貞潔な翼⑥

 そのまま動かなくなった九里香のうなじを、珊瑚は冷えた指先で撫でた。息をしていることだけはわかるその丸まった背中に、頭を置いた。両手を添えようとして、繋がっていた管がブチブチと音を立てて外れた。針の刺さっていた小さな穴から、赤黒い血液が滲んで、九里香の浴びた返り血と混ざった。


「わかりました。大丈夫です、九里香さん。貴方が何者であっても構いません。知りたかっただけなんです。今まで起こらなかったことが、貴方の周りでばかり起こるその理由が、知りたくて、ただそれだけだったんです」


 そう呟いて、珊瑚は九里香の背を撫でる。それは幼い子供をあやす時のように、滑らかな慈愛に満ちていた。

 静けさが、珊瑚の指先から感覚と温度を奪う。九里香の背を伝う熱は、彼女から流れた血液に由来していた。上下する九里香の背骨の感触を頬に当てたまま、珊瑚は唇を震わせた。


「大丈夫です、眠ってしまっただけですよ。何か、薬を盛られたのでしょう。目が虚ろだったのも、支離滅裂だったのも、それが原因です」


 そう言って、珊瑚は小さく溜息を吐いた。丸まった九里香の背を伸ばすようにして、彼の上半身をベッドの上に置いた。仰向けになった九里香はすうすうと寝息を立てる。その表情は穏やかだった。


「おそらく死ぬような量ではありません。ですから、安心してください」


 珊瑚の言葉は、病室の誰にも向けられていなかった。彼女は穏やかに眠る九里香にシーツをかけ、ゆっくりと振り返る。彼女の目線は、開いた窓へ向いていた。街灯を遮るようにして、蒼く巨大な影が病室の床に落ちる。それは床に転がる死体と形は似ていた。だが、その眼光は黄金にも似ていた。


「このような穢れた場所しかご用意できずに申し訳ございません」


 金の目に向かって、珊瑚はそう頭を下げる。その頭をこつんこつんと突くのは、鳥類の嘴を模した仮面の、その尖った先だった。それが面を上げろと言っているのだということは、言葉のわからない珊瑚にも理解出来た。

 顔を上げる。その視界には、丸い金の瞳が浮かんでいた。無に徹した男の顔だった。紋付き袴に似た服装は、街灯で蒼く輝く。

 数秒、珊瑚はただ黙ってその男の顔を見ていた。「九里香に似ている」そう感じ取ったのは、気のせいでは無かった。珊瑚は一歩身を引いて、ベッドから降りた。空いたベッドの上、転がる九里香の上半身の傍に、蒼い身体が降りる。「二人」の目の形は、写し描いたようにそっくりだった。


「……幼鳥の方は貴方を真似て、一ヶ月ほど前から花婿になっていたのですね。そして彼の方は、当初求愛していた相手を激しい求愛行動で殺してしまい、その後も何度も相手を変え、そして私に求愛し……須藤さんを殺した方だと勘違いされて、九里香さんに殺害された。これが今に至るまでの顛末……と言ったところでしょうか」


 珊瑚はそう言って、ベッドの隅に腰を下ろした。ぎしりと音を立てたのは、わざとだった。男の金の瞳が珊瑚に向く。彼は静かに珊瑚の言葉を聞いていた。


「貴方は九里香さんに求愛などしていなかった。する気も無かった。いえ、他の誰にもさせるつもりが無かった」


 目の前の異形が己の言葉を理解しているかどうかなど、珊瑚にはわからなかった。だが、黙って耳を傾ける素振りをしている以上、言葉を吐く以外に出来ることは無かった。


「貴方はずっと、九里香さんを守ろうとしていたんですね」


 返事は無い。だが、確かに彼には言葉が届いている。確信を持って、珊瑚はその金の目と視線を合わせた。


「九里香さんを傷つける人たちを、一人ずつ、少しずつ、千切り喰い殺していった。その惨状が、境内に蓄積されたあの死体の山」


 そう珊瑚が言った瞬間――――ぎい、ぎい、ぎい、ぎい。と、「それ」は大きく口を開けた。腐敗した肉の破片が珊瑚の頬に飛び散る。何か反論のようなものを唱えていることだけはわかった。


