白無垢に抱かれる者②

「……夢なんて久しぶりだな」


 思わず声が漏れた。この夢を一言で表現するなら悪夢だろう。しかし九里香の口端からは感嘆が落ちた。それだけ「自分は眠っていたのだ」という実感が、九里香の中で感動に変じていた。

 白い腕に抱かれた甘く香った夢の余韻に浸りつつ、現実へと目をやる。眼球の奥が鈍痛を訴える。瞬きを繰り返す度に新鮮な静電気にも似た痛みが視神経の上を走った。頭が回る。吐き気がした。

 それらと重ねるようにして、着信音が足元から聞こえた。枕元から落ちたらしいスマホを拾い上げる。画面にはいつもと同じ深夜二時の表示と、いつもと同じ「非通知」という文字が見えた。

 迷わずスマホを手に取る。それがバイト先からの連絡でないことは、ハッキリしていた。


「なあ、少し喋っていいか。アンタは喋らなくても良いから」


 躊躇という言葉を放り投げて、九里香はそう言った。スマホのスピーカー越し、一瞬だけ布の擦れる音と、短く息を吐く音が聞こえる。


「毎度非通知ということは、公衆電話からかけてきてるんだろう。小銭をいくら持ち合わせているか知らないが、まあ手短にしてやるよ」


 今日の俺は機嫌が良いからな。

 そう言って、九里香はテーブルに置いていた煙草の箱を掴んだ。スマホを肩と耳の間に挟んで、咥えた煙草に火を点けた。紫煙で口と肺、鼻を満たす。鼻孔に残るハナミズキの香りを押し流した。


「俺、結婚を約束した女がいるんだ。昔の話だから相手も忘れてるかも知れないけど、俺は覚えてんの。十五年以上経ってるけど、俺はまだその女探してるんだよ。異常だろ?」


 だからさ。と、九里香は溜息を吐いた。


「こんな粘着質な男なんて諦めて、さっさと次に行った方がいい。正直、俺はそうして欲しい。警察に捕まる前にさ。何度もこういうストーカーとか、されたことあるし。その度に捕まった女がどうなったのか聞いてるけどさ、酷いもんだよ。俺が許してる内に新しい恋探した方が賢明だと思うね」


 口づけしていた煙草を、灰皿の上で二回叩いた。スマホの向こうからは、鼻息が荒く聞こえた。一瞬、憎悪を誘発させたかと、九里香は冷や汗を流した。だが、聞こえる息に湿り気が足されていくに連れ、それが泣き声であることを理解する。

 九里香の指先は、通話の切断を選んでいた。右に親指をスライドさせれば、声が聞こえることは無くなる。


『…………君は酷い男だよ、九里香』


 スマホから、微かに聞き覚えのある声が聞こえた。コンマ数秒、思考が止まる。覚えがあるどころではない。殆ど毎日聞いている声。


「須藤? お前、須藤か?」


 隠せない焦りを口から零す。先程までの常軌を逸した優越感は既に存在していなかった。

 疑問ばかりが浮かんで、言葉にならない。九里香にとってそれは初めての経験だった。


「何でこんなことしてる。今お前、何処にいるんだ。何があったんだ」


 昼間のあの快活な彼女の姿と、スマホから聞こえた弱々しく儚げな女の声が、どうにも重ならなかった。理解しようにも水と油を混ぜるような話だった。

 混ざらない要素同士を揺すり続けても、まとまることはない。九里香は己の混乱を飲み込んで、口を開いた。


「うん、そうだ。何処でも良い、ファミレスくらいこの時間もやってんだろ。適当に入って何か旨いもん食ってろ。行くから。金なら俺が出すし。それで、何があったのか、全部説明してくれ。いくらでも聞くから」


 理由があって欲しかった。何度も自分にへばりついて来た今までの女達と違う、何か切羽詰まった理由があったのだと思いたかった。嘘でも良い。言い訳を考える時間を、彼女に与えなければならないと思った。

