怨讐の鬼女⑤

 静寂と薄暗さが、時間と共に不安感を煽る。それが焦燥感という言葉に変わって、九里香の手に汗を握らせた。

 再び足を踏み入れた深夜の水族館。悠然と大水槽の上を泳ぐ巨大な魚影は、小さなイワシの群れ。仄かな光が反射する度、九里香とその隣に立つ珊瑚の顔を照らす。ビー玉のような珊瑚の瞳は、以前のような輝きを失っていた。


「もうすぐ日付が変わる」


 ふと、スマホの画面を見せながら、九里香が珊瑚にそう呟いた。当の彼女は「はい」と力無く返すばかりだった。


「お前から聞いたところによると、日付が変わる頃が一番出現する可能性が高いらしいが」


 そう言う九里香に、珊瑚は再び「はい」とだけ呟いた。どうしたものかと、九里香は頭を掻き毟った。頭蓋を僅かにでも揺らせば、思案の雑音が減った。


「何でそんなに震えてるんだ。花嫁の正体、わかってんだろ」


 俺にだってわかるくらいなんだから。と、九里香は珊瑚と目を合わせた。目線を逸らす彼女は、小さく息を吸った。


「それはそうですが。けれど、その」

「アレの正体が神であることが、何か問題か」


 九里香が言うと、珊瑚は小さく頷いた。


「……正直、八方塞がりなんです。花嫁の正体が神であるとするならば、正体を暴く意味が失われます。私は人智の範疇を超えた『怪異』から、生物学的分類……『生物的な種』として存在を引き摺り下ろし無力化することで『祓い』としています。つまり、神としての正体を暴くということは、怪異に別の怪異としての姿を与えるに過ぎません」


 だから。と、珊瑚は置いて指先を首に添えた。その爪が皮膚を抉ろうと何度も掻き毟っていることに気付いても、九里香は黙って彼女の言葉を待った。


「寧ろ、相手が神であるというなら、この街にしか存在し得ない、オニダルマオコゼの花嫁という形に縛ってしまった方が、良いとすら言えます」


 珊瑚がそう言うと、九里香は溜息交じりに口を開いた。それは呆れとも苛立ちとも言えた。


「かと言って、それじゃ被害者が戻ってくる可能性すら潰れるわけだ。戻ってくるのが死体だったとしてもな」

「それは……」

「それも嫌って面してら。結構わがままだなお前」


 自分が無理な論理を立てていることは、珊瑚もわかっていた。何故拒否もせず九里香と共に水族館へ戻ってきたのか、彼女自身も自分の言葉で説明することは出来なかった。


「なあ、珊瑚」


 名前を呼ばれて、珊瑚は九里香の顔を見上げた。冷淡な表情。ヒトの手で作られたような、正しく人形とも呼べる艶やかなそれからは、感情を理解することが出来なかった。


「俺に一つ良いアイデアがあるって言ったら、乗るか」


 突然何を言い出すのかと、珊瑚は「は」と声を漏らす。そんな彼女を見て、九里香は鋭い目元を更に細くした。


「俺が言う名前で、あの花嫁の正体を暴いてくれないか」


 何を。何を言っているのか。

 珊瑚が口を開くよりも前に、九里香は再び口を開いた。それは昼間の水族館で僅かに口角を上げて、水槽の中身を語っていた、そのときの様子とそっくりだった。


「病院で話したことをまとめると、あの花嫁の正体は『磐長姫イワナガヒメ』で間違いないだろう。この部分はお前と俺の見解は一致しているはずだ。妹と輿入れして一人だけ追い立てられた女神。既婚の男を狙う理由も、その逸話から来るものだろう。供え物としてオコゼを好むって話もあるし、当のオニダルマオコゼを送ってきた神社の主祭神は磐長姫だ」


 珊瑚がするような、訴えかけるだとか、畳みかけるという生半可なそれとは違う。九里香の口は、一種の脅迫にも似ていた。情報を並べ立てる舌は、珊瑚に問いを作る隙すら与えない。


「そこで、思いついたことがある。だが、お前達が『怪異』と呼ぶ者が『認識』に左右されるものだとすれば、俺が今からやろうとしていることの意味を、お前に全て説明する方が、失敗する確率が高い」

「そ、それはどういう意味ですか」

「どんでん返しが売りの小説を読むとき、どんでん返しがあるって知らない方が、心震える。そういう感じの『認識』の違いだよ。唱えるお前の意識に、雑音があっちゃならないんだ」


