白無垢に抱かれる者⑤
「や、や、駄目だ。帰る。協力の話は無かったことにしてくれ」
椅子を蹴るようにして、九里香はその場から立ち上がる。すると、彼の服の裾を掴む手があった。珊瑚は先程までの紅潮した頬を冷ややかな白に変えて、口角を下げていた。
「別に貴方のことが好きだからとかではないですよ。私、九里香さんって結構口悪いんだなーって思って、幻滅してるくらいですし。寧ろ、これは貴方のための条件です」
「俺のため? 結婚することの何がためになるんだ」
怒りを模した表情で、九里香は言った。珊瑚の手を振り払おうと、彼女の指先に触れた。その一瞬、目で追うのがやっとの速度で、珊瑚は九里香の二の腕を掴んだ。
「九里香さんには他者を誘惑する性質があります」
丸い瞳で、珊瑚は九里香を捕らえる。九里香が問いを捻り出すよりも早く、彼女は再び口を開いた。
「対人関係の問題も大方それのせいでしょう。そして、怪異に求婚されている理由もおそらく同じ。実際に見るまでは推測の域を出ませんでしたが、姿を拝見させていただいて、よくわかりました」
納得はいかない。けれど、理解を示すことは出来た。九里香には心当たりが多すぎた。特に会話を交わしていない同級生からの度重なる告白。友人として親しくしていた筈の男子学生に襲われた夜。ただ道ですれ違っただけで自宅まで後を付けてくる女達。
「虫のフェロモンとかに近いかもしれませんね」
珊瑚がそう呟くと、九里香は動きを止めた。
「フェロモン。そうか、フェロモン……虫と同列か、俺は」
乾いた笑いが止まらない。脱力した腕を引き留める理由は無かった。珊瑚が手を離すと、九里香は口を一文字に結んだ。
「俺がそういうものだとして、何故お前と結婚する必要があるんだ?」
問いに答えられていないぞ。と、今度は九里香が珊瑚の肩を掴む。節くれ立った指先が、柔い少女の肩の肉に食い込む。布越しに皮下出血が滲んでいく。それでも珊瑚は表情を崩さなかった。
「結婚は、人生の墓場と申しますから」
珊瑚は呟いて、歯を見せた。それが笑みであると九里香が気づいたのは、数秒置いてからのことだった。
「城島九里香を殺しましょう。そして、玉依九里香として生き延びてください。その後はお好きなように生活すれば良い。愛人を囲うも良し、別の方との結婚が叶うのなら、そうすれば良い。私は止めませんよ。城島九里香という存在が、形式上誰かのものになっていれば良い。これは対症療法。根本的治療を行うための時間稼ぎです」
眼球の奥、珊瑚の網膜の底からは、ただ真っ直ぐな視線が放たれていた。まるで親を見る子供のようだと、九里香の脳が言った。使っている言葉は小難しい大人のそれだが、態度はその姿も相まって少女的だった。そのアンバランスさが、珊瑚の不思議なほどの説得力に拍車をかける。おかしい奴がおかしいことを言っている。なるほど目と耳と思考の調和は取れている。
「……ということは、最初から離婚も視野に入ってるってことか」
九里香が溜息交じりにそう言うと、珊瑚は丸い目を細めて「はい」と置いた。
「少なくとも貴方が求婚を受けた怪異を、今日中に暴き祓うことが出来れば、結婚のお話自体も白紙になると思ってくださって結構です」
珊瑚のそんな言葉に、九里香は溜まっていた唾液を飲み込んだ。出しかけていた言葉を一緒に飲み干して、胃に収めた。
「じゃあ、今日中にその怪異とやらをどうにかすれば良いんだな。そうすれば、アンタと役所に駆け込むなんてしなくていいわけだ」
乱れる唇を人差し指で撫でる。同時に、九里香の眉間には皺が寄っていた。強ばる表情筋が痛む。対して、目の前の珊瑚は柔らかな微笑みを湛えて、彼を見ていた。
「そう取っていただいて構いません。ですが、姿くらいしか情報の無い状況では、今日中というわけには……」
一瞬の眉の上下。その隙に、九里香は視線を部屋の本棚へと向けた。
「鶴の恩返しも、異類婚姻譚の一つだったよな」
そう言って、九里香は図鑑の一つの前に足を置いた。取り出したその表紙には、蝶と蛾の緻密なスケッチが描かれていた。
「白い毛虫だ。特徴的な白い突起物を生やした毛虫を、昨日、この大学の中庭で助けた」
図鑑の一ページ目を開く。九里香のその手は、幼虫のそれを探していた。捲る指先から汗と脂が無くなっていく頃、目を丸くした珊瑚が息を落とした。
「大学の中庭、つまりハナミズキの……」
そう置いて、彼女は九里香の持つ図鑑を奪い取る。紙と紙の隙間を指の腹で開く。一度のそれで広げられたそのページには、黒い蝶が描かれていた。
「その毛虫は、このような姿だったのではないですか、九里香さん」
珊瑚が示す指先。そこには、九里香が拾い上げたあの白い毛虫の姿があった。
その数時間後――――深夜、九里香と珊瑚が立っていたのは、人気の無い大学の中庭。僅かに湿ったような風が、二人の頬を撫でる。珊瑚の黒い髪が、夜の暗闇に溶けるようだった。彼女の長い髪に火がつくのを恐れて、九里香は手元のアルコールランプの火を消した。代わりにと、懐中電灯の電源を入れた。
「それでも構いませんが、すぐに火を灯せるようにしておいてくださいね。いざとなったら使いますから」
そう言って、珊瑚が言葉を流した。
