怨讐の鬼女⑥
珊瑚が口を閉じる。
その瞬間、花の香りがした。桜のような、ほんのりと苦みを含んだ甘い香りが。
香りが鼻から脳へ運ばれた時、珊瑚と九里香の前には、黒く真っ直ぐな長い髪を伸ばす女がいた。女の着る白い着物は白無垢ではない。それは巫女の装束を連想させた。巫女装束の女は、一度も振り返らないまま、暗い水族館の廊下を歩いて行った。
その女がいた場所にあったのは、水溜まりと、その上で跳ねる丸い岩のような何か。
それに歩み寄ったのは、九里香だった。一種の確信を持った表情で、彼はその跳ねる岩を足先でひっくり返した。
「オニダルマオコゼだ。まだ生きてる。珊瑚、瀬川さん達を呼んでくれ」
九里香の指示に、珊瑚は目を丸くしつつも頷いた。彼女の指先は、スマホに向いていた。目線を上げる。監視カメラへ視線を合わせた。
「瀬川さん、終わりました。急いで水槽前までいらしてください。榊さんと海水を入れたバケツもご一緒に」
珊瑚はスマホにそう語りかけた。「はい」と慌てた声が、スマホのスピーカーから聞こえた。手早く耳元からスマホを離した。
「あとの処理は瀬川さん達に任せましょう。怪我はありませんか、九里香さん」
珊瑚はそう言って、九里香に駆け寄った。当の彼は目線を逸らすこと無く、小さく「あぁ」と口を開いた。
「特に無い。お前の方はどうだ。痛みだとかは無いのか」
「ありません……つまり、貴方の試みは成功したということです」
そうか。と、ただそれだけを呟いて、九里香は頭を掻いた。珊瑚は、彼の顔から彼の見ている方向へと視線を移した。その先にはピチピチと跳ねる魚がいた。
「古事記にしか出てこないが、木花知流比売は磐長姫の別称という説がある」
ふと、九里香はそう置いて、小さく溜息を吐いた。それは疲労感よりも達成感に近いものが強く含まれていた。
「古事記では、木花知流比売は八島士奴美神の妻になったと記載されている。嫁ぎ先を追い立てられた女神を磐長姫、その後に夫を持った女神としての名を木花知流比売とするなら、お前がそう呼べば、既婚の女神の姿……木花知流比売となってもう婿捜しなど止める……花嫁の姿を奪うことが出来ると考えたんだ」
彼の言葉は冷淡だった。だが、確かに珊瑚へ向けて、語彙を整えようとする意思が見えた。
「……だが、磐長姫が木花知流比売だっていう論拠はない。一部界隈の説でしかないからな。肝心のお前が『間違えた』という認識になるかもしれないと思ったんだ」
「だから説明が出来なかったんですね。私の『認識』が、私の『祓い』に大きく影響を及ぼすと理解して」
「一か八かの大博打ではあった。もしもお前が木花知流比売を知っていて、磐長姫と別の神だと考えていたら、失敗していただろう」
「木花知流比売なんてそんなマイナーな神様、普通は知りませんよ……」
だろうな。と、九里香は鼻を鳴らした。それが嘲笑だということを、珊瑚も理解し始めていた。
存外、よく笑う人かもしれない。
珊瑚の脳の片隅に、そんな感想が浮かんだ。思えば度々、彼は仄かに息を漏らすことがあった。それが全て笑みなのだとしたら、かなりツボが浅いのではないか。
そんなことを考えているうちに、二人へと駆け寄る複数の足音が聞こえた。プラスチックが叩きつけられる音と共に現れたのは、瀬川と榊だった。
「お、お二人とも、ご無事ですか! って、うわっ! 早く水に戻さないと!」
瀬川はそう言って、二人の前にバケツを置いた。溢れる海水の中へ、飛び跳ねるオコゼを入れる。九里香達の返答を待たないままに、瀬川はそのままバックヤードへと消えていった。
「一人で騒がしい奴だな」
榊刑事は、二人の前でそう呟いた。
「まあ、とりあえずは、だ。二人ともご苦労さん。後の……いなくなった飼育員達の捜索はこちらに任せてくれ。花嫁がいなくなったなら、自然と見つかるようになるだろう」
いつものことだからな。と、彼はそう言って眉を下げた。その疲労感は、彼のこれからの仕事量を物語っていた。
