貞潔な翼⑤

 九里香の手は煙草の入ったズボンのポケットに自然と向かっていた。直後、医療施設にいるのだということを思い出して、九里香はその手を自らの前髪に置いた。髪を掻き上げて、ベッドの上に視線を向ける。珊瑚は酷く冷ややかな目で、彼を睨んでいた。


「もう危篤だと思ったんだがな。随分と元気が良さそうじゃないか」

「……花嫁や花婿がつける傷は、呪いのようなものですから。以前、ハバチを相手にした時の傷だって、正体を暴いた時に消えていたのを覚えておりませんか」


 その言葉を聞いて、九里香は「そうか」と僅かに口角を上げる。珊瑚は呆れたように肩を落とした。


「彼の方のつけた傷が原因で昏睡していた私が目を覚ましたということは、則ち、彼の方は花婿ではなくなった……亡くなられたということです」

「そうか」

「つまりは、貴方が殺したということです」

「あぁ……神に似たものだというから、殺せないんじゃないかと少し冷や冷やしていた。が、そうでもなかったんだな」


 安心したよ。と思ってもいないことを九里香は乾いた微笑みと共に漏らす。彼は投げ出した足先で、空になった頭蓋の隅を突いた。

 言葉が噛み合っていないことは、珊瑚も九里香も互いに理解していた。それを気にも留めない九里香に対して、珊瑚は明確に苛立ちを見せていた。


「とりあえず、その足を退けてください。もうその方は動きません。ご遺体をそれ以上傷つけないでください」


 珊瑚の指示に、九里香は「わかった」と静かに足を引いた。床に擦りつけた靴裏で、血痕の線を引く。


「お前が『祓い』にこだわる理由はこれか」


 九里香の呟きに、珊瑚は答えない。彼は溜息を吐きながら、ベッドの柵に手をかけた。重だるい体を支えて、一息の後に立ち上がる。


「ヒトの姿をしたものが死ぬのは、嫌か」


 柵を伝い、白いシーツに触れる。九里香の指が、珊瑚の指に触れた。彼女は白く細い指を、反射的に胸元へと引っ込めた。


「その気になれば、いつだってこいつらを殺せるという事実を、それを知っていて、お前は殺すのを嫌がっている。ヒトの姿をしているから」

「……違います」

「違うなら何故、こんなあっさりと殺せたんだ。この事実を知っていれば、最初からお前が現場に出て、そんな生死を彷徨うような怪我だって、しなくて良かった筈だ」

「違うんです、九里香さん」

「何が違う。こいつらが殺せる存在だって言うなら、片っ端から駆除すりゃ、もっと被害は抑えられた筈だ」


 珊瑚の首を、九里香の手が覆った。片手に収まった少女の首は、黒ずんだ粘液に濡れた。


「須藤だって死ななくて良かったかもしれないだろ……なあ」


 震える九里香の声が、彼の腕の骨を伝う。伝導したそれは、珊瑚の内耳と頭蓋とを同時に振動させた。珊瑚は胸に当てていた手を、九里香の手に重ねた。成人男性にしては細い手首を、指先で撫でる。浮いた血管は、珊瑚の気道を潰さないようにと空間を作る筋肉のハリを示していた。


「九里香さん、ご質問にはお答えします。ですが、その前に、私からの問いに答えてはいただけませんか。場合によっては、一刻を争うことになるのです」


 小さな珊瑚の声は、不安が含まれていた。それは珊瑚が自身の生命に向けたものではない。どちらかと言えば、九里香に向いている。それに彼自身が気付いたのは、珊瑚の瞳が苛立ちや驚愕ではなく、より暖かな困惑に染まっていたからだった。


「……九里香さん、骨は軋まないですか?」


 珊瑚はそう言って、九里香の肘に触れた。筋繊維を確かめるように、少しずつもみしだくように指が動く。痒みにも似た不快感を飲んで、九里香は「は?」と眉間に皺を寄せた。


「痛みは無いですか。筋肉が割れるみたいな、骨を少しずつ破砕されるとか、そんな痛みなんですけど。あとは、内臓が破れるような感覚とか……鼻血は出ていませんか。その口元の血は全て彼の方のものですか」


 立て続けに問いかけられる言葉は、九里香の中から急速に熱を奪った。それら全てに否を押しつけるよりも前に、九里香は乾いた笑いと共に口を開いた。


「お前、俺が裁断機か何かに放り込まれたとでも思っているのか?」


 九里香がそう言って手を引くと、珊瑚はハッと目を見開いて口を閉じた。彼女は開いた目を細めて、僅かに溜息を吐くと「そうですね」と僅かに口角を上げた。


「そのような表現が正しいかもしれません。花嫁や花婿を殺すということは、この街を守る神の分身を殺すこと……故に、その身は中身から裂け、砕かれ……死にます」


 静かに語る珊瑚を見つめて、九里香はもう一度首を捻った。


「……どうもこの街の『神』ってのは、物騒な奴らしいな」


 冗談めいたことを言える程度には、九里香の身体に異変が無いことは、その言葉を聞いた時点で珊瑚も理解していた。ホッと彼女は胸を撫で下ろした。同時に、九里香も僅かな溜息と共に安堵に似た何かを吐いた。


