孤独の神より①

 昼前の明るさを浴びながら、オークで出来た古い扉に九里香は手をかけた。見た目よりも重く感じられたそのドアノブを引き寄せると、カランカランと軽快な鈴の音が頭を揺らした。

 静かさが満たすその空間は、大学や駅から離れていることもあってか、客も数えるほどしか座っていなかった。カウンターの向こう側、暇そうに欠伸をかいたのは、ギャルソンコートを着た若い男。それがマスターであると気付いたのは、その男が「いらっしゃい」とぶっきらぼうに呟いてから一秒後のことだった。


「うち、全席喫煙可だから。嫌なら帰ってね」


 入り口で動かない九里香に、マスターはそう言って眉間に皺を寄せた。「は」と小さく威嚇する九里香は、すぐに首を横に振った。


「すみません、待ち合わせをしてるんです。赤い髪の……」


 九里香がそう言うと、マスターの男は「あぁ」と眉間の皺を緩めた。彼が無言で指し示した先は、店内の最奥だった。

 嗅ぎ慣れた煙に懐かしさを思い起こしながら、九里香はテーブルの前で立ち止まった。


「お久しぶりです、ミツキさん」


 そう声をかける九里香の口元には、僅かな華やかさがあった。そんな彼を見上げて、一人の男が歯を見せ笑った。緑の瞳と赤く燃えるような髪が、僅かに揺れた。


「元気だったか、九里香」


 赤毛の男――――韮井ミツキは、九里香の顔を覗き込んで、珈琲カップを揺すった。テーブルの中心に置かれた灰皿には、吸い殻が一本だけ落ちていた。


「まあ、座れ。驕るから何でも頼みなさい。ここのマスターは口と態度は悪いがそれ以外は完璧な男だ。何を作らせても美味いぞ」


 柔らかくも所々に見受けられる粗暴さに、何故だか安心感があった。九里香は「お変わりないようで」と小さく口角を上げた。その表情が、目の前にいるこの韮井という男とそっくりである自覚はあった。

 数秒を追って、マスターが溜息を吐きながら二人の横に立つ。九里香は韮井の持つカップを指差して「同じものを」と呟いた。厨房に戻っていくマスターを眺める九里香の前で、韮井は「さて」と声を置いた。


「こうして顔を合わせるのは高校卒業の時以来か。成人式は手紙で済ませてしまったからな」

「そうですね。いや、手紙だけじゃなくて、プレゼント……万年筆とかくれたじゃないですか。わざわざ名前彫ってるやつ」

「手紙への付属品だ。プレゼントの範疇に入らない」


 な。と、韮井は首を傾げて見せた。眉を下げる九里香を見て、彼は「まあ良いじゃないか」と緑の目を細める。

 その瞬間、韮井の顔から、表情が落ちた。


「さて、無駄話はここまでだ。わざわざ私を呼んだ理由を教えて貰おう」


 笑みの消えた顔は、セルロイドで出来た人形のようだった。欧州人を思わせる顔立ちが、その無機質さをより際立たせた。


「懐かしさを感じた私がお前を呼ぶならいざ知らず、お前からというのがどうにも引っかかる。何かあったんだろう。それも、瀬田教授も城島家も頼れない何かが」


 眉一つ動かさずに、韮井は続けた。まるで尋問のようだった。初めて見る彼の表情に、九里香は息を飲んだ。


「ついぞ、お前も」


 韮井が言葉を重ねる度、九里香の鼻に甘い果実のような香りが突き刺さった。甘さの隙間には酸っぱいような、苦いような臭いが挟まれる。それを腐敗臭と呼ぶのだということは、九里香もわかっていた。だが、そんな臭気が喫茶店という飲食店の客席で漂う意味を理解することは出来なかった。


「お前も、神に魅入られたか。他の連中のように」


 腐臭に混じって、韮井はそう呟いた。彼の翡翠のような目は、ただ九里香だけを見ていた。問いかけているのだ。応えろ。そう命令されていた。


「何かあったんですか、俺以外の『遺児』にも」


 どうにも話が食い違っている気がした。より正確に言えば、九里香の理解の、その更に数歩先に韮井がいる。九里香の理解不足を、韮井は理解していない。そんな歯車が離れすぎているような食い違いがあった。


