怨讐の鬼女①

 城島九里香――――否、玉依九里香は頭を抱えていた。

 市街地からは離れた火葬場。その建物の裏には、古びた喫煙所があった。そこを知っているのは職員や出入りの多い葬祭業の従業員だけだった。不定期ながらアルバイトで立ち入りの多い九里香も、この場所のことは知っていた。

 火葬が終わるまでの一時間。九里香は缶ビールのケースの上に体重を乗せて、宙を見つめる。わざと焦点をずらしていれば、何となく疲労感くらいは取れる気がした。

 ピントの合わない灰皿に煙草の先を擦りつける。一瞬だけ指先に痛みが走った。ワンテンポ遅れて腕を引く。どうも、あの夜から九里香の感覚は鈍感になっていた。

 彼が目の前の人影に気付くのが遅れてしまったのも、そのせいだったかもしれない。


「よ、九里香ちゃん」


 視点の合わない九里香の顔をのぞき込む。そうしてようやくその存在に気付いた九里香は、目を丸くして仰け反った。


「こ、こ、木葉さん」


 喪服に『セレモニースタッフ』と腕章を付ける長身の男。彼はケラケラと軽快に笑って、煙草を咥えた。喪服の男――――木葉誠一は九里香の研究室の先輩であり、バイト先である『葉渡セレモニー』の社員であった。冠婚葬祭業に勤める彼がこの火葬場にいること自体は何も珍しくは無かった。ただ、白無垢に襲われていたあの夜から暫く、九里香はアルバイトに暇をもらっていた。故に、彼と顔を合わせたのは実に二週間ぶりのことだった。


「暫く休んでる間にやつれたか? いつものオーラ消えてるけど」

「オーラって何ですか」

「芸能人とかが出してる感じの、アレだよ」


 また適当なことを。と、九里香は溜息を吐いた。ある程度の身だしなみをしなければと整えていた髪を、指先で崩す。落ち着かなかった頭の中が、それだけで何となくいつも通りに戻る気がした。


「で、お前、今日出勤だっけ。会場設営の手伝いとか、いなかったと思うけど」


 メンソールの強い煙を吐きながら、木葉が問う。それに応答する義務は無かった。だが、そこに嘘やごまかしを挟める程、九里香は木葉誠一というこの男を見下してはいなかった。


「今日は俺、参列側なんですよ」


 友人枠で。と、九里香が言うと、木葉は一瞬だけ鼻に皺を寄せた。


「お、おう、そりゃあ……あー……お悔やみ申し上げます。とだけ言っておくよ」


 思ってもいなかったのだろう。狼狽える彼は、静かに目線を九里香から逸らした。壁にもたれかかって、二人は同じ方向を見た。数秒の沈黙が流れる。無言に負けたのは、木葉の方だった。


「三谷さんとかが心配してたぜ。花屋の」


 そうですか。とだけ、九里香は言葉を置く。意識の薄い彼の唇に、木葉は訝しげな表情を浮かべた。


「今日参列ってことは、だ。須藤って娘さんの葬儀か」

「……それ、守秘義務違反では」

「そう言うなよ。その須藤さんとはどんな関係だったんだ」

「友人でした。多分、親友と呼べるような間柄でした」


 そう思っていたのは、自分だけかもしれないが。そんな言葉を飲み込んで、九里香はまた口を閉じた。思い浮かんだのは、誰も中身を覗くことの出来なかった棺の中身だった。


「あの、木葉さん。今日の、須藤の納棺やったのって誰ですか」

「あ? あぁ、確か、高橋さんじゃねえかな。社長がわざわざ一番腕の立つ奴って言って、指名したんだよ」


 葬儀という儀式において、納棺師という専門職が存在する。主には最後の別れをより安らかにするため、遺体を整え、火葬へと向かう死に静寂を与える職業である。木葉の言う高橋という納棺師は、同社に勤務する納棺師の中では確かに最も経験が豊富で、技術も心構えも最高と言えた。そんな高橋を指名しなければならなかった程の遺体。棺の中に入っていた須藤の最後の姿を知っていたのは、九里香とその高橋だけとなる。引きちぎられバラバラになっていた彼女を最後、どのように並べ弔ったのかを、九里香は知りたかった。


「高橋さん、まだ帰社されてないですよね」


 九里香がそう問うと、木葉は彼の顔を覗き込む。そんな木葉の顔は、質問に答えるようという表情はしていなかった。


「うん、いや、お前、もう暫く休め。うちはバイトも有休使えんだから。上限いっぱい使えよ。まあ、もしくは暫く事務の方の補助やってくれよ。あっちも手が足りないらしいし」