「つまり、お前が花嫁や花婿が殺すのを避けていたのも、その『罰』を恐れてだな」

「はい。ですが、説明しておくべきだったとは反省しています。その、九里香さんがここまで思い切りの良い方……と、言いますか、その……ヒトを殺害するような方とは思いませんでしたので」


 そうかい。と、九里香は肩をすくめて見せた。彼は気の抜けた様子でベッドの隅に腰を下ろした。汚れていくシーツのことなど構うことは無かったようだった。


「それを踏まえて、私から一点、お聞きしたいことがあります」


 ふと、唐突に珊瑚が口角を下げた。それに合わせるようにして、九里香もまた表情を床に落としていた。


「九里香さん、貴方は一体、何者ですか」


 は。と小さく九里香は眉間に皺を寄せた。それは一種の威嚇であった。だが、珊瑚は唾を喉に通して、再び口を開いた。


「ヒトの形をしたものを殺すことに躊躇が無い……これはそういう精神をお持ちであると思えば理解はします。ですが、それ以前に、貴方は受けるべき『神罰』を受けていない……誰も避けられる筈のなかったものを、何も知らないまま避けている。それに……」


 珊瑚はそうやって言葉を続けた。九里香の無反応を見て、言葉を選ぶことに必死だった。口にしようとしていたことが、彼の琴線に触れる気がして、珊瑚は一度口を噤んだ。左手でナースコールのボタンを探った。念のため、と頭の隅にその存在を置く。だが、思考を続ける三秒後、九里香がその左手を掴んだ。


「誰か、お前に俺のことを吹き込んだな?」


 九里香の細いながらもしっかりとした骨筋が、珊瑚の手首に痣を作る。痛みに唇を噛むと、九里香は一瞬だけその力を弱めた。


「ぐ、宮司さんから、お祖父様から、貴方について忠告を受けました。貴方は『夜咲の子』だから……『遺児』だから、早々に離婚して、街から追い出すべきだと」


 珊瑚の言葉を聞いて、九里香は目を丸くした。その一瞬の隙を突いて、珊瑚は彼の手を振りほどいた。力を失ったそれは、珊瑚の弱った力でもいとも簡単に外れた。


「九里香さん、夜咲の子とは……遺児とは何ですか? 貴方は城島九里香。城島家のご長男。私が貴方と結婚したときに知ったのはそれだけです。それ以外に、何かあるんですか」


 驚くような素振りを見せる九里香に、珊瑚はそう言って、眉間に皺を寄せた。互いに困惑していることだけはわかった。


「俺は」


 一瞬、震えた声で九里香がそう呟いた。だが、彼はフッと小さく息を吸って、視線を珊瑚から逸らした。落ち着けと己に言い聞かせるようにして、九里香は自らの喉を自らの手で撫でた。


「俺は城島家の誰とも、父親とも母親とも血が繋がっていない。十年前……中学に入学するとき養子に入って、城島九里香という名前を……戸籍を与えられた」


 その語り口は冷淡だった。無理に熱を落としていることは、珊瑚にもわかった。


「それ以前のことは、俺自身もあまり覚えが無い。いや、記憶が無いわけじゃないんだが、その……時間感覚を持っていなかった、という言葉が正しいか」


 九里香はそう言って、もう一度息を吸った。喉に置いていた手を頭に置いて、掻き毟る。どうにも言葉に窮しているらしい。珊瑚はそれをただ見守っていた。


「……俺は生まれついてから、十一年前に保護されるまで、暗闇の中で『飼育』されていた。食事係の、世話係以外の誰とも関わらずに、何がいるのか、何が置かれているのかもわからない、光の一切入らない何処かで……この世に朝と夜があることすら知らないまま、生かされていた」


 ぽつり、ぽつりと、九里香の口元から力が抜けていく。それは何か、諦めというものにも似ていた。珊瑚は相槌を打つことも無く、一瞬だけ彼の指先に触れて、言葉の続きを待った。


「それ以外は、何も……何も知らない。何で俺が飼育されていたのかも、皆が言う夜咲という言葉も、遺児という意味も――――俺自身のこと全て、何も」


 僅かに熱の籠もった声を落として、九里香は頭を下げた。抱えた両膝の間で、自らの顔を隠す。

 珊瑚はそんな彼の様子を、ただ見ていることしか出来なかった。

 

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