「……なるほど、お前は被害者側か」


 そう言って、韮井は大きく溜息を吐いた。その瞬間、緊張の糸が途切れた。同時に、空間を支配していた腐敗臭が失せる。華やかな珈琲と紫煙の香りが、九里香の暴れていた心臓の動きを鎮めた。


「驚かせてすまなかった。説明は改めてする。その前に、お前の話を聞こう。お前の身に何があったのか。何に困っているのか」


 韮井の表情は、打って変わって砕けたそれに変貌する。いつも通りの気さくさを取り戻した彼に、九里香は狼狽えつつも口を開いた。


「俺、結婚したんです。怪異からの求婚を断るために――――」


 この一ヶ月のことを、ただ、淡々と零す。説明とも呼べないそれを、九里香はどうにか言葉にしていく。口に出せば出すほど、自分がどれだけ状況を飲み込めないままでいたのかがよくわかった。非現実的な「そうとしか言えないこと」をそのまま垂れ流した。そんな困った表情の九里香を、韮井は何の反応も無く見ていた。相槌を打つような首の動きが、辛うじて九里香の話を聞いているという合図になっていた。


「――――……なるほど、困ったことになっている。そして、私を呼んだ理由も概ね理解した。この街の異類婚姻譚に巻き込まれ……神罰を受けない理由や神の声を聞いた理由、それに関わっていそうな『遺児』と『夜咲』について知る必要が出たわけだ」


 九里香が全てを履き終わった後、一拍置いて韮井はそう言った。煙草の先に火を灯す。口の中で転がした煙を吐いて、彼は再び唇を震わせた。


「この街の怪異については、私も聞いている。私たちの界隈では有名な話だ。この街全体が『異類婚姻譚』を作り出す神の庭になっていると」

「やっぱりミツキさんも祓い屋なんですか?」

「自分からそう名乗ったことは無い。どちらかと言えば怪異を研究する者だ。まあ、祓い屋の中に既知の人間は多い上、お前を保護した頃は似たような活動をしていたし、当時一緒に乗り込んだのは祓い屋連中だが……」


 そう語る韮井の表情は、苦虫を潰したようなものに変わっていた。祓い屋という単語を好まないのだということだけは、九里香にもわかった。


「そうだな、まずは『夜咲』について軽く説明しよう。そうでなければ遺児についても説明しかねる」


 一転、韮井はそう置いて、九里香の目を見た。自然と背筋が伸びた。そんな九里香を見て、韮井は僅かに視線を落とした。


「夜咲とは――――夜咲家とは、自らを生きたまま『神』とすることを目的とした血族集団だ。彼らは『ヒトの形をしていて人間ではないもの』を神と捉えた。故に、『人間でなくなるため』に様々な実験や禁忌を繰り返した」


 その先にある言葉を、九里香はぼんやりと予測していた。彼の脳裏に浮かんだのは、あの何も見えない暗闇だった。


「まあ、犯した禁忌は、近親相姦や人肉の常食など、おままごと程度のものだ。あまり気にすることではない。お前にとって重要なのは、『実験』の方だ」

「実験……俺が暗闇で飼育されていたのも、もしかして」

「察しの良さは褒めてやる。お前を保護したのは夜咲家の総本山の最奥、光の一切入らないよう加工された岩窟の中。当時回収された文書から推察するに、そこでは『神の外戚になる』という試みが行われていた」


 外戚。九里香がそう反芻すると、韮井は灰皿に煙草を擦り付けた。珈琲を一口啜ると、彼は頬杖をついた。


「そのままの意味だ。身内を『神と呼ばれるもの』と結婚させようとしたんだ。上手くいけば神の子を自分たちの血に混ぜ合わせることが出来るとも考えたらしい。ま、古い時代ならその理論が通用したんだろうが、現代では難しかったんだろう。岩窟の内部は大量の乳児の骨が散乱していた。人間で生きていたのはお前だけ。他には多種多様な動植物が同じ空間から生死問わず発見された」