 会わせる気は無いのだと、言外に言う。木葉が「やめろ」と人を引き止める時、大抵は代替行動の提案を行う。九里香へ差し向けた言葉も、その一環だった。


「次期社長権限でどうにかしてやるよ」

「越権行為じゃないですか」

「どうとでも言え」


 だからそれ以上は言葉を吐くなと、木葉はそう言っているのだ。気を使われている。それは九里香にもわかっていた。事実、木葉の父親である社長も、今の九里香を前にすれば似たようなことを言うだろう。

 顔もそっくりだしな。と、九里香は僅かに口角を上げて見せた。そんな彼を見て、木葉は歯を見せて笑った。


「つーか営業妨害なんだよ。そんなこの世の不幸の絶頂みたいな顔で葬儀だの結婚式だののスタッフやられたら。だから、越権行為じゃなくて、上司のマネジメントの一環っつーわけだ」


 な。と、木葉は九里香の背を叩いた。音の割に痛みが無いのは、木葉が伸ばした手の形と、九里香が反らした背の形の相性が良いからだ。慣れた素振りで、九里香は再び頭を掻きむしった。

 ふと、その乱れた頭の中から、一つの問いが生まれた。


「木葉さん、普通、結婚披露宴って親とか親戚とか全部呼びますよね」


 九里香がそう言うと、木葉は灰皿に煙草の先を擦り付ける。手早く殻を捨てると、彼は「うーん」と首を捻った。


「全部が全部ってわけじゃないだろ。二人だけでやることもあるし、身内だけで済ますこともある。いや、お前ん家だったら、親だけじゃなくて関係各所……それこそ親父さんとこの会社役員だとかも全部呼ぶとかになるんだろうけど……何かあったのか?」


 目を丸くする木葉から、九里香は目を逸らす。どう説明するべきか。それを考えているうち、表情が抜け落ちているのがわかった。無表情で「いえ」だとか「その」と声を落とす。一瞬、木葉と目を合わせてみると、彼は青冷めた顔で九里香を見ていた。


「まさか……できっ……授かり婚は拙いだろ、お前」

「違いますよ!」


 勘違いを訂正しなければ。ただその焦燥感に押され、慌てて言葉を組み立てる。自分が城島九里香ではなく玉依九里香になった経緯を。どうにか怪異やら白無垢やらのことを差し引いて、玉依珊瑚の名を唱えた。


「あー……つまり、お前はストーカー被害を抑えるために恋も知らなそうな後輩の女の子と結婚したと」

「あっちから持ちかけてきたんです。そんな目で見ないでください」

「家族にはどう説明したんだ。戸籍とか色々あるだろ。特にお前は……」

「役所に行って初めて知りました。今年から戸籍謄本要らなくなってたんですね、婚姻届」

「何か手続き簡略化したってのは、社長から聞いてたが。つまりお前、実家に何も言わずに……?」


 木葉はそう言って、口角を引きつらせた。そして、数秒考えるような素振りを見せると、彼は再び口を開いた。


「バイトも社割使えるか聞いておいてやるよ」

「俺、木葉さんのそういうところ嫌いじゃ無いですよ」


 ケラケラと軽快な笑い声を喉の奥から鳴らす。そんな木葉の明るい表情を見て、僅かに九里香の頬が緩んだ。


「あぁ、そうだ」


 喫煙所から立ち退こうと、火葬場の裏手を歩いていた時だった。ふと、木葉が喪服の内ポケットへ手を入れた。


「神社の近くにさ、水族館、最近オープンしただろ。うちの社長が招待券貰ってきて、俺に押しつけたんだけどさ。行ってきたら?」


 そう言って、木葉は手帳の間に挟んでいたらしいそれを九里香へ差し向ける。そこには確かに『多都川水族館』と『ペアチケット』の文字があった。その意味を九里香が理解した時、木葉はその紙切れを彼に握らせていた。


「ペアチケット、俺が使うの暫く難しいしさ。込み入った事情があるにしたって、嫁さんと仲良くはした方が、良いだろ」


 木葉はそう言って歯を見せて笑う。駆け足でその場を離れていく彼の背を眺めながら、九里香は溜息を吐いた。




「それで、水族館デートというわけですね」


 二人がそのチケットを使ったのは、次の日曜日のことだった。須藤の葬儀が終わって間髪入れずのことではあったが、気を紛らわせるには丁度良いと、九里香自身も考えてのことだった。


