怨讐の鬼女②

 九里香の前に珊瑚が戻ってきたのは、彼が一一〇番通報をした約一時間後のことだった。

 慌ただしい周囲の中で、小柄なその少女は九里香に微笑みを向けていた。


「すみません、九里香さん。混乱しているかとは思いますが、少しご一緒していただけませんか」


 そう言う彼女の視線は、九里香ではなく水槽の方へと向いていた。

 水流でコロコロと転がる人間の眼球。それをジッパー付きの袋で掬い取るダイバー。

 一生で一度見るか見ないかという光景を目に焼き付けるかのように、彼女はジッとそれを見ていた。


「……アレのことで何かあったんだな」


 九里香がそう言って分厚いガラス越しに指を向ける。その先にあった人間の手を見て、珊瑚は「はい」と目を細めた。

 珊瑚を追って向かった先は、水族館のバックヤードだった。湿った廊下を歩いて行けば、風景は次第にオフィスビルのそれへと変わっていく。並ぶ扉のうちの一つを、珊瑚が開ける。机と椅子とでシンプルに整えられたそこは、歩いた距離と水槽との位置からして、おそらくは会議室だろうと推測できた。


「おう、お嬢ちゃん。待ってたぞ」


 部屋の中、珊瑚を認識してすぐにそう声を上げたのは、一人の中年男性だった。ふと、その声に聞き覚えがあることを、九里香は思い出す。


「刑事さん?」


 九里香がそう呟くと、同じくその男も「あぁ」と声を上げた。正しくその男は、以前九里香を取り調べたあの刑事だった。彼は疲れたような表情で眉間に皺を寄せた。


「九里香さん、この刑事さん……榊さんは私たちのような者の事情をご存じの方です。警戒しなくても大丈夫ですよ」


 立ったまま動けずにいた九里香に、珊瑚はそう笑った。彼女に腕を引かれて部屋の中へと連れ込まれる。その手に冷や汗が溢れていたのに気付いたのは、彼が榊刑事の前に座らされてすぐのことだった。


「久しぶりだな。元気してたか城島さん」

「……今は玉依です。玉依九里香」

「あぁ、そういやそうだったな。まあ、今はそんなことどうでも良いんだが」


 半分本能的に、警戒せよと九里香の脳が言っていた。顔に出ていたのだろう。そんな九里香を見て、榊刑事はハハッと鼻で笑って見せた。


「いやわかってるって。須藤千晶が死んだのは怪異のせいだろう。その怪異に求婚されてたお前は、寧ろ被害者だ。何、心配するな。今回もお前を呼んだのは別に容疑者としてじゃない。お嬢ちゃんと同じ協力者としてだ」

「協力者ですか? 珊瑚と俺が?」


 九里香が問うと、榊刑事は足を組んで視線を流した。目を合わせた珊瑚は、彼に向けてにこりと柔らかく唇を上げた。


「こう言っちゃ何だがね。怪異ってやつは法じゃ取り締まることが出来ない。だから、こういうお嬢ちゃん達みたいな祓い屋の力を借りるってこともあるのさ」


 他でもやってることだ。と、彼は大きく溜息を吐いた。その挙動の一つ一つは、確かに珊瑚への信頼を示していると、九里香にもわかった。だが、それでもその隙間には、本来であれば頼りたくはないといったような、侮りにも似た何かがあった。


「前置きはこれくらいにしよう」


 腕を組んだ榊刑事は、そう言って九里香と珊瑚を見た。彼の言葉に、九里香の背筋が伸びる。「そうですね」と珊瑚が返したのを見て、榊刑事は続けた。


「前からな、この水族館の関係者が行方不明になる事例があったんだ。まあ、この街で行方不明になるってことはそこまで珍しい話じゃないけどな」


 そう言って彼は頭を掻き毟る。おそらくは、その失踪の捜査の進展が、今までに無かったということなのだろう。その瞳に一種の苛立ちを見て、九里香は口を開いた。


「何人も行方不明ということは、怪異が複数いるということですよね。それに、消えてるってことは、既に求婚を受けてしまったんじゃ……」


 いつぞやの珊瑚の言葉を聞くに、怪異との『婚姻』が成立し、人間が怪異と共に失踪している場合、それ以上珊瑚が出来ることは無いように思えた。言ってしまえば、珊瑚に出来ることは失踪を未然に防ぐことであって、失踪者を探し当てることではないのだろう。

 そうやって九里香が首を捻っていると、珊瑚が朗らかに彼の顔を覗き込んだ。


「九里香さん、この街で生まれた怪異……異形の花嫁達が求婚を断られた場合、どうなるか想像がつきますか」


 唐突な問いに、九里香は「は」と小さく口を開いた。


「求婚を断られた……つまり、フラれた時ってことか? そんなの、目的が達成できなかったんだ。自分から元の姿に戻るんじゃ無いのか」

「そういう方もいます。しかし、多くの方は違います」


 珊瑚は淡々と、だが柔らかな笑みを絶やさないままに続けた。


「新しい恋を探すのですよ。何故なら、あの方々は結婚するために姿を与えられた怪異。怪異として姿を与えられた時点で、その目的と方法はすり替わる」


 そういう呪いのようなものなんです。と、珊瑚は置いた。その一瞬だけ、彼女から表情が落ちた。


「求婚を断ること自体は可能です。結婚という契約の特性上、その権利は人間にあります。けれど人間ではない彼ら彼女らにそれが理解出来るとは限りません。粘着質にストーカーと化す者、無理矢理手込めにする者、新たな恋を探して新たな犠牲者を量産する者……概ねヒトに害が出るケースが殆どです」


