貞潔な翼④

 胡粉に塗られたように血色の失われた頬は、生を感じられないが故に、艶やかだと思えた。九里香の他人よりも劣った感性でさえ、生死を彷徨う珊瑚に対してそんな感情を抱いていた。

 交通事故を装って搬送された大学病院は、珊瑚の状態を危篤と呼んでいた。九里香が小綺麗な個室で付き添いを許されたのも、彼女の肩に開いた穴が塞がることは無いとの判断からだろう。妙に息が穏やかであることを除けば、素人である九里香でさえ彼女が明日死んでもおかしくはないことを理解していた。

 病室の隅に座る九里香の口元では、言葉にならない思考がぐるぐると回っていた。疑問も謝罪も、感謝もある。けれど、彼の口を覆う程に大きかったのは、疑問であった。


 ――――何故お前は、身を挺してでもあの異形を祓おうとするのか。


 形はヒトに似せられているとはいえ、人間と同じ大きさの猛禽類。それだけで襲われれば死ぬことくらい直感で理解出来る。その辺のゴミを漁るカラスの爪だって、人間の手を同じ大きさになれば、クマやライオンのそれと変わりない。そんなカラスよりもずっと大きく、狩りを得意とする鳥類。加えて怪異などという得体の知れない異形である。よくもそんなものがいると知りながら、この街を離れないものだと、九里香はフッと息を吐いた。


 そんな九里香が息を吐ききった頃、個室のドアが静かに開いた。看護師か医者か。九里香が確かめようと目にした先には、頭に包帯を巻いた瀬川がいた。


「九里香くん、お茶買ってきたんですけど、飲みます?」


 朝を迎えようとする一室で、彼はそう言って両手のペットボトルを振った。九里香が「ありがとうございます」と一言置くと、瀬川は緩んだ頬で九里香の隣に腰を下ろした。


「珊瑚さん、傷、大丈夫ですかね」


 息をするように瀬川はそう呟く。大丈夫なわけがないだろう。そんな言葉を飲み込んで、九里香は歯を見せて笑って見せた。


「以前、大学で花嫁を祓ったときにも、結構怪我してたんです。でもすぐにけろっとした顔でいつもの様子に戻りましたよ」

「そう。なら良いんですけど。その……」

「瀬川さんのせいではありませんから、気に病まないでください。榊刑事や俺がもう少し近くにいれば……いえ、寧ろ、協力を頼んでおきながら怪我をさせてしまったこと、珊瑚に替わって謝罪させてください」


 すらすらと出る弁明に、吐き気がした。慌てた様子で「謝罪なんて」と何度も反芻する瀬川の顔が、その不快感を削っていく。僅かに軽さを得た口で、九里香は困ったように笑って見せた。


「今度、珊瑚や榊刑事とも一緒に食事に行きましょう。割り勘して、それでお互い様ってことで、どうですか」


 九里香がそう言うと、瀬川は「良いですね」と柔らかに頬を持ち上げた。

 器用に笑う人だ。手先はてんで不器用だというのに。瀬川の表情を見て、九里香が僅かに感じたのは、そんなただの感想だった。

 数秒、無言が続く。元々、九里香はそこまで口を動かすタイプではない。その反対を行く忙しない瀬川は、そんな彼の顔を見て、焦ったように唇を震わせた。


「あの、九里香くんもちゃんと休んでくださいね。食事、楽しみにしていますから」


 それでは。と言って、瀬川は踵を返した。何も言えないまま、九里香はそんな彼の細い背を見つめた。個室のドアが閉まる。再び静寂を取り戻した室内で、遠い夜明けを待つ。日が昇るまでは気が抜けなかった。


