孤独の神より
孤独の神より プロローグ
夏が、窓の向こうに迫っていた。
自室で目を覚ました九里香が、庭に目を向けた時、頭に浮かんだのはそんな言葉だった。新緑は深く青臭いそれに替わっていく。春を思わせる仄かな色合いの花々は、いつしか濃い赤や紫を放つ朝顔などと場所を入れ替えていた。
ふと、そんな色鮮やかな隅に、蠢くものがあった。ブルーグレーの頭を持ち上げて、黄金の瞳を九里香に向ける。それがオオタカと呼ばれる生物であることは、いつかの病室で知っていた。
上半身を起こして、九里香は窓ガラスに手を置いた。
「……毎朝毎朝、ご苦労なことだ」
オオタカは歩行に向かない足を前に出して、庭を横断する。その口元には首の折れたスズメが血を流して揺れていた。
「絶対に受け取らないからな。お前が喰えよ」
丸い金の瞳に、九里香はそう呟いた。感情の見えない鳥目から視線を逸らす。部屋の襖に目を向ければ、小さい隙間から、もう一つの丸い目が見えた。
「九里香さん、おはようございます。朝ご飯はまだですか」
目があったのを皮切りに、珊瑚はそう微笑んだ。
オオタカの事件以降も、珊瑚の調子が変わることは無かった。毎朝飼い猫二匹と共に九里香を起こし、朝食の用意を要求する。そして箸を付けるかと思えば、夕飯のリクエストをして、昼食用の弁当の中身について問うのだ。
――――正直、助かる。
九里香は茶碗三杯の白米を平らげる珊瑚を見て、そう溜息を吐いた。心遣いか、それとも何も考えずに行動しているのかはわからなかった。ただ、偽りでも珊瑚が「普通」や「日常」を目の前で繰り返す姿は、あの病室での一件を無かったかのように錯覚させてくれていた。それが、僅かでも九里香の精神の濁りを抑えていたのは、確かだった。
「そういえば、九里香さん」
九里香が自分の食器を片付けている時だった。ふと、珊瑚が茶を啜りながら笑った。彼女は九里香と目を合わせると、その丸い目を細めて、冷蔵庫を指差した。
「今朝、瀬川さんから謝罪のケーキを頂きました。隣の市の、有名店のやつですよ」
うきうきと浮ついた口元で珊瑚は言った。「寝る前のおやつにしましょう」と言う彼女に、九里香は首を傾げて見せた。
「謝罪ってなんでまた」
「私のいた病室に、怪異が侵入した件についてですよ」
珊瑚の答えに、九里香は息を止めた。そんな彼の様子を察してか、珊瑚は肩をすくめて眉を下げた。
「瀬川さんが悪いという話ではありません。ただ、誰かしらの悪意が関わっているということだけ、九里香さんも確認しておいてください」
微笑みを絶やすこと無く、珊瑚はそう語る。九里香は腰をシンクに預けて彼女を見下ろした。崩れない彼女の柔らかな表情が、一転して不気味だった。
「九里香さんが瀬川さんから頂いたお茶から、睡眠薬が検出されたそうです。ペットボトルの上部に小さな穴も空いていたそうですから、おそらく注射器で注入したものを自販機の取り出し口に置き、瀬川さんに取らせたのだろうと」
「何故それで瀬川さんが仕組んだことじゃないと言える。瀬川さん自身が薬を入れた可能性だってあるだろ」
「榊さんと一緒に、自販機を映した防犯カメラを確認しましたが、確かに瀬川さんにお茶を勧める男性看護師の姿がありました。瀬川さんの良心を利用したヒトがいることは確かでしょう」
「つまり……その看護師が瀬川さんに薬入りの茶を掴ませて、俺に飲ませた上、その後病室の窓を開けて、花婿が入れるようにしたってことか」
「はい。怪異が近くにいたことで、病室付近や屋外の一部防犯カメラは使用不可能になっていました。ので、病室への侵入した様子を確認することは出来ませんでしたが」
珊瑚はそう言って、茶を口に含んだ。喉が膨らんだ次の瞬間に、珊瑚の閉じた唇が再び開く。
「なので、瀬川さんが謝罪する必要は無いのですが……私へのお見舞いも兼ねてということだったので、受け取っておきました」
珊瑚の言葉に九里香は「そうか」とだけ零した。それ以上の言葉が無いことを確認して、珊瑚は再び目を細めた。
「それでは、私は二限から講義があるので、そろそろ出ますね」
そう言って、珊瑚は腰を上げた。部屋の隅に置いていた鞄を肩にかける。そんな彼女を見て、九里香もポケットの中のスマホへ目を置いた。
「あぁ、そうだな。俺もそろそろ出る」
「九里香さんも大学ですか」
「いや、今日は瀬田先生が出張だからな……別件だ」
別件。と、珊瑚は九里香の言葉を繰り返す。玄関口、靴に足を入れる珊瑚を眺めながら、九里香は小さく口角を上げた。
「俺の過去について知っていそうな人に、会いに行ってくる」
九里香がそう呟くと、珊瑚の背中が石のように固まる。足下を揃えて、珊瑚はそのまま九里香に背を見せたまま口を開いた。
「その方は」
短い問い。その簡潔さに、九里香もまた短く応えた。
「
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