二人が背にしているのは、件のハナミズキの大木だった。須藤の背に落ちた白い毛虫。その記憶を、九里香は反芻していた。
「いざとなったらとか、その前に……あの白無垢、本当にここに来るのか?」
九里香がそう言うと、珊瑚は「おそらく」と一言置いた。
「異形の花嫁になってしまった彼女達は、その生態に関わらず人気の無い夜にヒトの前に姿を現します。今回のターゲットは九里香さんです。貴方がいる場所なら何処でも現れるでしょう。なので正直場所は何処でも良かったのですが……人気が無くて、万が一の時でも隠れるところがあって、怪我しても救急車を呼びやすい場所と言ったら、ここかなと」
淡々と珊瑚はそう言って、口を閉じた。彼女の目は虚空を見つめていた。おそらくは感性を四方八方に広げているのだろうということは、九里香にもわかった。だが、その合わない焦点が妙に孤独感を煽った。珍しく口が回っていると、九里香自身もその異変に気づいていた。
「……異類婚姻譚って、実在の生物だけじゃないよな。もっとこう、本当に神様が相手だったりする可能性は考えられないのか」
「心配性なんですね」
「そうとってもらって構わないが、質問には答えてくれ。俺とアンタの常識は違う」
九里香がそう眉間に皺を寄せると、珊瑚は口元だけを動かして笑った。
「この街の外であればそうでしょう。寧ろ、正体を暴いた程度でその姿をただの生物へ落とすことなどあり得ない。そんな怪異と呼べない薄っぺらいモノがヒトと交わろうなど出来るはずが無い」
鋭い包丁のような声色で、珊瑚が言う。彼女の舌には、一種の嘲笑と怒りのようなモノがあった。だが、それを指摘できる程、九里香は珊瑚の言う怪異を理解していなかった。
「けれど、この街に限った話であれば、アイツらはヒトと婚儀に臨むことが出来る。その権利を与えられる」
少女のようであった彼女の横顔は、その時だけ、確かに齢十九の女であった。敬意を忘れたような言葉の端々に、九里香は何か憎悪のようなものを感じ取っていた。
「そういう街なんです。そういう神様を奉ってしまった、醜い場所なんです。ここは」
そう言って、珊瑚は視線を動かさないまま鼻で笑った。
言葉を失った九里香は、そのまま口を彼女に向けてパクパクと動かしていた。目線を逸らす。コロコロと変わる珊瑚の様子に、目が回りそうだった。
気を紛らわすために持ち込んだ煙草を一本、ポケットから取り出す。火を付けようと、箱の中に入っていた百均ライターつまんで、口元へ寄せた。
その、一瞬。視界を僅かに下へずらした時。
九里香の視界が、白く濁る。その感覚を、九里香は知っていた。息を吸う。背後のハナミズキの、その甘い香りが気管を蹂躙した。
振り返る。視界が濁って何も見えない。一度目を閉じた。その瞬間、九里香の腕を握る熱い手があった。
「――――私は貴女の名前を知っている」
目を開ける。黒と白のコントラスト。深夜の暗闇と輝く無数の腕の隙間。そこに、艶やかな少女の、酷く冷えた唇があった。
「ハナミズキを食むモノ。白く美しい蝋の腕。その垂れた白無垢の裾は、腹」
冷淡に連ねていく言葉は、おそらくは呪文のようなものだろうと推測できた。
珊瑚の顔を、ある一つの爪が、ギリギリと引っ掻く。頬の肉が見えた。血液が垂れる。一瞬、彼女が痛みに耐えたような、歯を鳴らしたように見えた。だが、その音は九里香の奥歯から発せられていた。
痛点を刺激されようとも、その少女は一人、言葉を続けた。
「その御姿は『蛾』となるもの。その御名は――――アゲハモドキ」
静かに、けれど確かに吐いたその息は、吐ききったその瞬間に温度を取り戻す。
微笑んだ珊瑚は、白い腕に抱かれる。無数の手が、彼女を包んだ。それと同時に、九里香を掴んでいた彼女の手から、力が抜ける。
おかしい。何か違和感がある。
珊瑚の横顔を、九里香は見た。彼女は眠るようにして目を瞑っていた。
その二つの鼻から、どろりと赤いモノが落ちる。それが血液だということは、何も考えずとも結論が出た。
「おい! 何してるんだ!」
白い腕の中を漂う珊瑚の腕を、掴む。九里香は勢いのままその身体を引きずり出した。珊瑚の陶器のような皮膚に、白い腕が食い込んで、赤いコントラストを作り出す。肉を摘まみ千切ろうとするそれらを、九里香は掴んでは放り投げる。
珊瑚の小さな身体を引き寄せて、地面を蹴る。その九里香の脚を、冷たい腕が掴んで引き摺る。
思考は止まらない。けれどどうすれば良いかもわからない。堂々巡りする九里香の脳内で、一つだけ繋がるモノがあった。
――――蝋の腕。いざとなったら。
九里香は捕まっていない脚で、地面をまさぐった。ガラスの瓶が倒れる、軽快な音がした。その音に向かって、百均ライターを鳴らした。火花が上がる。小さな火を親指と人差し指の間に灯した。点火したその手を地面に叩きつける。
青い炎が暗闇に揺れる。水分を保った地面の上ではあまり熱は広がらない。しかし、九里香の足の裾に燃え移った火は、九里香ごと白無垢の蝋を溶かす。彼を捕まえていた手の指が、パッと開いた。
その一瞬に、九里香は燃える足を引き抜いて、地面を蹴った。
腕の中に入れた珊瑚以外に、彼が熱を感じることは無かった。
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