「……前に助けて貰った礼も兼ねてな」


 暗い水槽の前、輝く珊瑚の瞳から目を逸らしながら、九里香はそう言った。「そうですか」とだけ落とす珊瑚は、いつにも増して上機嫌だった。まだ少女らしさの抜けない彼女が自分の妻になっているということに、一瞬の罪悪感を飲み込んだ。

 それを知ってか知らずか、珊瑚はパッと歯を見せて笑う。


「九里香さん、あっちの水槽で『もぐもぐタイム』というのをやるそうですよ」


 珊瑚はキラキラとした表情を浮かべて九里香の腕を引く。勢いのままに、九里香は彼女の歩くスピードに併せて足を動かした。

 二人が立ち止まったのは、『南方の海』と書かれた黒札の前だった。この水族館のメインである大水槽よりも、規模そのものは劣るが、他の施設であれば十分にメインを張ることが出来るだろう。サンゴやイソギンチャクの隙間には、見栄えの良い魚やエビがひっそりと息をしていた。

 そんな様子を見ているうちに、それら生き物の動きが、一度に上へ向かった。

 乱れる水面。雪のように降り注ぐ茶色の塊。それらを一つずつ奪い合っていく生き物たち。その間を悠然と、エイが泳いでいた。尾に生えた鋭い一本の針。茶褐色の体色も相まって、それがアカエイと呼ばれるものだということは、九里香にもわかっていた。


「……毒針の処理をしないとは、危機感なさ過ぎじゃないか、ここ」

「針の処理?」


 珍しく珊瑚が不思議そうな表情で九里香を見ていた。彼女からの問いは初めてのことった。戸惑いが隠せないまま、九里香は慌てて言葉を並べた。


「アカエイにはデカい毒針があるだろ。場合によっちゃ死に至る毒だ。だから普通は捕獲した時に尾を切り落とすんだ。そうじゃなくても飼育するなら普通は針を除去するんだよ。というかこの水槽、色々やばいだろ。給餌も全個体に行き渡らせるような工夫が無い。イソギンチャクの動きを見る限り、水流も良いとは言いがたい。飼育員が手慣れていないのに加えて、設計者も……」


 口から溢れるのは、知識。少しずつ自分が早口になっていると気付いて、口を押さえた。そんな様子を珊瑚はコロコロと笑いながら眺めていた。


「お詳しいんですね」

「生物のことはお前の方が詳しいんじゃないのか」

「街にいる生物を同定するための知識は、師……父親に叩き込まれました。ですがその飼育技術などについては、からっきしです」


 困ったように眉を下げる彼女へ「父親」と九里香は呟いた。 彼女からその単語を聞くこと自体、初めてのことだったのだ。


「なあ、珊瑚。お前の父親って……」


 九里香が問いを投げかけようとしたときだった。先程まで珊瑚の表情が鋭いそれに変わった。彼女の目線は水槽の上部へと向いていた。その顔は、あの深夜の大学で見たものと似ていた。

 どうしたのだ。と、珊瑚と同じ方向を見上げた。降り注ぐ飼料の塊。それに群がる魚。その陰の隙間、何故か飼料を食べないアカエイ。泳ぐばかりのそれの中心が、妙に膨らんでいることに気付いた。

 ――――満腹か? いや、そうじゃない。あれは、胃に何か、異物を詰まらせた魚の動きだ。

 九里香には覚えがあった。故に、何が起きているのかも、何となく理解していた。同じ水槽の魚でも吸い込んだのだろうかと、溜息を吐いた。


「九里香さん、すみません、ちょっとここで待っていてください」


 ふと、珊瑚がそう言って暗い廊下の奥へ足を向けた。数歩駆けたところで、彼女は振り向いた。


「何かあったら迷わず警察に連絡してください」


 良いですね。そう言って、珊瑚は水槽の隙間へと消えていった。彼女の言葉の意味を咀嚼できずにいた九里香は、「は」と疑問を吐いて、再び水槽に目を向けた。

 一瞬。その一瞬。周囲にいた女の一人が、口を両手で覆っていた。その女の目線の先は、先程の珊瑚と同じ場所にあった。


 膨れていたアカエイの腹が、凹んでいた。そして、悠然と遊泳するその体の下、細かな魚に突かれるそれは――――人間の眼球と、肉の抉れた手だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る