貞潔な翼③

 九里香と榊刑事の二人が腰を落としたのは、社務所の最奥からさらに渡り廊下を進んだ屋敷の、その一室だった。ダイニングテーブルとその上に置かれた茶菓子やミカンの山は、神聖な境内の中にあって、生活感を漂わせていた。壁に貼られた未就学児が描いたようなぐちゃぐちゃの絵が、九里香の目に入った。灰色の頭をした二人と、黒く髪を伸ばした黒い男の三人を描いたそれには、右端にミミズのような字で「たまよりさんご」と書かれていた。


「お茶をどうぞ」


 そう言って、珊瑚が襖の向こうから姿を表す。その手には三つのマグカップが置かれた盆があった。


「宮司さん達と一緒に、三谷さんへの説明も済ませてあります。あの方も九里香さんと同じで理解が早い方ですね。怪異についてもすぐに飲み込んでくださいました。山や水辺でも不思議なことは多いからと」


 彼女は椅子に座ると、そう言ってマグカップの一つを手に取った。


「それで、珊瑚の見解は。正体は導けるのか、それとも花嫁ではない別の怪異か」


 珊瑚の喉が僅かに動いたのを確認して、九里香はそう問う。「そうですね」と置いて、珊瑚は榊刑事と目を合わせた。


「俺の報告が先か?」

「はい。榊さんの様子を見るに、何か追加で情報があるように見えましたので」


 ふむ。と、榊刑事は鼻を鳴らして、胸ポケットに手を入れた。手帳をパラパラと開けると、その一つを指でなぞった。


「お嬢ちゃん達が発見した死体は合計七名のものだった。全ての死体で少なくとも三割以上の筋肉組織が欠損していた。古いものは一ヶ月前、新しいものは昨日の夜に運ばれたものだと考えられている」

「ご遺体の身元は」

「わからない。遺留品で身分証と見られるものがいくつか見つかっているから、二人か三人はすぐに割れそうだが、他はDNA検査なんかやってみないとわからないだろう」


 身元。そう聞いて咄嗟に口を開いたのは、九里香だった。


「す、須藤の……須藤千晶の破片は、見つからなかったんですか」


 須藤千晶が死んだのも、九里香が珊瑚と結婚することになったのも、ここ一ヶ月のことだった。成人女性一人分にしては軽すぎる骨壺の重さを、彼女の葬儀に参加した九里香は知っていた。死体の状況から見ても、その七名の中に須藤がいるだろうことは確実だった。


「悪いが、決定的な証拠が出ない限り、確かなことは言えない。何より、それよりもずっと重要なことがある」


 顔を青くする九里香を置いて、榊刑事は静かにそう断りを入れた。それが一種の気遣いであることは、珊瑚だけが理解していた。九里香が眉を顰める中で榊刑事は表情を変えず再び口を開いた。


「死体の山は別の場所にも存在していた。境内のより深く。十年以上前の白骨死体が発見されたこともを含め、お前達が見つけたものよりも規模が大きい」


 そう言って、彼はテーブルの上に地図を広げた。衛星写真の上から、多都川神社の境内全てを白い線で囲む。その境内の殆どは緑に覆われていた。「第二現場」と書かれた付箋は、境内の最奥である『多都山』の山裾付近に貼り付けられていた。


「おそらく同様の怪異の仕業だろう。死体の形状は同じだった。死体の中で最も古いものは推定十年以上前、新しいもので一ヶ月前だそうだ」

「つまり、今回の怪異は十年前から一ヶ月前まで境内の奥におり、その後移動したと」

「現状の推測からすると、そういうことになるな」


 珊瑚と榊刑事の納得を耳に、九里香は無言で疑問を飲み込んだ。


「何故移動したのでしょう」


 肩が飛び上がる。九里香の視線は珊瑚に向いていた。彼がわざわざ飲み込んだ問いを、その口で吐き出す。珊瑚は薄ら笑いのまま続けた。


「移動さえしなければ三谷さんや私たちに発見されることは無かったはずです。発見されるリスクを負ってまで移動した意味がわかりません。境内の奥で何か起きたのでしょうか。或いは、一ヶ月前、行動を変化させるようなことが、本人……いえ、本鳥にあったとか」


