だった。

 壁の一部と見紛う程に敷き詰められた書籍は、殆どが鈍器のような図鑑だった。子供が使うようなそれとは違う。正しく揃えられた情報。生物というものを扱う全ての人間の英知を集め、編纂したもの。それも、一部の生物分類に偏っていない。細菌から菌類、植物、昆虫、哺乳類など、およそ科学的に生物とされるもの全て。そして、ウイルスなどの感染症の辞典までもが網羅されている。


「本来の姿を与え、名前を刻み直す――――要は、人知を超えた存在から、人間が分類したただの生き物に引き摺り下ろすのですよ。例えるなら、幽霊であったものを枯れ尾花としてしまう、といったところですか」


 コロコロと、鈴を転がすようにして珊瑚が笑った。まる椅子の一つに腰を下ろした彼女は、再び九里香と目を合わせた。


「本当にそんなこと出来るのか。正体を暴くって、それだけであんな化け物を追い払えるのか」


 九里香がそう言うと、珊瑚は微笑みを止めた。仮面のように表情を落とすと、静かにその赤い唇を小さく動かした。


「出来ます。他の誰も出来なくとも、私になら」


 それが確信を持った言葉であることは、おそらく誰が見ても明らかだろう。


「……わかった、玉依さん。アンタに協力してもらいたい」


 一度目を閉じて、再び開く。九里香のそんな様子を見て、珊瑚は「承りました」と深く頭を下げた。反射的に、九里香も頭を下げる。


「ですが、まずは条件を一つ」


 九里香が頭を上げる一歩手前で、珊瑚がそう声を上げた。一転して妙な明るさを伴った彼女の声は、酷く楽しそうにすら聞こえる。


「結婚してください」


 ポンと手を叩くのと同程度の手軽さで、珊瑚はそう笑う。九里香は急いで顔を上げた。間髪入れずに彼は舌を回した。

 

「だ、誰と」


 それを聞く意味など無いことくらいは、九里香にもわかっていた。だが、反射的に、そう訪ねるしか無かった。


「私と結婚してください。九里香さん」


 その珊瑚の柔らかな微笑みは、恋をする少女のような熱を帯びていた。

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