現代異類「破婚」譚
棺之夜幟
白無垢に抱かれる者
白無垢に抱かれる者①
このところ、持病の不眠症が悪化して困っている。
不眠症にはいくつか種類があるが、男子大学生の
深夜二時頃、枕元に僅かな振動を感じて、瞼を開ける。反射的にスマホの画面に手をかけた。
「はい、城島です」
九里香がそう口にすると、スピーカーはガチャンと音を鳴らした。すぐにプープーと一定のリズムが睡眠不足の頭に響いた。
「またか……」
また、無言か。
九里香は声にならない言葉を飲み込んで、スマホを放り投げた。掛け布団の上に落ちたその画面には、「非通知」と表示されていた。
――――深夜の無言電話。それが、九里香の睡眠時間を二時間とする大きな要因だった。
「だから最近、講義中に寝落ちてるんだね」
昼下がりの中庭。ハナミズキの下で、女は寝惚け眼の九里香を笑った。九里香が無言のまま睨むと、彼女はケラケラと声を上げて笑った。
「ごめんごめん。笑い事じゃないのはわかってるんだ。わかってるんだけどさあ。君みたいな色男が病んでる姿、見てると楽しくなっちゃって」
ワクワクするんだ。と、女――須藤千晶はそう言って、項垂れる九里香の顔を覗き込んだ。目が合った彼女の表情は、確かに生き生きとしていて、活力に満ちていた。
「何でお前みたいなのを友人って呼んでるんだろうなあ、俺」
力のない声で、九里香はそう言葉を零した。須藤は九里香の数少ない友人である。中学時代からずるずると引き伸ばしただけの関係は、お互いの性格の悪いところを理解するまでに至っていた。
溜息を吐いた九里香を見て、須藤は僅かに眉尻を下げた。
「ストーカーだったら、いつも通り警察に届けた方が良いんじゃないの?」
そう言って、彼女はハナミズキの根に腰を下ろす。シンプルな赤いピアスが須藤の横顔を飾っていた。
「相談はした。ただ、まあ、誰が何やってるのかわからないんじゃ、どうしようも無いんだと」
「もう、スマホの電源切って寝たら良いのに」
「それが出来るならそうしてる」
そう答える九里香の深い隈を見て、千晶は「そうだったね」と苦く笑った。
その問題は九里香の務めるバイト先に起因していた。大学に進学が決まった頃、彼と入れ替わるように大学卒業が決まった姉の勧めで、彼女が務めていた冠婚葬祭業の会社へアルバイトとして雇われたのだ。冠婚葬祭の内、問題だったのは葬儀だった。人間は二十四時間三百六十五日いつでも死ぬ。故に、いつ仕事があるかわからない。社員ではない九里香は殆どの場合、夜間に業務の電話を取ることは無いが、それでも万が一ということはある。
生来の生真面目さと、幼少の頃からの不眠が重なって、九里香は深夜に震えるスマホを手に取ってしまうのだ。
「早く解決すると良いね」
そう言って、須藤は背を伸ばした。彼女は上半身と下半身をぺたりと付ける。相変わらず柔軟な身体だと、感心を持って九里香は彼女の背中を眺めた。
気持ちよさそうに伸びる須藤を見ている内、何気なく瞬いた。その一瞬、強く風が吹いた。珍しいことではない。大学敷地内の中央に位置するこの場所は、建物と建物の隙間で圧縮された風が、度々強く吹き付ける。いつもと違うと感じたのは、風力ではない。九里香の視界の、上から中心に向けて、白く小さな何かが動いた。
「え、何」
違和感に声を上げたのは、須藤の方だった。彼女は畳んでいた上半身を僅かに上げる。
「何か動いてる? え、芋虫? ちょっと、嘘でしょ」
先程まで朗らかだった須藤の顔が、一瞬にして青冷める。須藤の背に乗っていたのは、純白の毛虫だった。全身を覆い尽くす白い毛は、よく見る針のようなそれとは異なり、どちらかと言えばえのき茸のような細いキノコに似ていた。
ぐにぐにと縮んだり伸びたりを繰り返して、毛虫はなだらかな須藤の背を登っていく。彼女の着ていた服の相性も良かったのだろう。ものの数秒でそれは須藤の肩に到達していた。
「動くな、取ってやるから」
そう言って、九里香は鞄の中からノートを取った。鳥肌の立つ千晶の首筋へ向けて、ノートの端を滑らせた。同時に、毛虫がころころと転がりながらノートの表紙に乗る。僅かな溜息と共に、九里香はそれをハナミズキの葉の上へ落とした。
「地面にでも放おっておけばいいのに」
忌々しいとでも言いたげに、千晶は鼻筋に皺を寄せた。「そんな顔するなよ」と九里香が鼻で笑う。それと同時に、チャイムが鳴った。午後の講義が始まる合図に、二人は致し方無いといった表情で立ち上がった。