「申し訳ございません。私には貴方の言葉がわかりません。私は下賎な人間ですから、貴方のような神聖な方の声を聞くことは出来ません」


 表情を動かすことは出来なかった。言葉を紡ぐ以外のことを許されている気がしなかった。そうでなければ、張り詰めた糸のようなモノが、切れてしまうような気がした。息をする。そして、珊瑚は再び口を開いた。


「けれど、貴方の意思と、これまでの生を推察することは出来ます。言葉がわからなくとも、貴方が何者で、何故九里香さんを守っていたのか、何故この街に、十年以上もその姿で存在し続けたのか……それを探ることは、私にも出来ます」


 珊瑚がそう言うと、金の瞳が僅かにずれた。珊瑚の足先から頭の先、髪の毛の一本一本をなめ回すように視線を動かしていた。その眼球の動きは、回答を寄越せとでも言われているようだった。


「貴方の存在は、九里香さんの過去と何か深い関係がある。約十年前から多都川神社の境内に住み着いた貴方と、十一年前に『保護された』という九里香さん。貴方の九里香さんへの執着と……母性に近いその愛情。貴方は九里香さんの過去をご存じなのでしょう」


 珊瑚はそうして、己の手をその金の目の傍に置いた。未だ触れたことの無い九里香のものと似たそれは、滑らかだった。珊瑚が触れると同時に、見開かれていた金の目が細く弧を描く。それは三日月にも似ていた。


「……そして貴方はもう一つ、九里香さんと……私に、警告をしていた」


 縋るような声を、珊瑚は絞り出した。揺れた彼女の精神は、大きな隙を作っていた。珊瑚の腹部には、異形の鉤爪が置かれていた。それでも、病室に少女のハラワタが散ることは未だ無かった。


「須藤千晶さんの肉を境内に捨て置かず、九里香さんの前に運んだのは、求愛給餌ではありません。九里香さんへの警告であり、私と出会わせるための、一手だった」


 腹の表面を、爪先が、病衣の上からなぞる。薄皮から血が滲んだ。そうなってからすぐに、珊瑚の舌は滑らかに動いた。詰まる言葉も無く、ただ、淡々と、流れるように浮かんだ言葉を並べ立てていく。


「私にしか解決し得ないことが、九里香さんを襲っている」


 そんな結論を置いた時、金の目を「それ」は見開いた。


「もう貴方ではどうしようもないことが、起きている」


 珊瑚の言葉に合わせて、それは彼女の顔を覗き込んだ。そして静かに目を閉じた。九里香と珊瑚の間に陣取っていた「彼」は音も無くベッドを降りた。同じ形をした、しかし色彩の異なる幼い鳥の上で、彼は翼を模した袖を揺らす。数秒の沈黙があった。それが珊瑚の言葉を待つものだということに珊瑚自身が気付いたのは、金の瞳が彼女を見上げて、三日月のように細く輝いた時だった。


「――――ご依頼、承りましょう。私が貴方の代わりに、九里香さんをお守りします」


 珊瑚はそう言って、「彼」と同じ床に膝をついた。目線を合わせる。言葉を発さなくとも、目の前にいるこの異形の花婿が、全てを理解した上で行動していることは、珊瑚にもわかっていた。


