怨讐の鬼女④

 瞼を開ける。九里香の視界にあったのは、白い天井。この風景に彼は覚えがあった。

 病的に白いその空間は、病院の個室だった。掌大に切りそろえられたカット綿が、腕を覆う。そこに小さく穴が開いているのだろうということは、九里香にはわかっていた。もう焼けるようなあの痛みは無い。肩を回していると、視界の一部に黒を見た。そこには、見慣れた長い艶やかな髪があった。


「ずっといたのか」


 九里香がそう言うと、珊瑚が眉間に皺を寄せた。彼女は丸い目を細めて、九里香を見下ろした。


「一応、貴方の妻という立場ですから。付き添いの許可は頂けました」

「そうか」


 素っ気ない九里香の返答に、珊瑚は「あの」とだけ置いて、深く息を吸った。それが自らを落ち着けようとする彼女なりの制御だったらしい。


「状況は飼育員の瀬川さんの方からお伺い致しました。無謀なことをされるものですね」


 珊瑚にとって、それは精一杯配慮した上での言葉だった。加えて、怒っているのだということを、明らかにしようとしたのだろう。眉間に皺を寄せて、彼女は九里香を見ていた。

 だが、当の九里香は僅かに眉を下げるばかりだった。


「焦ってたんだ。俺だって危ないことをしたとは思ってる。ただ、あの状況じゃ」

「袋小路の部屋の中で、出口を塞がれたままで博打に出たのでしょう。お察しします。寧ろよくあの状況で正体を暴いたことは賞賛に値します。ですが、一歩間違えれば私が以前受けた以上の『罰』を受けていました。危険な行為です。それだけは理解してください」


 迫る珊瑚に、九里香は「わかったよ」とだけ落とす。彼の冷ややかな目線を見て、珊瑚は溜息を吐いていた。彼女が九里香の前でこれだけ不機嫌さを露わにしたのは初めてのことだった。


「なあ……お前の『祓い』と俺の行為の違いは何だ。正体を暴くだけなら俺にだって出来ている筈だ。実際にオコゼは俺を娶ることなく消えただろう」


 話を逸らす目的半分で、九里香は言った。その思惑を珊瑚もわかっているのだろう。口先に不快感を溜めて、彼女は数秒思案していた。


「あの花嫁や花婿を怪異として追い払うのか、怪異の姿から解放するのかです」


 そう言って、珊瑚は九里香の顔を覗き込んだ。互いの眼を見る。沈黙を破ったのは珊瑚だった。


「私は花嫁達を元の姿に戻すことが出来ます。これは怪異としての姿……神から分け与えられた姿を奪い、人間の認識する矮小なそれに堕とすということです」


 珊瑚は深く息を吸った。何処か少し、様子が異なっているように見えた。不機嫌とは異なる、違和感。九里香が、それが根源のわからない漠然とした不安であると察したのは、彼女が再び口を開けてからのことだった。


「この『祓い』は私にしか出来ません。他の人が同じ事をしても……師である父でさえも、正体を暴いたところで、彼ら彼女らを追い払うことしか出来ません。だから私は無報酬でも頼まれれば現場に向かいます。あの異形を祓うことが、私の生きている意味ですから」


 そう言って、珊瑚は口を閉じた。間髪入れずに、九里香は「そうか」と零した。


「反省しているんですか」

「どう受け取るかはお前次第だ。ただ、俺は今回の件について、お前に心配させたのだということは、理解している。反論は無い。その上で俺から言えることは……俺が博打に出たのは俺の性分のせいであって、お前が無賃労働だとか言ったせいではない、ということだな」


 ハッと鼻を鳴らして、九里香は珊瑚の顔を除き返した。下唇を噛む珊瑚に、九里香は「そういうところだよ」と口角を上げて見せた。

 実際、九里香に罪悪感に近しい感覚はあった。ただ、それ以上に、玉依珊瑚という人間が、奇妙なほど自分を安売りする人間性を持っていることがの方が気がかりだった。ぽろりと吐き出した『生きている意味』という単語が、九里香の脳の一カ所をくすぐったのだ。


「……本題に入りますが」


 顔をつきあわせた数秒後、珊瑚はそう言って九里香の額を人差し指ではじいた。


「九里香さんが刺された箇所の症状や瀬川さんの証言から考えても、あの花嫁はオニダルマオコゼで間違いないでしょう。今朝瀬川さんからいただいた飼育生物のリストにも、オコゼ類はメスのオニダルマオコゼ一尾しかいませんでした」

「そうか。で、今は昼間らしいが、そいつは見つかってるのか」

「いいえ。本来収容している筈の水槽からは発見されませんでした。現在、榊さん達が捜索中です。多分、何処かの水槽に潜んでいる筈です」

「監視カメラとかで追えてないのか」

「飼育員の失踪事件もあって何度か警察側でも確認しているのですが……どうも、かなりの頻度で故障しているらしいんです。今回も使用不可で……故障が確認される度に入れ替えてはいるそうです」

「あの花嫁の影響か」

「わかりませんが、あり得ます。彼ら彼女らに限った話では無く、怪異というものが機器に影響を与える事例はあります。以前のハバチ達についても、大学内の換気扇にある異物感知センサーが故障していたそうですし」