「……狙われているのはお前なんだな、珊瑚」


 回答は無い。答え合わせにはなっていない。だが、状況が九里香の中にそんな答えを生み出していた。

 珊瑚があの怪異に襲われた一瞬。それは、瀬川が僅かに珊瑚から離れた時だった。より正確に言えば、瀬川の腕が届かないギリギリの距離。咄嗟に掴むことの出来ない一瞬の隙を見て、あの異形は珊瑚の肩を掴んだ。瀬川が狙われたわけではないということは、彼が病室に一人で入ってきた時点で明白だった。廊下を歩いてくる間に一人になった時間は十分存在しただろう。だがその時間を狙って、怪異が現れることは無かった。


 ――――可能性の消去法は終わった。なら、やることも決まっている。


 息を吸った。ペットボトルの中身を揺する。不眠症であることに感謝したのは人生で初めてのことだった。

朝を迎えるまで、珊瑚の傍を離れないこと。そして、怪異が入り込む隙間を開けないこと――――頭の中で、九里香はそう唱えた。一人にならなければ襲ってこないという個体ならば、それだけで十分なはずだ。何より、大学での一件を考えれば、鳥類が入ってこられる程度の隙間が無ければ、病室にも入ることは出来ないはずである。どうにも珊瑚の話を聞く限り、あの怪異というものは、ヒトは壊しても、ヒトが作り上げたモノの形そのものは壊さない性質があるらしい。そうじゃなければ、大学で九里香を襲ったあの芋虫も、窓を割って二人を襲ってきた筈である。

 自ら導き出した納得を、唾で飲み込んだ。

 一瞬の眠気を、九里香は噛み殺した。手に持ったペットボトルの蓋を開ける。カフェインなど殆ど効かない体質であることは理解しつつも、九里香は吐き気を催す五百ミリリットルの緑茶を飲み干した。


 ペットボトルから口を離した。もう一度、息を吸った。



 息を吐く。首の骨が痛んだ。九里香の指は自身のうなじを摩っていた。冷たい夜風が頬に当たる。カーテンがカラカラと音を立てて開いたり閉じたりを繰り返す。


「は?」


 半開きだった瞼が開く。落ち着いていた心臓の動きが速度を上げる。口がぱくぱくと鯉のようにただ動いた。右肩が冷たい。リノリウムの床に押しつけた側面が痛んだ。九里香が珊瑚の眠るベッドの、そのすぐ横で眠りこけていたことに気付いたのは、コンマ数秒が経ってからのことだった。

 喉を通ったはずの、水分の余韻が無い。軽いカラカラという音が足下で転がった。中身の無いペットボトルを蹴りつけて、九里香は開いた窓に目を向けた。風が一際強く吹き付ける。瞬き一回。その隙に、九里香の目の前から街の光が失われた。

 否、九里香の視界は、虎柄にも似たまだらの袴に覆われていた。その姿には見覚えがあった。はためく裾――――翼の下には、黒い斑点があった。それが珊瑚の血液であっただろうことは、容易に想像がついた。灰色の目を覗かせて、「男」は首を傾げた。


「ちょーだい」


 何処から喋っているのか。だが、それは確かに九里香の鼓膜を震わせた。


「ちょーだい。ちょーだい」


 まるで、子供のようだ。

 そんな感想を思い浮かべる。首だけが動くその男は、ずるずると覚束ないまま、裾を引きずって窓から部屋へと入り込む。仮面のような口元がぱかりと音を立てて開いた。腐った内臓の臭いが部屋を満たす。


「ちょーだい」


 鳴き声のようにヒトの言葉を繰り返すそれは、這うようにしてじりじりと九里香に迫った。


「……何が欲しいんだ」


 対話を試みたところで、結果は見えていた。決裂を知っていながら、九里香は確かにそう問いを零した。

 男――――異形の花婿は灰色の目を細めて、その視線を珊瑚の方へと向けた。



 ――――瞬間、九里香の足が、その眼球の横へと吸い込まれる。躊躇の無いそれは、頭蓋を砕くことを目的としていた。九里香の足の甲は、サッカーボールでも蹴り出すかのようにその「頭」を的確に捉え、はじき飛ばす。