「お疲れ様でした、鷹の君。私に貴方の愛児をお任せいただけたこと……光栄に思います」


 深く、珊瑚は頭を下げる。床に指をついて、額をその指先につけた。


 ぎい、ぎい、ぎい。


 何処から発せられたかもわからない鳴き声が、珊瑚の脳に降り注ぐ。

 珊瑚はその声の元を、細い指で撫でた。九里香のそれと同じ細い喉に、人差し指を添えた。


「私は貴方を知っている」


 その言葉を放つ珊瑚の精神は、いつも以上に清涼だった。

 いつか珊瑚の父はこれを呪いと言った。だが、彼女の祖父は祝詞であると言った。今、珊瑚自身にとって、この言葉――――「祓い」がそのどちらであるかは明白だった。


「その御身は蒼き翼を――――貞潔な翼を持つ者」


 それ以上の言葉は不要だった。彼は彼自身のことをよく理解していた。自分自身が何者であるかを知る者に、定義を押しつける必要は無い。珊瑚は大きく息を吸った。


「その清き御名は――――『オオタカ』――――番うを望まず、ただ一人の親であろうとした者」





 ぎい、ぎい、ぎい。


 声がした。懐かしい声だった。暗闇の中で何度も聞いた鳴き声。それを九里香が思い出したのは、やはり暗闇しか存在しない夢の中だった。

 その夢が、過去の出来事を映すものだということは、その鮮明さから理解していた。何も見えない闇では、音と触感以外に状況を知る術が無い。故に、九里香にとっての「鮮やかさ」は音のコントラストによって作られる。

 鳴き声が、声が聞こえる。成人した九里香にはそれが日本語では、人間の言葉ではないことは理解出来た。だが、それが言葉であることは、夢にいる過去の自分が一番よくわかっていた。鳥の声が、犬の声が、猫の声が。蟲が、植物が、苔が、全てが九里香の頭の中を掻き乱す。情報が次々と流れ込む。それは言語だった。確かに、言葉ではあった。だがヒトのそれではない。体系的な存在では無い。文化的意味を持たない。それは意思であって感情であって、九里香に対する無差別の伝達以外の何物でも無かった。

 意味を解さない音は苦痛しか伝えない。痛みがあった。吐き気があった。痒みがあった。頭蓋の裏を這うような不快さが全身を満たす。耳が痛い。脳が痛い。首が、肩が、じくじくと蟲の這うような痒みを伴う。吐き気がする。吐き気がする。吐き気がする。胃液は吐き終わった。あとは内臓くらいしか自分の腹から出せるモノが無い。


 苦しくて叫んだ、かもしれない。その時、叫ぶという行為のやり方を、知る術が無かった。だから、叫んではいなかったかもしれない。


 薄らと俯瞰する九里香は俯瞰する。記憶は鮮明だが、視覚の情報が無い。だからこそ、自分が何をしていたか、経験の情報が不足していた。


「クリカ」


 ふと、覚えのある言語が聞こえた。名前を、誰かが呼んだ。ころころと鈴を鳴らすような少女の声が、耳の中で震えた。


「大丈夫だよ、クリカ。もう少しの辛抱だよ」


 少女の声に聞き覚えがあった。その声を、九里香は数分、数秒前にも聞いていた。確かにその声を、成人した九里香は知っていた。


「結婚したら、ここを出られるんだよ。クリカも、私も」


 珊瑚はそう言って、確かに、暗闇の中で明るく笑った。




「……九里香さん、九里香さん」


 視界が、白くぼやける。暗闇では無い。広い視野にはコントラストがあった。白い天井はつい最近も眺めたばかりだった。


「……さ、珊瑚……?」


 呂律の回らない九里香は、そう名前を唱えて、丸い瞳の少女を見た。ぼんやりとした視界の中で、珊瑚の瞳だけがはっきりと見えた。


「良かった、意識は明瞭ですね」


 そうやって微笑む珊瑚は、濡れたタオルを九里香の顔に添える。彼女の手には、何か赤黒い粘液を拭ったような、薄らとした赤みがあった。


「おい、目が覚めたなら事情聴取するぞ。全く、何をやらかしてくれたんだ今度は」


 ハリのある男の声が、二人の間に響いた。榊刑事は眉を顰め、九里香を見下ろした。

 重だるい上半身を持ち上げて、九里香は辺りを見回す。ふと、足下には足の折れた椅子と、乾いた脳、そして頭蓋の割れた和装の男の姿があった。


「九里香さん」


 床を眺める九里香に、珊瑚が声を置いた。彼女はただ九里香の顔を見上げて、微笑んでいた。彼女を眺める視界の中心で、蒼く蠢くモノがあった。


「……鳥?」


 珊瑚の膝の上で、うぞうぞと動くモノ。畳んでいた羽を伸ばすようにして、それは顔を上げる。


 ぎい。


 鷹にしては嗄れたそれは、九里香に優しく語りかける様子で、一つだけ声を置いた。




第三章:貞潔な翼〈了〉

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