その日の夜のこと。相も変わらず九里香の睡魔は彼の脳から逃げ出していた。スマホもパソコンも遠ざけて、紙の本のページを捲る。夏も近づくというのに温かな牛乳を喉に通した。不安材料になるものは全て終わらせている。ベッドで横にはなっている。眠る努力を怠っているわけではない。ただ、どうしても眠気というものが欠落しているだけなのだ。
本と目を閉じた。一時間は閉じた。それでも意識は鮮明で、耳は夜の街の生活音を拾う。仕方なしに目を開けて、部屋の中央へ視線を移した。一介の大学生が住むには広すぎる一室で、妙な存在感を放つ紙袋。それに手をかけて、九里香は溜息を吐いた。
バイトに支障が出てはいけないからと、医者に無理を言って手に入れた入眠剤。中途覚醒の症状があるというなら、本来は効果時間が六時間か八時間の薬を飲むべきだが、それでも彼が選んだのは効果時間僅か一時間のそれだった。
コップに水を注ぐ。シートから錠剤を押し出す。その間にも何度も溜息が漏れた。
眠りについて、着信音さえ鳴らなければ、きっとそのまま朝まで眠ることが出来る。それはわかりきっていた。スマホの電源をオフにすることも、考えはした。だが、自身の石の如き真面目さが邪魔をした。
二つの錠剤が喉を通って、胃へと落ちていく。素直に消化されていくそれらに、一瞬だけ吐き気がした。
不快な感性すら飲み込んで、九里香は再び布団に潜り込んだ。枕の位置は悪くない。瞼を閉じる。数分で人造の眠気が目元を暗くしていった。視界の端に最後まで映っていた時計の盤面では、長針と短針が重なっていた。
ふと、何かが顔に触れる冷たさを感じた。目を開ける。眠気は無い。視界が白かった。
――――あぁ、朝か。
白日が、曇のない空がベランダから見えている。直感でそう感じた。気持ち良く伸びでもしてやろうと、体を伸ばす。
その瞬間、違和感が四肢の末端から心臓までを支配した。背筋が冷える。身体が硬直している。この感覚を何と呼ぶべきか、九里香は理解していた。
――――恐怖だ。俺は今、恐怖を感じている。
次に浮かんだのは疑問だった。何故恐怖を感じているのか? 恐怖対象は何だ? 何を恐れている?
無駄に冷静な自分に、笑みすら溢れた。何が怖いのかわからないというのは、こんなにも滑稽なのかと、分裂した自身が嘲笑していた。
どうにかして起き上がろうと、妙に強い重力に逆らって上半身を起こした。と、それと同時に、顔を撫でるものがあった。目覚めた瞬間の、あの冷たい何かと同じ感触。
眉間に皺を寄せた。焦点を合わせる。薄っすらとしたコントラストを目に慣れさせた。次第に、視界に輪郭が生成されていく。
息を呑んだ。否、忘れていた呼吸を再開させた。唾を飲み込んだ。目に入った全ての情報を受取るのに必死だった。
手。無数の、手が、九里香の周囲を覆う。それはヒトの持つものよりも圧倒的に白く、仄かに輝いているようにすら見えた。白い皮膚と爪が、九里香の顔を何度も撫でる。初めは恐る恐る、生まれたばかりの子猫にでも触れるように皮膚を擦りつけていた。だがそれは触れる度遠慮を失っていく。気付いたときには、まるで九里香の表面を舐め取るかのように、腕と手と指が彼の全てをなぞる。
首筋から服の中へと細い指が入り込んだ。鎖骨と腰の骨の上を、一本の指が線を引くように滑っていく。唾液も温度もないその冷たい手は、九里香の温度を奪うことすら無い。何一つ失うことのない接触だというのに、どうしても何かが、飴玉のように少しずつ解けて、擦り減っていく感覚があった。
体感数分の後。九里香は無意識に手を伸ばした。そこに拒絶の意思があることは明白だった。爪の先が、どれかの指の隙間に突き刺さった。自分と同じ、ヒトの皮膚を、自分の爪で割く感触。夕食の生肉に指が当たっているのと、物理的には殆ど変わらない筈だ。だというのに、喉の奥でビー玉のようなものがつまったような、そんな不快感が九里香を襲った。それが一種の罪悪感にもとれるものだということは、彼自身も理解していた。
それでも、九里香の本能は抵抗を放棄することはなかった。白い皮膚を、爪でなぞって、肉を抉る。白い視界に血の赤は見えない。代わりに漏れ出たのは、強烈な花の香りだった。
花の香り。
覚えがあった。昼間、須藤と会話している時にも感じたあの匂いだった。
そうだ、これは。この強く鼻孔を刺す甘さは。
「ハナミズキの――――」
その花の名を呟く。その瞬間、視界が黒く塗りつぶされた。電子音が頭の中で響いていた。
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