 そうか。と吐く九里香を見て、珊瑚は「はい」と結んだ。それ以上は何か伝えることも無いのだろう。珊瑚はそのまま九里香の隣に腰を落とし、同じ方向を見た。病院の白い壁を見るうち、九里香はふと口を開いた。


「なあ、少し気になったんだが」


 九里香がそう言うと、珊瑚は視線を動かさないまま「はい」とだけ呟いた。


「オニダルマオコゼが何で既婚の男を狙ってるんだ? ペアが成立したメスを奪ったり、ペアの産卵行動中に紛れて放精する種は魚類で知られているが……オニダルマオコゼのメスがそういう行動を起こすっていう話は聞かないぞ」

「私もそれが気がかりではあるんです。これが男女逆であれば何となく説明がつく生物種もあるのですが、今回は本当にわからなくて……もし、以前のように別生物の花嫁が存在していたとしても、所謂生物の中で、わざわざペアが成立した『オス』を狙うという種は少なくとも私は聞いたことがありません」


 珊瑚はそう言うと、考え込むようにして頭を掻き毟った。その様子を眺める九里香は、「追って申し訳ないが」と置いて口を開いた。


「もう一つ、アイツの言葉が気になってるんだ」


 九里香の言葉に、珊瑚は「言葉?」と訝しげな目線を向けた。今日は随分珍しい顔をするものだと、九里香は感性を飲み込んで、一秒かけて整えた言葉を並べ置いた。


「アイツ、俺が正体を暴いた時に『またそうやって追い立てるのか』って言ってたんだよ」


 昨晩の、あのくすんだ視界を思い起こす。澄んだ聴覚には、確かにあの声があった。


「九里香さん、ちょっと待ってください」


 困ったように眉を下げる珊瑚は、九里香の病衣の袖を掴んで、そう喉を鳴らした。地面を転がる鈴のようなそれは、慌てた様子で舌を回した。


「喋ったんですか、花嫁が」

「瀬川さんから聞いてないか。みつけたって声がして、それで気付いたんだ。アイツがいるってことに」


 どうにも噛み合わない。お互いに、お互いが何を言っているのか理解していない。そんな重く鈍い空気が流れた。その沈黙を破ったのは、珊瑚だった。


「九里香さん、この街の花嫁や花婿は喋りません。十数年彼ら彼女らと関わってきて、ヒトの言葉を発したところなど見たことがありません」

「でも、喋ってたんだよ」

「九里香さん、喋らないんです。だってアレらは全て、神そのものでもなければ人間でもないのですから、人間に理解出来る言葉を発する筈がないんです」


 混乱を飲み込んで、九里香は珊瑚の肩を掴んだ。その爪先に入った力を、深呼吸で抜き取る。その儀式めいた行為で、一瞬だけ脳の曇りが晴れた気がした。その隙間に、九里香は一つだけ思案を浮かべる。


「――――神そのものなら、喋るのか?」


 九里香がそう問うと、珊瑚は目を丸くした。瞬き二回。そして、小さく唇を開いた。


「そもそも神とは現実へ干渉する能力の強い怪異の総称です。雨を降らせるだとか、地震を起こすとか、そういうことが出来る怪異。私は実際に聞いたことはありませんが……そういった怪異に対して、神託という概念があるとおり、神から言葉を頂くということは、あるでしょうね」


 二人の間で、何か歯車のようなモノが噛み合った感触があった。互いの顔を合わせる。見合う顔には、興奮と焦燥感があった。


「すまんが、もう一つ良いか」


 九里香がそう言うと、珊瑚は無言で頷いて見せた。


「異類婚姻譚のことを思い出したんだが、神が動物の姿を取って人間に求婚するって話もあったよな。日本じゃ少ないかもしれないが、ギリシャ神話とかなら有名なのあっただろ」


 はい。と呟く珊瑚を置いて、九里香は再び口を開いた。その舌は僅かに震えていた。こんな答え合わせに何か意味があるのか。そんな問いが同時に飛び出そうになって、僅かに時間を置いた。整理した言葉を、九里香は並べた。


「もしも街の外の神が動物の姿を取って、何らかの理由でこの街に連れてこられて、誰かに惚れたとしよう。この場合も花嫁の姿を与えられることって、あるのか」


 答えは既に見えていた。しかし、九里香は珊瑚にそう問いを落とした。


「……リストを頂いたとき、瀬川さんから聞いたのですけど」


 間髪入れずに、珊瑚は口を開いた。問答としての正しさなど捨て置いて、九里香が欲する言葉を、珊瑚はただ唇に乗せていた。


「あのオコゼ、福岡の神社から寄贈された個体であるそうなんです。どうも、記録不明ですが国内最長寿の個体らしくて、末永く水族館が愛されるように、と……」


 そう言って、珊瑚は鼻から深く息を吐いた。同時に、九里香もまた溜息を吐いていた。二人の息が重なる。互いの吐息を吸って、二人は口を開いた。


「あの花嫁の正体は、オニダルマオコゼってだけじゃない。その前に、神だったんだ」


 そう吐いた九里香の前で、珊瑚は眉を顰めた。その表情に恐怖が含まれていることは、九里香の目にも見て取れた。

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