「それでは、私達はこれで失礼したいと思います。今後、行方不明者の捜索に手こずるようなら、別の祓い屋をご紹介致しましょう」
「わかった、覚えておく」
珊瑚の言葉に、榊刑事はそう置いた。
「とりあえず、今日は俺が送る。付いてこい」
ありがとうございます。と、慣れた様子で珊瑚は榊刑事の後ろへついて歩いた。それを追いかけるようにして、九里香は二人の後ろをとった。
水族館の裏口には、数台のパトカーが停められていた。白と黒の並びの背後、古い国産車の扉を榊刑事が開ける。それが彼の私用車だったらしい。何の躊躇いも無く後部座席に乗る珊瑚の隣に、九里香は腰を落ち着けた。
「榊さん、私はいつも通り自宅へ送ってください。九里香さんは……」
「俺は適当な駅前で落としてください。近くのファミレスで一晩過ごします」
珊瑚と九里香がそう揃って言うと、ミラー越しに榊の曲がった眉が見えた。恐らくは「お前ら夫婦だろ」とでも言いたかったのだろう。だが、二秒ほど置いて、彼は「わかった」とだけ呟いて、アクセルを踏んだ。
数分、エンジンに揺られているうちに、ふと九里香の肩にぬくもりが落ちた。それが珊瑚の頭だということは、見なくともわかった。
「嬢ちゃん、今日はいつもより疲れてるみたいだな」
赤信号で車が止まる。その瞬間、榊刑事がそう呟いた。
「そうなんですね」
「労ってやれよ、旦那だろ」
榊刑事の言葉に、九里香は僅かに眉を顰めて見せた。
「俺はこいつの旦那って、言うか、その」
「揶揄っただけだ。気にするな。事情は嬢ちゃんから聞いてる」
薄ら笑いを浮かべて、彼は再びアクセルを踏んだ。街から外れた漁港付近から繁華街へと向かうその道は、次第に明るくなっていく。
「……榊刑事は、こいつとはいつから知り合いなんですか」
ただ過ぎる時間の中で、九里香が問う。すると、榊刑事はそれを予想していたかのように軽く舌を回した。
「そうだな。怪異事件の担当になってからずっとだから……十年くらいか。初めて会ったときはまだ小学生だったが、親父さんと一緒に現場にも出てたからな」
「珊瑚の父親って」
「祓い屋だよ。玉依家は昔からこの地域で活動する祓い屋なんだ」
「だから自分の父親を師だと?」
「それもあるだろうが……多分、親父さんの方が父親と呼ばせたくなかったんだろうさ」
そう言って、榊刑事は一秒だけ唇を歪ませた。一瞬の躊躇いを置いて、彼は再び口を開いた。
「血が繋がってないんだよ、親父さんとお嬢ちゃん」
その一言を耳にして、九里香の動きが止まる。思考を一度置いて、珊瑚の顔を見た。これが寝たふりではないことを祈りながら、九里香は「そうですか」とだけ呟いた。
何かしら事情がある。そんな予想はあった。
「その様子じゃ、お嬢ちゃんの母親のことも聞いてないんだろ」
続けざまにそう吐く榊刑事を、九里香は見た。現状の情報源は彼しかいなかった。だが、ミラー越しに目が合った瞬間、榊刑事は口を閉じた。
「気になるなら自分で聞いてみたらどうだ。一応、夫婦なんだからよ」
榊刑事の言葉に、九里香は反論を練る。だが、それが口に出るよりも前に、「それにな」と榊刑事は再び溜息を吐いた。
「お前も、自分の事情は話した方が良いと思うぞ」
何を。と、そう問い返そうとした時だった。九里香は彼の口から何が発せられるのか、理解した。息を止める。それ以外に、九里香に出来ることは無かった。
「『遺児』なんだろ、お前さんも。あの教団の」
何故それを知っているのか。尋ねる意味は無かった。九里香は押し黙ったまま、顔を下に向けた。
「ま、だからなんだって話だけどな」
榊刑事がそう呟いた後、二人が言葉を発することは無かった。
静かに夜が更けた。
翌日、昼のニュースでは、日本最高齢のオニダルマオコゼが死んだと、小さく報道されていた。
第二章:怨讐の鬼女〈了〉
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