 そんなの人間同士だって同じだろう。九里香はそんな感想を喉奥にしまいこんだ。一方的な好意が纏わり付く不快感を反芻しながら、彼は再び珊瑚の声に耳を傾けた。


「そして、求婚を断られる以外に、もう一つ。結婚に至らない場合があります」


 は。と、息を漏らしたのは、九里香ではなかった。榊刑事がそっと上半身を前に出した。


「求婚しているうちに、勢い余って人間を殺してしまった場合です」


 冷淡に、珊瑚がそう言った。歯を見せて笑う彼女に、榊刑事は再び「は」と声を漏らした。それは嘲笑ではなく、確かに驚きに近しいものだった。


「この場合、異形の花嫁達は、何度でもヒトを殺します。何故なら彼ら彼女らは、自らの求愛行動で死ぬ相手が、自らの求めていた相手である筈がないと考えるからです」


 ――――だって、それが彼女達にとっての『愛』なのですから。


 確かに彼女はそう呟いた。しかしその言葉を耳にしていたのは、九里香だけだったらしい。榊刑事は変わらず不思議そうに珊瑚を見ていた。


「そこで本題ですが」


 手を叩く。珊瑚が放ったその小さな衝撃で、九里香は背筋を伸ばした。己に向けて言っていることなのだと、本能的に理解していた。


「榊さんや飼育員さん同伴で、あのアカエイや他の腹部が膨張していた魚を解剖してみたんです。すると、胃袋の中からヒトの破片の他に、腕時計や結婚指輪なども見つかったんです。そこから身元の候補が見つかりました」


 ね。と、珊瑚は榊刑事と目を合わせる。すると彼は半分放り投げていた意識を元に戻して、「そうだったな」と懐からビニール袋を取り出した。


「秋元啓介さん。この水族館で初めて失踪した飼育員です」


 そう言って指し示す袋の中には、先程口にしていた指輪などの他に、角のすり切れたカードらしきものが半分に折れて入っていた。その一部に、確かに『秋元』という字が見えた。


「秋元さん以外にも、飼育員の失踪者が多くいるんですよ」

「その複数の失踪者っていうのが、勢い余って殺された奴らかもしれないってことか? なんでそう言い切れるんだ」


 九里香がそう言うと、珊瑚は「ふむ」と呟いて、言葉を選び始めた。数秒咀嚼するように口元を動かすと、再び彼女は舌を回した。


「この水族館に複数の花嫁花婿がいるなら、失踪者が飼育員に偏っている理由がわかりません。少なくとも、もっと子供や若い学生などが狙われているはずです」


 「加えて」と置いて、珊瑚は続けた。


「花嫁花婿以外の怪異による事件だとすれば、より特徴のある死に方や失踪状況があるはずです。例えば失踪直前に自傷行為をとるですとか、水の無いところで溺死してるですとか、長い髪の毛を喉に詰まらせて笑いながら死ぬとかですね」


 やたらと生々しい事例を挙げるものだ。と、九里香は首を傾げた。ふと、そんな彼の前で「そうだな」と榊刑事が呟いた。遠い目をする彼の表情を見て、九里香は二人の関係性を理解した。


「そもそも本来、怪異は何かきっかけになるようなことが無ければ、ヒトなど殺しません。つまり、高い頻度で同じ場所から失踪者が出るのは花嫁花婿くらいなんです。それに花嫁達だって、フラれたからと言って殺すより、手込めにしようと襲ってくる場合が多いんですよ。以前の白無垢の蜂娘のように」


 わかるでしょう? と、珊瑚は九里香の顔を覗き込んだ。彼女が九里香の反応を見て面白がっていることは明白だった。九里香はわざと眉間に皺を寄せて見せた。すると珊瑚は何事も無かったかのように続けた。


「ということは、まだ彼女……今回の異形の花嫁は、意中の相手を探している最中であり、その候補が見つかる度に何らかの行動で殺してしまい、遺体を何処かに隠してしまっているということです」

「その花嫁が求婚……探してる相手って言うのが、この水族館の飼育員ってわけか」


 九里香が納得を口にすると、珊瑚は再び柔らかく口角を上げた。


「実はもう一つ、面白い共通点があるんです」


 そう言って珊瑚は目を細めた。その表情に、九里香は覚えがあった。嫌な予感がする。反射的に彼の脳がそう言った。


「皆さん、既婚男性なんですよ」


 九里香は記憶を辿る。彼女の何処か嬉しそうな、楽しげな表情。ある昼下がりの、大学での出来事。意図不明の脈絡の中で、人生の岐路に突然立たせようとした、彼女の顔。


「――――九里香さん、ちょっと不倫していただけませんか?」


 彼女の、玉依珊瑚の微笑みは、相も変わらず甘くとろけるような柔らかさを保っていた。

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