 九里香はそう言うと、珊瑚の手を掴んだ。その目線は既に珊瑚から外れていた。同じ方向へ目線を向ける。

 そこには水槽が、南方を泳ぐ色鮮やかな魚やイソギンチャクの群れが広がっていた。薄暗い水の塊に、照明が差す。水槽を彩るサンゴの並び。その違和感に気付いた瞬間、珊瑚は九里香の前に出ていた。


「唱える言葉と名前を俺と合わせろ。同じ言葉じゃ無くても良い。意味が同じならそれで構わない」


 セルロイドで出来た人形のような九里香の顔が、ガラスに反射する。虚無を湛えたそれは、珊瑚に囁き続けた。


「私は、貴女の名を知っている」


 水槽に向けて、唱える。珊瑚の視界は揺れていた。それは目の前が水に満たされているからではない。実際に、揺れたのだ。珊瑚の裏側、岩の壁。その色がぐらぐらと揺れて、鋭い歯を見せた。


 ――――オニダルマオコゼ。


 岩に紛れ、擬態を得意とする性質。丸い鰭と腹、鰭の各部に見える鋭い毒針。そして疱瘡にでもかかったかのような全身の皮膚。その全てが、確かにその魚であることを示していた。

 ガラスを隔てて、目が合う。かの女神はパクパクと口を動かしていた。ガマガエルにも似た口元は、常に笑っているように引きつっている。その歪に曲がった手が、反射した九里香の顔を撫でるようにガラスの表面を撫でる。

 反射的に、珊瑚は九里香を背で押していた。


「落ち着け、珊瑚。ガラスを隔ててる。すぐにはこっちに来ない」


 九里香がそう言った途端、巨大な岩が水槽の上部へ浮かんだ。それが目の前にいた花嫁であったことは、二人とも理解していた。


「アイツが神だろうが何だろうが、別に良いんだ。要はアレが『婿捜し』を終えてくれれば良い。そういうことだろ」


 迫る水音の中で、九里香は確かにそう珊瑚に語りかけた。甘い。けれど、芯の通った少年のような声。女にも聞こえるそれは、珊瑚の脳を冷やした。

 息を吸った。鼻から口へ、空気を循環させる。鼻腔越しに脳髄が冷気を感じているような気がした。


 キイ、キイきい。


 音がした。水槽のすぐ傍、バックヤードに繋がる金属の扉が、開いていた。


「私は――――私たちは貴女の名前を知っている」


 珊瑚が唱えた先には、水があった。滴る水滴の全てから、生臭さが広がっていた。珊瑚の頭に浮かんだのは、夕方に立ち寄るスーパーの生鮮売り場だった。それが十数倍の濃さで鼻を突き抜ける。むせかえりそうになった口を押さえつける。

 九里香の囁く声に、耳を傾けた。


「細石より岩となり、苔むす皮膚は永久不変を示すもの」


 ぺたり。『それ』が歩いた。一歩、一歩、僅か数センチずつ、水分と粘液が二人ににじり寄る。口を開いた。それがわかったのは、鼻が麻痺する程の、腐った沼のような臭いがあたりに振りまかれたからだった。


「永劫の祈りを裏切られ、呪いを吐いたその御姿は、正しく、怨讐の鬼女」


 珊瑚がそう唱えた瞬間。臭いが消える。代わりに、視界がその異変を悟った。

 苔で覆われた襤褸切れのような白無垢。その花嫁が、顔を上げた。ぎょろぎょろと動く眼球は、珊瑚を捕らえていた。肉食を主張する鋭い歯を覗かせて、彼女は笑っていた。


「……その背にあるべき者は八島士奴美神ヤシマジヌミノカミ


 一瞬。その、一瞬。九里香と珊瑚がその神の名を口にした時。白無垢の女の歩みが止まった。音も無く、彼女は目だけを動かしていた。珊瑚と九里香を見ていたその視線が、周囲に散らばっていく。何かを探している。その動きを見れば、誰もがそう思った。


「その御名……あるべき御姿は、貴女の名は――――」


 息を、吸う。声が裏返ろうとする珊瑚の肩を、九里香がそっと撫でた。一瞬だけ遠のきそうになった意識を、珊瑚は呼吸と共に取り戻す。


木花知流比売コノハナチルヒメ――――散る花の実を結び、その先の、巡る命の永劫を知る者」


 自分の舌に触れたその名が、酷く優しい響きをしていることを、珊瑚はただ、実感していた。

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