怨讐の鬼女③
深夜の水族館。水槽の前で一人佇む九里香は、今日一日で何度吐いたかわからない溜息を再び吐いた。
「どうですか、何か変化はありましたか」
水の音が響くその隙間に、鈴を鳴らしたような少女の声を聞く。九里香は右耳を押さえた。人差し指に触れたイヤホンからは、珊瑚の「九里香さん」という呼び声が聞こえていた。
「特に変化は無い。眠っている魚も多いな」
ピンマイクに唇を寄せる。九里香の四肢が動く度、羽織った飼育員用のジャケットがシャカシャカと音を立てた。その雑音の中で、珊瑚は「そうですか」と僅かに落胆に似た声を落とした。
「注意深くお願いします。花嫁の姿を確認次第、私のいる会議室まで逃げてください」
「会議室まで追いかけてくるかもしれないぞ」
「それは大丈夫です。おそらく今回の花嫁は水槽付近から離れることが出来ないんです」
そう言って、珊瑚は囁く。隣に榊刑事がいるのだろう。九里香を置いて「説明しますか」と問う彼女の呟きがあった。
「既婚男性がいなくなる事例は、水族館以外で特に確認されていません。つまり、既婚男性を狙っているこの怪異は、最低限水族館から出ることは無いと取れます。更に水族館の中でもオフィス側……水槽の無い場所でしか働いていない方で、今のところ失踪した方はいらっしゃいません」
「となると、花嫁は水槽内の生物で、尚且つ水槽がある場所以外には出現できない生物ってことか」
「はい。これは私の経験からも言えることですが、正体となる生物によっては、活動不可能な環境があるのは確かです」
九里香への応答に「加えて」と唱える珊瑚の声は、いつもよりも何処か楽しげに聞こえた。
「花嫁が姿を現すのは人気の無い夜だけですので、夜間に水槽付近から全ての人間を閉め出しておけば良いとも思ったのですが」
「無理だな。飼育生物の生体管理がある以上、夜だろうが丑三つ時だろうが関係ない場合もある。飼育環境を調整すれば回数自体は抑えられるだろうが」
「はい。ですので、せめて深夜の勤務については、女性または独身男性に絞っていただくようお願いしました」
「……それじゃ、もう解決してないか。水族館から出られない花嫁、襲撃は夜。夜には帰る花婿候補。花嫁がターゲットの条件を変えてこない限りは被害者が出ることもないだろ。死体探しは必要かもしれないが、そういうのは警察の方の管轄じゃないのか」
「そういう考え方も出来ます。ですが、怪異を祓ってほしいという旨でご依頼を頂いてしまいましたので」
「警察からか」
「はい、表面上は榊さんからということになっていますが、事実上は署の方から。しっかりと手付金も頂いていますよ……――――いつかの無賃労働とは違って」
一際明るい声で、珊瑚は笑う。押し黙る九里香の表情が見えているのかはわからなかったが、彼女はコロコロと鈴を鳴らすように喉を鳴らした。確実に面白がっている。九里香が眉間に皺を寄せていることも、言いたい文句も言えないまま口ごもっていることも、彼女は理解した上で言っているのだ。
「というわけです。しっかりお仕事してください、旦那様」
どういうわけだよ。と言ったのは、九里香ではなく珊瑚の隣の榊刑事だった。了承も理解も口に出来ないまま、九里香は大きく溜息を吐いた。その音をしっかり拾うように、口元へピンマイクを当てる。
コロコロという笑い声が終わるよりも前に、九里香は再び足を前に出した。南方の海と書かれた札を流し見て、止まったエスカレーターを上る。順路と書かれた全てをなぞる。誰も触れないタッチプールの中を覗き見る。
――――本当に杜撰な管理だな。
九里香が見つけたのは、浮いたハゼの腹だった。膨れたそれは、九里香の知る限り腐敗の進んだ時に起きるそれだった。体色の褪せ具合からして、朝死んで、この時間まで放置されたのだろう。何処か岩の隙間に引っかかっただけかもしれない。それでも、もう少しどうにかならないものかと、首を捻るしかなかった。飼育員が消えているということに起因していることは、何となく九里香にもわかっていた。水族館飼育員で既婚。それだけである程度ベテランの側に入るのだろうということはわかる。それがごっそりいなくなるのだ。追加で人員を雇おうにも次々いなくなるのなら、経験の少ない新人ばかりになっても仕方が無い。
――――確かに、早急な対策が必要ではある、か。
一人納得を以て、九里香は溜息を吐いた。イヤホンから珊瑚の声は聞こえない。
静寂だった。昼間の水族館では絶対に得ることの出来ない、美しいとすら思える静音。水の流れる音と、心臓の如く動き続けるモーターの振動。その全ての役割を、九里香は知っていた。機器の品質は申し分ない。経験の不足を高性能な機器で補っている。直感的に九里香はそれを理解していた。
代わり映えの無い風景を捨てて、九里香は次第に耳を澄ませる方へ労力を注いでいた。たまにヒトの足音が聞こえる度、近くのバックヤードを覗き込んだ。扉を開けると、大抵は深夜の生体管理に勤しむ若い飼育員だった。
「あ、お疲れ様です」
五回目の遭遇を果たした頃、九里香にそう返した青年は、疲労感を漂わせていた。九里香とそう変わらぬ齢に見える彼のネームプレートには、『瀬川昭利』と書かれていた。
「いや、お疲れなのはそっちじゃないですか」
思わず零した言葉を拾って、瀬川は弱々しく笑った。「まあ、そうですね」と言う彼を見て、九里香は二秒ほど黙り込んだ。指先に貼られた絆創膏。覚束ない手先。彼の前で散乱する白い粉と割れたガラス。床を塗らすのは、机の上から零れた水。その全てを察して、九里香はピンマイクの電源を切った。