 珊瑚の言葉に、九里香は「本鳥?」と問いを零した。


「えぇ、今回の死体の山は鳥……肉食性の強い鳥類の『花婿』による求愛給餌が原因です」


 さも当たり前だとでも言うように、珊瑚はそう言って席を立った。部屋の隅にあった本棚から、一冊の本を取り出す。古びた子供向けの図鑑を開くと、彼女はそれをテーブルの上に置いた。


「率先してヒトを襲っている点からして、攻撃性の高さ、哺乳類を捕食するのに慣れているといった様子が窺えます。おそらくは猛禽類である可能性が高いかと」


 そして。と、珊瑚は一つ置いて、九里香へ視線を返した。九里香が目を見開いて見せると、珊瑚は丸い瞳を細めた。


「須藤千晶さんを殺害した方でしょう。そして、九里香さんへ思いを寄せていた方」


 珊瑚はそう言うと、九里香の顔を覗き込んだ。彼女は僅かに口角を下げると、再びその口を開いた。


「都市付近を生息地とする猛禽類は、以外にも多いんです。種を同定するためには見た目と……鳴き声の情報が必要になります」


 嫌な予感がする。それだけは、九里香にもわかっていた。その後に続く言葉を、九里香も口の中で転がした。


「……不倫してこいってか、また」


 九里香がそう溜息を吐くと、珊瑚は満面の笑みを浮かべた。




 夏の近づく、摂氏二十度の深夜。猛禽類が住む程度には深い森の中では、どんなに暑くとも皮膚を出して歩くことは憚られた。人間を拒むほどの緑は、『瀬川』の足を竦ませた。


「……珊瑚さん、その、僕はいつまでこうしていれば良いんでしょうか」


 そう言って、瀬川は隣で微笑む少女を見た。珊瑚は表情一つ変えないまま、不安げに眉を下げる瀬川の顔を覗き込んだ。


「とりあえず、今回は日付が変わってから午前二時頃まで粘りましょう。『花婿』が来なければお帰り頂いて構いませんよ。また深夜都合が付く日を後ほど教えてください」


 珊瑚の何処か楽しげなこの表情を、瀬川が直視するのは初めてのことだった。状況さえ違えば彼女に恋をする男の一人でもいるのだろう程度のことは、注意散漫で察しの悪い彼にも理解出来た。ただ、この小柄で丸い目をした美少女が微笑んでいるのは、日付変更直前の、暗い森の中であった。


「瀬川さんも中性的で『花嫁』として迎えられる可能性がありますが、九里香さんには劣りますからね。来ない可能性が高いです」


 ふと、スマホを手にした珊瑚は、そう呟いた。その画面には見覚えるのある電話番号と『玉依九里香』の名があった。


「……じゃあ、最初から九里香くんがいた方が良かったんじゃ」


 瀬川はそう言って、背筋を丸めた。風で木の枝が揺れた。その音を瀬川は目で追うので精一杯だった。


「九里香さんは私の夫ですから。前回のような特殊事例や、余程好みの……特殊な条件を持ったヒトでない限り、既婚者が花嫁や花婿として選ばれることはないのですよ」


 それが、縁を結ぶということです。と、珊瑚は頬を綻ばせた。瀬川が横目に見る彼女は、汗一つかかず、顔色も変わらなかった。

 まるで人形のような少女だ。表情の変わらない九里香と比べても、瀬川にはそう見えた。九里香が西洋のセルロイド製の間接球体人形に似た、人間味と創造物としての美を極めたそれであるとするなら、珊瑚というこの少女は、より製造物としての要素の強い、日本人形のようであった。

 硝子珠で出来たような目は動くことがない。数分、数十分、数時間。珊瑚の視線は、あの死体の山があった木々の隙間から逸れることはなかった。

 珊瑚のスマホの画面が光る。深夜の二時を示すその画面を見て、彼女は小さく溜息を吐いた。


「……瀬川さんも、ペンギンの事例などご存じでしょうが、鳥類は同性で番うことも多いんです」


 唐突に何を言い出すのかと、瀬川は首を傾げた。だが、手元のスマホを操作する珊瑚は、瀬川のそんな様子を気にもとめることは無かった。


「ヒトに飼われたインコなどが飼い主に求愛する事例もあります。今回はそれにかけたところもあったのですが……もしかしたら、無駄足だったかもしれませんね」


 そうですか。と、瀬川は苦い口元で笑って見せた。珊瑚のその言葉の端から、残念がっているということは、彼にもわかっていた。瀬川が安堵を漏らした瞬間、珊瑚は一瞬だけ眉をひそめた。その様子を瀬川が目にすることは無かった。