 再び口を開ける。「とりあえず駅前の店に行け」と、場所を指定する。何を言っても応えない須藤へ、僅かに苛立ちが募った。


「何とか言えよ。なあ、俺に出来ることなら何でもするからさ」


 それが怒りではなく懇願であると、九里香もわかっていた。数秒、無言が続いた。もう一度息を吸った。九里香が問答を再開しようとした時、スマホ越しに小さな息が聞こえた。


『もう遅っぃ……っ……あっ――――』


 須藤の呆けた声と共に、硬いプラスチックか何かが落ちたような、ガシャンという無機質な音が聞こえた。直後、水が跳ねるような、湿った音が繰り返し響く。

 

 ぶち、ぶちゃ、ぶちゃ、ぶち、ぺき。

 ぺきん。


 ハンバーグを捏ねるような音の隙間に挟まるのは、硬い棒が折れる音。九里香の頭に思い出されたのは、いつだったか大学の実習で魚を解剖した時のことだった。丁度、魚の首を折って、内蔵と一緒に引きちぎった時、こんな音がした。


「…………須藤?」


 名前を呼ぶ。返事は無い。通話は既に途切れていた。プーップーッと、無機質な電子音が流れる。

 数分、九里香は何も出来ないまま宙を見ていた。

 そんな彼の意識を戻したのは、妙に大きな風の音だった。ベランダの窓を叩きつけるそれは、不快だとかそういった感性を通り越して、窓を割ってしまうのではないかという危機感に変じていた。

 何故か冷静さだけを残した精神で、九里香はベランダの窓を覆うカーテンを開けた。

 何もない、ただ強風に煽られただけの窓。フッと息を吐く。吸い終わった煙草の余韻が、鼻の奥で燻っていた。

 ――――とりあえず、もう一度だけ、電話をかけよう。そうだ、須藤のスマホに直接電話すれば良い。

 九里香の脳を覆っていた雲が晴れる。軽快にスマホの画面を叩いた。


 トン、トトトン。


 そのリズムは、九里香の指先とは異なっていた。全く別の、小さく柔らかいものが、硬く平たい何かの上で跳ねる。

 ふと、もう一度顔を上げた。視線の先にはベランダがあった。先程までは存在していなかった白い何かが、転がっていた。

 ベランダの窓を開ける。風は止んでいて、心地の良い晩春の微風が頬を撫でる。空気の動きをなぞって、白く平たいそれを摘んだ。

 見覚えがあった。反射的に自分の頬を掻いた。九里香の指先は、そのまま上部へ滑って、顎の根本に触れた。


 ――――あ、これ耳だ。


 軽快にそれを認識する。耳たぶに付いたピアスには覚えが合った。昼間、須藤が身につけていたそれと同じだった。驚きだとか、そういった感情が追いつくことはなかった。

 それよりも前に九里香が認識したのは、視覚の異変だった。目の前の上から半分が、白く輝いている。その輝きにも覚えがあった。


「俺はまた夢でも見てるのか?」


 九里香は確かにそう言った。寧ろ、そうであって欲しいと思った。


 微風の中で揺れるのは、無数の白い腕。そして、風が運ぶ香りは、あの強烈な甘い花の匂い。

 白い手と腕と、そして指先が、白い人の形を形成する。否、より的確な表現を九里香は知っていた。


 ――――白肢はくし白無垢しろむく


 そう呼ぶべきだと理解する。俯き加減の頭部を守るかのように、四本の白い腕で出来た角隠しが九里香へ向いていた。数センチ後退りをする。僅かに広がった白無垢の女との間に、一瞬だけ靄がかかる。しかし、その認識は間違っていた。靄がかかったのではない。落ちてきたのだ。空から、赤黒い何かが、彼らの間に降り注いだ。

 粘液を浴びて、九里香は目を瞑る。その次の瞬間には、あの輝く白さは消えていた。


 代わりに落ちていたのは、手のひらサイズに千切れた須藤千晶だけだった。

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