「それじゃ、作った人工海水に雑菌が入りますよ。集中切れてるでしょ。ガラスで手を切ったんですよね。化膿する前に治療しましょう」
「え、あ、はい。すみません。でも、水替えの時間決まってるから……」
「じゃあ俺がやります。人工海水の塩分の許容範囲と必要量教えてください。ゴム手一枚貰います。クリーンベンチ使うほど精密じゃなくて良いんですよね。とりあえず消毒用アルコールと滅菌した瓶の在庫は何処ですか」
溜息交じりにそう言う九里香に、瀬川は背筋を伸ばす。
淡々と指示をする九里香は、自分が酷く冷静なことに気付いていた。一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、日常に戻れたような錯覚。いつも研究室で動かしていたように、手が動く。怪異というものに関わるようになってから暫く触れることの叶わなかったそれに、今触れているという事実が異様に喜ばしかった。
「――――これで良いですね。フィロソーマを扱うのは初めてだったので、少し休憩挟んだら生存確認お願いします。死んでたら俺を殴ってくださって結構です。土下座します」
口が軽やかに動く。久しくこんな高揚を感じたことは無かった。指先をすりあわせて、九里香は興奮を抑えていた。
「あ、ありがとうございます……その、新人さんに大変な作業をやらせてしまって」
先程よりもずっと弱々しく、瀬川がその背筋を丸めてそう言う。何か一つ大きな勘違いをされている様子ではあったが、混乱させるべきではないだろうという配慮が、九里香の中で大きく動いた。
「俺が勝手にしゃしゃり出ただけですから。気にしないでください」
ですから。と、置いて、九里香は瀬川の背後に目を合わせた。
「とりあえず濡れた床を片付けて、休憩にしましょう。俺も一度、会議室に戻って――――」
九里香が指差し、瀬川が見たその床。水捌けを重視して貼られたタイルが並ぶそこは、確かに濡れていた。水を零した床を踏んで歩いていたのだから、それは当たり前のことだ。だが、違和感があった。
「何でこんな濡れてるんだ」
そう呟いて、九里香はふと瀬川の肩を見た。
濡れている。瀬川の肩が、腕が、手が、少しずつ濡れている。
水源を辿る。視点を少しずつ上に向けた。
「みつけた」
そう言ったのは九里香ではない。瀬川でもない。女の声。ガラガラに乾いた、到底美しいとは言えないそれは、二人の上から響いた。そこには何も無い。だが、確かに何かが存在していた。
咄嗟に、九里香は瀬川の腕を掴んだ。部屋の中、阻む物体の無い扉の前へ、足を出した。
その瞬間――――九里香の顔が濡れた。同時に、九里香の腕に電気が走った。否、それは痛みだった。何か針状のモノが刺さる感覚までを理解して、九里香は絶叫を噛み殺す。食いしばった歯茎から、僅かに鉄錆の味がした。
チカチカと破裂するような視界。白と黒を繰り返す一秒の後、九里香と瀬川の前で、生臭い布の塊が笑っていた。
まるで屎尿と山の泥水で染め上げたような疎らな褐色の布。それがいつの日か嫌というほど見た、あの白無垢の形をしていることに気付いたのは、九里香の肺に酸素が行き渡らなくなった頃だった。辛うじて見える視界に集中して、九里香はその女――――異形の花嫁の姿を認識する。
朽ちた角隠しの隙間から見える顔の皮膚は、岩のように歪な凹凸を見せる。ガマガエルにも似た唇の中には、到底人間の姿に似せているとは思えない尖った歯が並んでいた。上から下まで舐めるように見れば、でっぷりと膨れた、丸いシルエットが見て取れた。
これだけ情報があれば、俺だって特定できる。
興奮と痛みで冷静さを失った九里香の中で、そんな自信が湧き上がった。口元が緩む。無意識に、九里香はその指先を花嫁の鼻先に向けていた。
「俺はお前の名前を知ってるぞ、岩女」
正体を暴く。珊瑚の見よう見まね如きで状況が変わる筈がないのは百も承知だった。だが、興奮に反して状況を理解している脳の隙間が、九里香の舌を回す。
「その毒針……呼吸困難を伴う激痛、周辺環境に擬態する能力、現した姿は苔むした岩のような皮膚と、丸い形。顔は醜いガマガエルに似ている。お前の姿は醜い魚、その名は――――お前の正体は、『オニダルマオコゼ』だ」
九里香はそう唱えた瞬間、膝を床に付けた。背後で立ちすくむ瀬川の足にもたれかかった。下から女の角隠しの中身を覗き見る。その瞬間、目が合った。左右ぎょろりと別々に向く飛び出た眼球が、九里香を一斉に捕らえた。
「あなたはまた、そうやって」
涙ぐむような女の声が聞こえた。それが痛みから来る幻覚なのかはわからなかった。だが確かに、九里香だけは彼女の声を認識していた。
――――そうやって、わたしをおいたてるのですね。
その一瞬だけ、声は清廉に流れる川の水音に聞こえた。心臓の底を押すようなその感情の名を、九里香は知っていた。
寂しい。寒い。あぁ、これは、そうか、孤独だ。
九里香の脳内で、そんな答えがカラカラと回った。それを認識してすぐ、意識が白黒の繰り返しから灰色の砂嵐に変わっていく。霧散する認識の中で、九里香は僅かに、水の中へと何かが飛び込んだ音を聞いていた。
そして次に聞こえたのは、扉を叩き開ける音。
「九里香さん!」
可愛らしい鈴を鳴らすような声で、少女はその名を呼んだ。僅かに晴れた視界の中で、珊瑚の丸い目が揺れていた。
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