 心当たりがあった。暗闇の中の、あの鮮明な鳴き声。それらが何であったか、九里香は理解する。韮井の言葉を借りれば、それらは『神と呼ばれるもの』の一部であり、九里香はそれに娶られることを目的とした『夜咲の子』あるいは『夜咲の血族』なのだろう。僅かにハマった記憶のピースが、九里香から吐き気を引き出した。


「……お前が城島さんの養子になるまでの……子供の時分にこれを説明しても、お前は理解出来なかっただろう。本来なら、こんな話は墓場まで持って行くべきだった」


 すまない。と、韮井は九里香の顔を覗き込んだ。その顔から血の気が引いていることくらいは、本人だってわかっていた。だが、その表情を見ても、韮井は「続けるぞ」と再び口を開いた。


「このような実験を生き残り、夜咲家から保護された子供達を総じて我々は『夜咲の遺児』と呼んでいる。だが遺児には大きく分けて二つのパターンが存在していた」


 韮井はそう言って、人差し指を立てた。九里香がその指に注視したのを確認して、彼は続けた。


「一つは夜咲の血族であるもの。多くが近親相姦によって生まれ、血族の中の誰が親で誰が兄弟姉妹かもわからない。そして、皆が『いつか神になるもの』として扱われていた」


 その言葉尻を合図に、韮井は二本目の指を立てた。溜息交じりに開いた口は、今までで一番重く感じられた。


「もう一つは、夜咲の血族ではない者。この子供の多くは、誘拐や人身売買によって『補充』されていた」


 えらく無機質な言葉を使うものだ。九里香がそう感じるよりも前に、韮井は眉間の皺を深くしていた。


「夜咲家は自分たちが神になる者だと信じて疑わなかった。加えて、神には仕える者が必要だと考えた。故に、穢れの無い子供を教育し、夜咲の巫女や神官とした。二十年ほど前には大規模な拉致事件を起こしている。特に好まれたのは、神社の宮司家系の子女だった。だが、神社の関係者には怪異を知る者も多く、この拉致事件がきっかけとなって夜咲家の解体が計画されたんだ」


 淡々と零れていた言葉に、熱が籠もる。だが、その熱を代替するかのようにして、韮井は再び煙草に火を灯した。煙を吐く彼の隙を突いて、九里香はハッと口を開いた。


「その、血族ではない遺児は……その生き残りはいるんですよね、今は何処に」

「さあな。身元がハッキリしている子供達は家族の元に帰されたし、それ以外はお前や他の夜咲の子のように養子に出されて、怪異とは無関係な生活を送っている筈だ。どうしても一般家庭に馴染めない子供は別にしてな」


 そして。と、韮井は再び眉間に皺を寄せる。その彼の険しさには、何処か新鮮味があった。


「どういうわけか、その遺児達がここ最近になって怪異関係の事件を起こしている――――『神』に仕える者として」


 眼光が、緑色に鋭く光る。だが、韮井はすぐにその表情を崩した。


「だから俺に『お前も』と」


 九里香がそう呟くと、韮井は「そういうことだ」と困ったように眉を下げた。


「事情を聞かずに警戒してすまなかったな」

「いえ、そんな……俺も、最近までそんな怪異事件が起きてるなんて知らなくて、その、お忙しい中お呼び出してしまって」


 九里香の慌てように、韮井は「いや」と小さく否定を置いた。彼は冷めた珈琲を飲み干すと、赤い頭を掻き毟った。


「丁度、お前が連絡してくる直前に、この街で仕事の依頼があったんだよ。お前の呼び出しに素直に応じることが出来たのも、それが理由なんだ」


 依頼。と九里香は反芻する。すると、韮井は柔らかく唇を開いた。


「知人の娘さんがな、蛇に取り憑かれたんだと」


 呆れた様子でそう笑う韮井を、九里香は苦く微笑み返した。そんな九里香のジーンズから、不意に震動が響く。おもむろに取り出したスマホの画面には、『珊瑚』という名が通話ボタンと共に表示されていた。

 

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