「残念なことに、かの方が深夜の巣としていた場所も、ヒトが荒らしてしまいました。自分がヒトに捕捉されていることは理解しているでしょう。つまり、瀬川さんが花嫁として選ばれないとしたら、来ないと考えた方が良いということです」


 まるで子供のように拗ねている。瀬川がそう理解したのは、珊瑚が彼の肩裾を引っ張った時だった。「帰りますよ」とむくれる彼女を見て、「力になれずすみません」と瀬川はまた背を丸めた。


「そうですね。とにかく、今日は撤退です……――――すみません、九里香さん、榊さん。現場近くまでお迎えに来て頂きたいのですが……」


 スマホを耳に当て、珊瑚は冷えた声を張り上げた。既に身を潜める必要は無かった。隠れる意味を失った珊瑚は、一つ背伸びをして見せた。

 強い風が吹き付ける。山から海へ下りる風が、二人の身体を叩いた。初夏の青臭い草の香りに混じって、死肉の残り香が鼻を刺す。


「早く社務所に戻りましょう。九里香さんにお夜食のご用意をして頂いたので、瀬川さんも食べて帰ってください」


 そう言って、珊瑚は頭を掻いた。「お風呂も入りたいですね」と、彼女は一人言葉を落とした。鼻を擦って、珊瑚は死臭に背を向けた。


 ――――その一瞬、彼女の目には、瀬川が映った。口を開け、目を丸くして己を見上げる瀬川の顔が。


「珊瑚さん! 後ろ!」


 咄嗟に瀬川が上げた声に叩き起こされて、珊瑚は止まっていた意識を取り戻す。二人のその一連の流れは、一秒もしないうちに行われた。

 そのコンマ数秒の間。たったその意識の隙間を縫って、『それ』は這い寄った。


 灰色の瞳が、珊瑚の目の前にあった。鳥類の嘴を象った面に、暗闇の中で目立つ虎にも似た縞模様の羽織。その裾のぬくもりを理解出来たのは、珊瑚がそれだけ『彼』の近くにいたからだった。


 ――――きぃっ、きぃっ、きぃっ。


 鋭く甲高い音が、珊瑚の内耳で響く。一瞬だけ珊瑚は耳に手を置いた。その隙を『彼』が見逃すことは無かった。


 体が浮いた。珊瑚がそう理解したのは、彼女の肩に鋭い痛みと鈍く重い痛みの両方が重なった時だった。

 地面に足裏が付いていない。全ての体重が肩の一つに集中する。その状態で数センチ空中に浮く。それを維持するために、自分の親指と同じ太さの釣り針が、肩を前と後ろから引っかけている。痛覚が脳に何を訴えかけているか分析するには、時間が足りなかった。


「――――ッあ……貴方の、貴方の……名前を、私は……ッ」


 知っている。わかっている。この異形の名を。その正体を。


 珊瑚が声を上げた瞬間、『彼』は彼女を振り回した。軽々と樹木の肌へ、珊瑚の柔らかできめ細やかな皮膚を叩きつける。樹齢数十年の広葉樹と、齢十九の少女とが接触すれば、どちらの方が壊れやすいかなど、少女本人が一番よくわかっていた。


 己の肋骨が折れる感触を抱いて、珊瑚は無理矢理息を吸った。肉と骨が混ざった肩の痛みを、歯で殺す。言葉を紡いでいる暇は無かった。逃走を選ぶ他に無い。

 瀬川は逃げたか。それだけを確認しようと、珊瑚は周囲を見渡した。


――――ぎぃっ、ぎぃっ、ぎぃっ。


 鳴き声が頭に響く。だが、その声を鼓膜が舐めた時、珊瑚の思考が止まった。


「まさか……」


 食い縛っていた歯が緩む。その一瞬、鋭い痛みが再び肩に広がった。打撲で内出血を起こしただろう場所が、手に取るようにわかった。息が吸えない。肺に酸素が入らない。ガス交換を伴わない無駄な呼吸は、痙攣と言って差し支えなかった。

 脳が霞む。視界が黒で塗りつぶされていく。


 その意識の片隅に、珊瑚の名を呼ぶ九里香の声があった。


 それが頭を揺すった瞬間、珊瑚は口角を上げて、眠った。

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