「女の取り合いしてるって時に目え逸らしてんじゃねえよ、鳥頭」


 跳ねるようにして床を転がった「花婿」は、震えながら九里香を見上げる。視線が合うよりも前に、九里香はベッド横の椅子の縁に手をかけた。

 そうして、無言のままに椅子の脚を這いつくばる花婿の上へ掲げた。

 線ではなく、点で。小さく何度もではなく。大きく振りかぶって、一度。大きな衝撃を四つの点で集中的に加える。その程度でヒトの胸部に穴が開くことは無かった。だが、その上に成人男性の体重が乗れば、時間がかかっても、平均的な人間の胴体であれば穴が四つか三つは開く。

 包丁など無くとも、ヒトの形をしたモノを壊すことは容易い。


「……ヒトの形は脆いんだよ。生身では逃げることにも、戦うことにも向いていない。爪を立てられただけで肉は抉れ、骨は折れる。叩きつければ内臓が割れる。何度も殺した癖に覚えてねえのか? やっぱ鳥は三歩歩くと忘れるのか?」


 九里香のそれに殺意は無かった。ただ、おそらく一般的に怒りと呼ばれるようなモノはあった。煮えるようなそれは、ある二人の女に起因していた。隣で眠る一人を背にして、九里香は椅子の上で左膝を抱える。唯一僅かな体重を支えていた右足から、力を抜いた。


「ヒトというのは、両手……道具を使う方向へ進化した生物だ」


 ぎしり、と音が鳴った。椅子の脚は尖ってはいない。丸いプラスチックが、肋骨を割って胸部に入り込む。


「あ、あ、う、ああぁ、う、ぐ」


 既に言葉を失った花婿は、肺から空気を吐き出していく。きいきいと甲高い声が合わせて九里香の脳裏に響いた。金属音にも似た鳴き声が、酷く不快だった。


「ヒトの姿に飾り立ててもな、手も道具も使えないんじゃ、てめえのナニを満足させることすら出来ないんだぜ」


 そう言って、九里香は椅子から飛び降りる。軽くなった体を丸めて、花婿は大きく息を吸う。その姿は正しく「ヒト」のそれと同じだった。


「手も、道具も、その使い方がわからないなら、お前の頭の中に入っているのは、元の姿と同じ、ティースプーン一杯程度の、神経細胞の塊なんだろうな」


 九里香はそう唱えながら、椅子の角をその頭蓋骨に叩きつけた。


「その声からして、お前はオオタカか」


 丸い頭の。


「服装と目の色から見て、巣立ってすぐの幼鳥だろう」


 骨の薄いこめかみに。


「ませたガキだな。いや、芋虫の方が大概か」


 直角に曲がった鉄が。


「餌の捕り方はちゃんと学んだくせに」


 数ミリ程度のズレは許容範囲。


「ヒトの習性は興味が無かったか?」


 鉄が、めり込んで。


「いやヒトの習性が、畜生より煩雑すぎるのか」


 そして、割れる。


「俺みたいなのがいるなんて、想定外だろうしな」


 呼吸を置いて、九里香は堅く握った手を緩めた。機械のように正確な動きで、新鮮な体液を掌で拭い去る。鳥か、神か、人か。そのどれともつかない「生物」が流した血と脳漿が、九里香の手を濡らした。躊躇いの一つも無く、彼はその粘液を口元に寄せた。

 その行為は九里香の無意識のうちに行われていた。茹だるような彼の脳は、殆どが本能で動かされていた。


「――――何度も叩かないでください」


 九里香が口から手を離した瞬間、鈴を鳴らしたような、涼やかな声が病室に響いた。火照った九里香の頭が、その一言で冷えた。上がった体温を吐き出すようにして、彼は息を吐いた。


「スイカ割りでしたら、反則ですよ、九里香さん」

「そうだな」


 頭蓋の内側を晒した男の体を蹴り避けて、彼は床に腰を下ろした。

 そんな彼を見下ろして、珊瑚は眉間に皺を寄せていた。

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